トマス・アクィナス『ニコマコス倫理学註解』第1巻

アリストテレスのテキストトマスの註解
1094a1 「すべての技術、すべての研究、そして同様にすべての…」 第1巻・第1講
1094a18 「さてそこで、行為するべきことがらには…」 第1巻・第2講
1094b11 「主題となる素材に即して明確に述べられるなら…」 第1巻・第3講

テキストはレオニナ版=Sancti Thomae de Aquino Opera Omnia, iussu Leonis XIII P. M. edita, tomus 47, Sententia libri ethicorum (Roma: 1969) を使用。アリストテレスのテキストもレオニナ版所収のラテン語訳から訳出しています。翻訳の誤りや不適切な註などにお気づきの方は、matsune@sea.plala.or.jp へお知らせくださるとたいへんありがたく思います。また、このテキストを引用される場合には出典として URL を明記してください。訳=松根伸治。


1094a1-18.

すべての技術、すべての研究※1、そして同様にすべての行為と選択は、何らかの善を欲求しているように思われる。したがって、人々が善を、すべてのものが欲求するものと言い表していたのは正当であった。ところで、諸々の目的にはある種の相違が見られる。すなわち、目的がはたらきそのものである場合もあるし、はたらきとは別の何らかの成果である場合もある。目的がはたらきとは別のものであるようなことがらにおいては、はたらきそのものよりも成果のほうがより善いものである。さて、はたらき、技術、研究が多数であるのに応じて、目的もまた多数である。たとえば、医術には健康、造船術には航海、戦術には勝利、家政術には富が、それぞれの目的として存する。ところで、これらの技術のうち、あるひとつの力のもとにある技術は何であれ──たとえば、くつわの製作術や馬具に関するその他の技術はすべて乗馬術のもとに属しているし、さらには、この乗馬術に加えて戦争に関するすべてのはたらきは、戦術のもとに属している。そして同じように、他の技術がさらに別の技術のもとに従属しているということがあるのだが──こういったすべての技術の場合、棟梁的な技術の目的のほうが、これに従属しているすべての目的よりもより望ましいものである。というのも、前者のために後者が追求されるからである。だがこのことは、はたらきそのものが行為の目的である場合でも、あるいは、今語られた知識の場合のように※2、はたらきとは別の何らかのものが目的である場合にも変わりはない。

1094a1-18の註

※1 ── ラテン訳の doctrina はギリシャ語原文では methodos である。アリストテレスの近代語訳では、inquiry (Ross, Joachim), investigation (Irwin), Lehre (Bien), discipline scientifique (Gauthier et Jolif) などと訳されている。「探求」「研究」「学問」などの意味を含んだ広い概念と理解しておく。トマスの註解n.8を参照。

※2 ── ここでは episteme が doctrina と訳されているが、この episteme (doctrina) は techne (ars) に近い意味で用いられている。註解n.18を参照。


註解・第1巻・第1講

【トマスによる序言】

1. 【秩序と理性】哲学者が『形而上学』の最初(982a18)で言っているように、秩序づけることは智者の仕事である。なぜなら、知恵とは最も主要な意味での理性の完成であるが、理性に固有のはたらきは秩序を認識することだからである。実際、感覚的能力が諸事物をそれぞれ別々に認識するのに対して、二つのもののあいだの《秩序・関係 ordo》を認識するのは知性あるいは理性だけのもつはたらきである。ところで、諸事物には二様の秩序が見出される。ひとつは、全体や多の諸部分それぞれが相互に有している秩序で、たとえば、ひとつの家の諸部分が互いに秩序づけられている場合がこれにあたる。もうひとつは、ものが目的に対して有する秩序であり、この秩序のほうが第一の秩序よりもより主要である。実際、哲学者が『形而上学』第11巻(XII, 12, 1075a13-15)で言うように、たとえば軍隊の諸部分相互に秩序づけがあるのは、軍隊全体が一人の指揮官〔をいわば目的としてこれ〕に対して秩序づけられるためなのである。

【秩序の四形態】さて、《秩序》は理性に対して四通りに関係づけられる。〔1〕たとえば、自然の諸事物の秩序のように、理性が作り出すことなく、ただ考察するだけの秩序がある。〔2〕また、理性が、考察を通じて理性自身の活動のうちに作り出す秩序がある。たとえば、理性が自らのもつ概念やそれら概念の記号、すなわち意味表示する音声を相互に秩序づける場合がそうである。〔3〕第三に、理性が意志の諸々のはたらきのうちに考察を通じて作り出す秩序がある。〔4〕そして第四に、理性が考察を通じて、理性が原因となって生じる外的な諸事物(箱や家など)のうちに作り出す秩序がある。

2. 【学問の四形態】さらに、理性の考察は学問的な知という習慣によって完成されるものであるから、理性の考察の固有な対象として上記の四通りの秩序が区別されるのに応じて、学問的な知も四通りに区別することができる。すなわち──〔1〕自然哲学には、人間の理性が考察はするが作り出しはしない秩序を考察することが属している。だから、われわれは自然哲学に数学と形而上学を含めるのである。〔2〕理性が考察を通じて自らのはたらきのうちに作り出す秩序は理論哲学〔=論理学〕に属している。理論哲学が考察するのは、品詞相互の関係と、原理と帰結の関係である。〔3〕意志的諸行為の秩序は道徳哲学の考察に属しており、〔4〕人間の理性によって作られた外的諸事物のうちに理性が考察を通じて作り出す秩序は、工学に属している。このようにして、現在われわれの意図が向けられている道徳哲学(philosophia moralis)に固有なことは、人間的な諸々のはたらきをそれらが相互にあるいは目的に対して秩序づけられている限りで考察することである。

3. 【道徳哲学の主題】ところで、私が人間的なはたらき(operatio humana)と呼ぶのは、理性による秩序づけに即して人間の意志から生じてくるはたらきのことである。実際、意志と理性に服さないはたらきも人間のうちには見出されるが、これらは固有の意味では人間的とは言われず、むしろ自然的と言われる。これはたとえば、道徳哲学の考察の対象になることのない、植物的魂のはたらきを見れば明らかである。したがって、自然哲学の主題が運動あるいは運動しうる事物であるように、道徳哲学の主題は、目的へと秩序づけられそこへ向かう人間的なはたらき、あるいは目的のために意志的に行動する限りでの人間である。

4. 【社会的動物としての人間】ところで、次のことを考察しなければならない。人間は、ひとりでは用意することのできない多くのものを自分の生のために必要とするという意味で、本性上社会的動物である。したがって、人間は本性上ある種の集団、すなわち、善く生きるための援助を提供してくれる集団の一部なのである。そして人間がこのような援助を必要とするのは二つの理由による。ひとつは、それなしには現在の生を過ごすことができないような、生活に必要なことがらのためである。こういったことのために、人間はその一部である家という集団が人間を助けてくれる。すなわち、どんな人も両親から生まれ、扶養され、しつけを受けるのであり、同様に、家庭の一員である個々人も生活に必要なことがらのために互いに助け合うのである。もうひとつ、人間がその一部である集団によって助けられるのは生の完全な充足のためである。すなわち、人間が単に生きるだけではなく、生を充足させるあらゆるものをもって善く生きるためにも援助が必要なのである。この場合には、人間がその一部である市民集団が人間の助けとなる。それは、物質的なことがら──都市にはひとつの家では満たすことができないことがらのために多くの建造物があるといったようなこと──に関してだけではなく、さらに道徳的なことがらに関してもあてはまる。すなわち、父親の忠告では正すことのできない向こう見ずな青年たちを、公の権力が罰の恐怖によって抑制するというような場合である。

5. さらに、次のことを考察しなければならない。市民集団や家庭というこの全体は、秩序づけによる一性しかもたないが、この一性のもとではものは端的に一ではない。したがって、こういった全体に属する部分は、全体のはたらきではないような何らかのはたらきをもちうる。たとえば、軍隊において兵士は軍隊全体のものではないはたらきをもちうる。しかしそれでも、この種の全体が、部分にではなくて全体に固有であるような何らかのはたらき(たとえば、軍隊全体による攻撃)をもつこともありうる。たとえば、船を動かすことは船をこぐ人たちの集団全体としてのはたらきである。これに対して、秩序づけだけではなくて複合や集合、あるいは結合によって一性をもつ全体もあり、こういった一性のもとではものは端的に一である。したがってこの場合、全体のものではないような部分のはたらきはありえない。実際、連続体においては全体の運動と部分の運動は同じものであり、同様に、複合されたものや集め合わされたものにおいては、部分のはたらきは根源的には全体に属している。それゆえ、こういった全体とその部分を考察することは同一の学に属していなければならないが、秩序づけによる一性しかもたない全体とその諸部分を考察することはひとつの学に属している必要はない。

6. 【道徳哲学の三部門】こうして、道徳哲学は三つの部門に分かたれる。第一は、ひとりの人間の、目的へと秩序づけられた諸々のはたらきを考察する部門で、これは《個人道徳 monostica》★1と呼ばれる。第二は、家という集団の諸々のはたらきを考察する部門で、これは《家政学 yconomica》と呼ばれる。そして第三は、市民集団の諸々のはたらきを考察する部門で、これは《政治学 politica》と呼ばれる。

【テキストに対する註解】

7. 【テキストの区分】さてアリストテレスは、倫理的つまり道徳的なことがらに関する(Ethicorum, id est Moralium)書と呼ばれるこの書物で、道徳哲学をその第一の部門〔=上述の個人道徳の部門〕から論じ始める。まず序文をおき、そこで彼は三つのことをおこなう。〔1〕第一に、考察の意図がどこにあるかを示し、〔2〕第二に、「しかし、主題となる素材に即して…」(1094b11)の箇所で論述の方法を示し、〔3〕第三に、「ところで、どんな人も自分の知っていることがらは…」(1094b27)の箇所で、この学問の聴講者がどんな人であるべきかを示す。第一の点に関して二つのことをおこなう。〔1.1〕第一に、提示された問題を明らかにするために必要なことがらをあらかじめ論じ、〔1.2〕第二に、「さて、われわれがそれ自体のゆえに…」(1094a18)の箇所で、提示された問題を説明する。第一の点に関して二つのことをおこなう。〔1.1.1〕第一に、目的を扱うのが当然であることを示し、〔1.1.2〕第二に、「さて、はたらき、技術、研究が多数であるのに応じて…」(1094a6)の箇所で、人間的諸行為の目的に対する関係を提示する。この第一の点に関して三つのことをおこなう。〔1.1.1.1〕第一に、人間的なものはすべて目的へ秩序づけられていることを提示し、〔1.1.1.2〕第二に、「ところで、諸々の目的には…」(1094a3)の箇所で、諸々の目的の相違を示し、〔1.1.1.3〕第三に、「目的がはたらきとは別のものであるような…」(1094a5)の箇所で、目的どうしの関係をとりあげる。さらにこの第一の点に関して二つのことをおこなう。〔1.1.1.1.1〕第一に、自分の意図を提示し、〔1.1.1.1.2〕第二に、「したがって、人々が善を…」(1094a2)の箇所で、提示された問題を説明する。

8. 【技術、研究、行為、選択】(1094a1)第一の点〔1.1.1.1.1〕に関して、次のことを考察しなければならない。人間的諸行為の根源は二つあって、それは、知性ないし理性ならびに欲求である。これらは『デ・アニマ』第3巻(433a9)で言われているように、動かす根源なのである。ところで、知性ないし理性には思弁的なものと実践的なものが考えられる。また、理性的欲求においては選択と行為の遂行が考えられる。そして、これらはすべて目的としての何らかの善へと秩序づけられている。というのも──真は思弁の目的であるから、それゆえ、思弁的知性に関してアリストテレスは、教師から生徒へ知識が伝えられる《教え doctrina》を挙げ、他方、実践的知性に関しては、この書物の第6巻(1140a6-10)で述べられているように、諸々のなすべきことがらに関わる正しい理性たる《技術 ars》を挙げている。さらに、欲求的知性★2の活動に関して《選択 electio》が挙げられ、行為の遂行に関して《行為 actus》が挙げられているのである。ところで、技術と同様に実践的理性のうちに存する知慮(prudentia)について言及していないのは、〔すでに挙げた〕選択が本来知慮によって導かれるものだからである。したがって、これらのそれぞれが何らかの善を目的として欲求することは明らかだと彼は言うのである。

9. 【善と欲求】続いて「したがって、人々が善を…」(1094a2)と言うとき、彼は提示された問題を善の定義から明らかにしている。この点に関して次のことを考察しなければならない。善は第一のものどものうちに数え入れられ、さらにプラトン派の人々によれば善は存在よりもより先であるとされるが、ことがらの真理にしたがえば善は存在と置換されるのである。ところで、第一のものどもは何らかのより先なるものを通じては知られることはできず、原因が固有の結果を通じて知られるのと同じく、より後なるものを通じて知られるようになる。そこで、善とは固有の意味では欲求を動かすものであるから、動かす力が動きによって明らかにされるのと同じように、善は欲求の動きを通じて説明される。したがって、《善とはすべてのものが欲求するものである bonum est id quod omnia appetunt》と哲学者たちが言い表したのは正当だったとアリストテレスは言っているのである。

10. ここで、悪を欲する人々もいるではないかという反論は成立しない。なぜなら、人が悪を欲求するのは善の観点のもとで──すなわち、その対象を善だと判断しているという限りで──以外にはありえない。この意味で彼らの意図はそれ自体としては善へと向かっており、附帯的に悪という範疇に入ってくるのだからである。

11. ところで、すべてのものが欲求するものと彼が言っていることは、認識を有し、善を把握しているものだけに限ったことと理解するべきではなく、認識を欠いたものたちにもあてはまる。それら認識を欠いたものが自然本性的な欲求によって善へと向かうのは、善を認識するからではなく、何らかの認識をもつものによって善へと動かされることによる。すなわち、矢が射手の方向づけによって的へ向かうように、それらは神の知性による秩序づけによって善へと向かう。ところで、善へ向かうということは善を欲求するということに他ならないから、善へ向かうという意味で行為も善を《欲する》と彼は表現しているのである。しかし、後に(1153b29)言われるように、すべてのものが向かうひとつの善があるわけではない。したがって、ここで叙述されているのは何かひとつの善ではなくて、共通的に考えられた善である。だがやはり、何ものも最高善のある種の類似や分有でない限りは善ではないのだから、個々のどんな善いものにおいても最高善それ自体が何らかの仕方で欲求されているのであり、この意味では、すべてのものが欲求するひとつの善があると言うこともできる。

12. 【目的の分類:はたらきとの関係で】続いて「ところで、諸々の目的には…」(1094a3)と言うとき、彼は諸々の目的の相違を明らかにしている。このことに関して次のことを考察しなければならない。各々のものの欲求が向かう最終的な善は、そのものの究極的な完成である。ところで、第一の完全性は形相というあり方、第二の完全性は《はたらき operatio》というあり方をしている。したがって、目的には次の点で相違があるはずである。すなわち、目的がはたらきそのものである場合もあるが、目的がはたらき以外の何らかの《成果 opus》である場合もあるという点である。

13. このことを明らかにするためには次のことを考察しなければならない。『形而上学』第9巻(1050a23-b3)で言われているように、はたらきには二種類ある。〔1〕ひとつは、はたらく主体のうちにとどまるはたらきで、たとえば、見る、意志する、知性認識する、などである。こういったはたらきは本来《行為 actio》と呼ばれる。〔2〕もうひとつは、外的な質料のうちへ進み出ていくはたらきであり、これは本来《製作 factio》と呼ばれる。製作にはさらに二種類がある。〔2-i〕あるときには、人はただ使用するためだけに外的質料を手にする。たとえば、乗馬のために馬を使い、キタラをひくためにキタラを使う場合がこれにあたる。〔2-ii〕他方、外的質料を何らかの形に変化させるために人がその質料を手にすることもある。たとえば、大工が寝台や家を作る場合である。それゆえ、これらのはたらきの第一〔1〕と第二〔2-i〕は目的としての何らかの成果をもたず、両者ともはたらき自体が目的である。ただし、はたらく主体のうちにはたらきがとどまるという点で、第一が第二よりも優れている。さてこれに対して、第三のはたらき〔2-ii〕はいわば何らかの生産であるが、生産の目的は生み出される成果である。したがって、この第三の種類のはたらきにおいては、はたらきの成果が目的なのである。

14. 続いて「目的がはたらきとは別のものであるような…」(1094a5)と言うとき、彼は第三のもの〔=上記の2-ii、製作というはたらき〕をとりあげている。はたらき以外の何らかの成果が目的であるようなことがらにおいては、はたらきの成果のほうがはたらきそれ自体よりも善いものでなければならない、と彼は言っている。これはちょうど、生み出された成果が生産というはたらき自体よりも善いのに似ている。というのは、目的は目的のためにあるものどもよりも重要だからである。実際、目的のためにあるものどもは、目的への秩序づけによってはじめて善いという性格をもつのである。

15. 【目的と習慣、目的と活動】続いて「さて、はたらき、技術、研究が多数であるのに応じて…」(1094a6)と言うとき、彼は《所有態・習慣 habitus》と《現実態・活動 actus》が目的に対してもつ関係を論じている。そしてこの点に関して四つのことをおこなっている。第一に、様々に異なるものどもは様々に異なる目的に秩序づけられているということを明らかにしている。彼はこう言う。はたらき、技術、教えが多数あるので、これらの目的も様々に異なっているのでなければならない、と。なぜなら、目的と手段のあいだには対応関係があるからである。そしてこのことを彼は次のような事態にもとづいて明らかにしている。すなわち、医術には健康、造船術には航海、戦術には勝利、家政術(家を切り盛りする術)には富が、それぞれの目的として関わっている。ただし、これ〔=家政の目的が富であるということ〕をアリストテレスは多数意見にもとづいて語っているのであり、彼自身は『政治学』第1巻(1256a1-1258b8)で、富は家政の目的ではなくむしろ道具であることを証明している。

16. 第二に、「ところで、これらの技術のうち…」(1094a9)の箇所で、彼は諸々の習慣相互の秩序をとりあげている。はたらきを生み出す習慣(これを彼は《徳 virtus》★3と呼んでいる)のひとつが別の習慣のもとにあるということがありうる。たとえば、くつわを作る技術が乗馬術のもとにある場合がそうである。というのは、馬に乗る仕事の人〔たとえば騎兵〕はくつわをどのように作ってほしいかを職人に指示するが、この意味で、彼は職人との関連で言えば棟梁、つまり主要な職人にあたるからである。そして、乗馬のために必要なその他の道具、たとえば鞍とかそういったものを作る他の技術に関しても、同様の議論ができる。さらにまた、騎馬の技術は戦術一般のもとにある。というのも、古代においては、騎兵だけではなく勝利のために戦う人は誰であれ兵士と呼ばれていたので、騎馬の技術だけではなく、軍事のはたらきに関わるあらゆる技術や力、たとえば弓矢や投石あるいはその他この種のことがらに関するものはすべて、戦術のもとに含まれるからである。そして、同じような仕方で、その他の技術がまた別の技術のもとに含まれているということもある。

17. 第三に、「こういったすべての技術の場合…」(1094a14)の箇所で、習慣の秩序に即して目的の秩序を示している。彼はこう言っている。棟梁的な技術や力のめざす目的のほうが、この主要なもののもとにある技術や力のめざす目的よりも、誰にとっても★4端的に一層望ましいものであるということは、すべての技術や力において共通にあてはまる、と。このことを証明するのに彼はこの事実、すなわち、人々が後者(下位の技術や力の目的)を追求、探求するのは、前者(上位の技術や力の目的)のためであるという事実に訴えている。ところで、テキストは不確定〔で理解しにくいの〕だが、次のように読むべきである。「これらの技術のうち、ひとつの力のもとにある技術は何であれ…こういったすべての技術の場合、棟梁的な技術の目的のほうが…」★5

18. (1094a16)第四に、目的がはたらきの成果であれはたらきそのものであれ、諸々の目的間の秩序に関して違いはないことを彼は示している。それらの技術の目的がはたらきそのものであれ、はたらきとは別の何らかの成果であれ、〔上述の目的間の〕秩序に関する限り何ら違いはなく、それは今述べた諸々の知識〔あるいは技術〕において明らかである、と彼は言っている。★6 実際、くつわ製作術の目的は作り出されるくつわであるが、これより主要な騎馬の技術の目的は馬に乗るというはたらきそのものである。ところが、医術と体操においては逆の関係がある。すなわち、医術の目的は健康という何らかの成果であるのに対して、医術のもとに含まれる体操の目的は体の運動というはたらきそのものである。

第1巻・第1講の註
(註番号をクリックすると本文に戻ります)

★1 ── マリエッティ版では "monastica". cf. ST II-II, q.47, a.11, sed contra: diversae scientiae sunt politica, quae ordinatur ad bonum commune civitatis; et oeconomica, quae est de his quae pertinent ad bonum commune domus vel familiae; et monastica, quae est de his quae pertinent ad bonum unius personae.

★2 ── intellectus appetitivus. アリストテレスが「選択」を説明する際に用いる次の表現に由来する。1139b4-5: e orektikos nous he proairesis e orexis dianoetike (vel appetitivus intellectus electio, vel appetitus intellectivus) cf. ST I-II, q.13, a.1, c.

★3 ── cf. ST I-II, q.55, a.2, c.

★4 ── トマスは omnibus (panton: 1094a14)を quoad omnes と解釈している。

★5 ── すなわち、関係詞 quaecumque (hosai: 1094a9) の導く節が in omnibus (en hapasais: 1094a14) の前まで続くので、この部分を一連の文として読むということ。たしかに、OCT のギリシャ語のテキストでもこの部分は一文になっている。

★6 ── トマスは quemadmodum in dictis doctrinis: 1094a17-18を、Differt autem nihil 全体にかかる説明として読んでおり、われわれの解釈とは異なる。


1094a18-b11.

さてそこで、行為するべきことがらには、私たちがそれ自体のゆえに欲し、それのゆえにその他のものを望むような何らかの目的があるとするなら、つまり、すべてのものをその目的とは別のもののゆえに望むのではないとするなら──というのも〔もし仮にこういう目的がなければ、目的の系列は〕無限に進み、欲望というものが空虚で無益なものとなってしまうからである──、明らかにこれこそが、善いものであり最も善いものだろう。したがって、その目的を知ることは人生にとって大きな重みをもつ。そして〔その目的を知れば〕、射手が的に向かうのと同じように、私たちはふさわしいものによりよく到達できるだろう。そうであるとすれば、その目的が何であるか、また、どんな学問や力がこれに関わるかを素描的に捉えるよう試みなければならない。

さて、この目的は最も主要で最大度に棟梁的な学問に属していると思われる。そしてこういう学問とは政治学であることは明らかである。というのは──国家においてどんな学問があることが必要であるか、そして、各人がどんな種類のことがらを、どこまで学んで身につけねばならないか、これらのことをあらかじめ定めるのが政治学である。また、最も尊重される力、たとえば、戦術、家政術、弁論術がこの学問のもとに含まれているのを私たちは見る。そして、政治学は他の実践的※1諸学を用い、さらに、何をなすべきで何を避けるべきかを立法するのであるから、この学問の目的は別の諸学の目的を包括している。それゆえ、この目的こそが人間的善であろう。というのは、一個人と国家にとっての善が同じであるとしても、国家の善を獲得し保持することのほうがより大きくより完全であると思われるからである。一個人だけにとっての善を獲得し保持することもたしかに望ましいことではあるが、民族や国家にとっての善を獲得し保持することのほうが一層善く、神的なことである。そして、私たちの探求はまさにこのことを目指しているのであり、それは国家に関する何らかの探求〔=政治学〕である。

1094a18-b11の註

※1 ── Bywater は praktikais (1094b4) を削除する読み方を提案し、多くの近代語訳もこれを採用している。そのほうが議論の流れも明確になると思われるが、トマスは、ラテン訳テキスト reliquis practicis disciplinarum に忠実に解釈し、思弁的な学と実践的な学に対して政治学の関わり方が異なるという論点を持ち込む。註解 nn.26-29を参照。


註解・第1巻・第2講

19. 【テキストの区分】「このようにして、行為するべきことがらには…」(1094a18)。自分の主張を示すために必要なことがらを前提として述べた後で、ここで哲学者はその主張を証明すること、すなわち、この学の意図が主として何に関わるかを明らかにすることへと進む。このことをめぐって彼は三つのことを論じる。第一に、先の前提をもとにして、人間的なことがらには何かある最善の目的が存在することを示す。第二に、「したがって、その目的を知ることは…」(1094a22)の箇所で、その目的に関する認識をもつことが必要であることを示す。第三に、「さて、この目的は最も主要で…」(1094a26)の箇所で、その目的の認識がどんな学に属するかを示す。

【最善の目的/議論の構造】第一の点に関してアリストテレスは三重の論理を使う。そのうちで主要な第一の論拠は次のようなものである。何であれ目的とは、私たちがそれのゆえに他のものを意志するそういうもののことであるが、ある目的を他のもののゆえにではなくそれ自体のゆえに私たちが意志するならば、こういう目的はただ善いというだけではなく、最も善いものである。このことが言えるのは、別の目的がそれのゆえに追求されるような目的が、常により主要な目的だからである。これはすでに語られたこと(1094a14; n.17)から明らかである。ところで、このような目的が存在していなければならない。それゆえ、人間的なことがらにおいて何か善い目的、さらには最善の目的がある。

20. 彼はこの小前提〔上述の「このような目的が存在していなければならない」という命題〕を証明するのに、第二の論拠として以下のような帰謬法を使う。ある一つの目的が別の目的のゆえに欲されることがあるのは、前述のこと(1094a14; n.17)から明らかである。それゆえ別の目的のゆえに欲されることのない何らかの目的へと至りうるか、そうでないかのどちらかである。もし至りうるのであれば先の命題は成り立つ。他方、このような目的を見いだせないとすれば、あらゆる目的は別の目的のゆえに欲されることになり、そうなればこれが無限に進んでいかざるをえない。ところが、諸々の目的の系列において無限に進むなどということは不可能である。★1それゆえ、別の目的のゆえに欲されることのない何らかの目的が存在していなければならない。

21. さて、諸目的の系列において無限に進むことが不可能であるということを、アリストテレスは第三の論拠によって示す。この論拠もまた帰謬法であり、次のようなものである。──仮に諸目的の欲求において過程が無限に進むとするなら、すなわち、ある一つの目的は常に別の目的のゆえに欲されるということが無限に続くとするなら、欲した目的を人が獲得するという事態にはいつまでも至ることができないということになるだろう。ところで、人が決して獲得できないものを欲するのは無益で無駄なことである。それゆえ、目的を欲することは無益で無駄なことだということになる。ところが、この目的は自然なものである。「善とはすべてのものが自然本性的に欲するものである」とすでに言われた(1094a2-3; n.9-)からである。したがって結局、自然な欲求が無駄で空虚なものであるという結論になってしまうが、これは不可能である。なぜなら、自然な欲求とは第一動者の秩序づけによって諸事物にしっかりと内在している傾向性にほかならず、そういった傾向は余分なものではありえないからである。それゆえ、〔最初の仮定が誤りだったのであり〕目的の系列が無限に進むことは不可能なのである。

22. このようにして、他のすべてのものがそれのゆえに欲求され、この目的自体は他のもののゆえに欲求されることはない、そういう何らかの究極の目的がなければならない。そして、人間的なことがらの最善の目的がなければならないことになる。

23. 【究極の目的を知ること】続いて、「したがって、その目的を知ることは…」(1094a22)と言うとき、彼はこの目的を知ることが人間にとって必要だということを示す。そしてこのことをめぐって二つのことを論じる。第一に、このような目的を知ることが人間には必要だということを示し、第二に、「そこで、そうであるとすれば…」(1094a24)の箇所で、その目的について何を知るべきかを示す。さて、はじめに彼は前述のことがらから次のように結論づけている。人間的なことがらの何らかの最善の目的が存在しているのだから、その目的を知ることは人生にとって大きな重みをもつ、すなわち、人間的生の全体にとって大きな助けになる、と。このことは次の論拠から明らかである。別のものへと向けられているものを正しく獲得するためには、人はその当のものが向けられるべき方向を知らねばならない。これは、射手が矢を向ける的を注視することで、矢をまっすぐに放つ例を考えてみれば明らかである。ところで、人間的生の全体は人間的生の究極のそして最善の目的へと秩序づけられていなければならない。それゆえ、人間的生が正しくあるためには、人間的生の究極で最善の目的について認識をもつことが必要である。なぜなら、目的のためにあるもの〔=手段〕の特質は常に、目的そのものから受け取られるべきであるからであり、これは『自然学』第2巻(200a5-b8)でも証明されている。

24. 続いて、「そこで、そうであるとすれば…」(1094a24)と言うとき、この目的に関して何が知られるべきかを示している。彼はこう言っている。最善の目的を知ることが人間的生にとって必要であるのだから、その最善の目的とは何か、また、その考察が思弁的・実践的などんな学に属しているかを捉えるべきである、と。「学問 disciplina」ということで思弁的な学を、「力 virtus」ということで実践的な学を(力とは何らかの活動の根源であるから)彼はそれぞれ理解している。ところで、これらについて規定するよう「試みなければならない」と彼が言っているのは、人間的生の究極の目的を捉えることの含む難しさ(最も高次の原因を考察する際にはいつもこういう難しさがある)を示唆するためである。また、それを「素描的に figuraliter」、つまり、真実に近い程度で捉えなければならないと彼が言うのは、後に(1094b11-12; n.32-)語られるように、人間的なことがらにはこのような捉え方がふさわしいからである。さて、これら二つのうち第一の点〔=最善の目的とは何か〕は、この研究の本論に属する。なぜなら、こういう考察こそまさにこの研究が考察することがらだからである。他方、第二の点〔=最善の目的に関する考察がどんな学に属しているか〕は序言に属する。序言ではこの教えの意図が明らかにされるからである。

25. したがって、続けてすぐに「さて、この目的は最も主要で…」(1094a26)と言うところで、アリストテレスはこの目的の考察がどんな学に属しているかを示す。このことをめぐって二つのことを論じる。第一に、主張を証明するための論拠を挙げる。第二に、そこで前提としていたことを証明するのが、「というのは──国家において…」(1094a28)の箇所である。さて第一に、主張のための論拠として彼が挙げるのは次のようなものである。最善の目的は最も主要で最も棟梁的な学に属する。そしてこのことは前述のことから明らかである。すなわち、目的に関わる学や技術の下に、手段に関わる学や技術が含まれているとすでに(1094a9; n.16)言われたからである。このようにして、究極の目的は最も主要な学(最も主要な目的に関わるという意味で)、そして最も棟梁的な学(他のものに何をなすべきか命ずるという意味で)に属しているのでなければならない。ところで、政治学こそこういうもの、すなわち最も主要で最も棟梁的な学だと思われる。それゆえ、政治学には最善の目的を考察することが属している。

26. 続いて「というのは──国家において…」(1094a28)と言うとき、アリストテレスは先に前提していたこと、すなわち政治学こそがそういう学問だということを証明している。第一に、政治学が最大度に棟梁的な学であることを示し、第二に、「というのは、一個人と国家にとっての善が…」(1094b7)の箇所で、それが最も主要な学であることを示す。第一の点に関して二つのことを論じる。はじめに、棟梁的な学に属することがらを政治学(politica sive civilis)に帰し、次に、「そして、政治学は他の実践的諸学を用い…」(1094b4)の箇所で、このことにもとづいて結論を導き出す。

【棟梁的な学としての政治学】さて、棟梁的な学(scientia architectonica)には二つのことが属しており、その第一は、棟梁的な学はそのもとにある学や技芸に対して何をなすべきかを命じるということである。たとえば、乗馬術がくつわの製作術に注文をするのがそうである。第二は、それら〔=自らのもとに含む学や技芸〕を自らの目的のために利用するということである。ところで、これらのうち第一のことは実践的な学の観点からであれ、思弁的な学の観点からであれ同じように、政治学にあてはまる。ただし、そのあり方は別々である。実際、政治学が実践的学に命じるのは、その学の実行に関して(すなわち、なすべきかなさざるべきか)と、行為の決定に関しての両方である。たとえば、政治学は鍛冶屋に彼の技術を使えと命じるだけでなく、しかじかの小刀を作るために技術をこのように使えとも命じる。実際、両方とも〔=行為の実行それ自体も具体的に何をなすべきかも〕人間的生の目的に秩序づけられたことである。

27. しかし、政治学が思弁的学に対して命じるのは、その実行に関してだけであり、行為の決定には口を出さない。実際、政治学はある人が幾何学を教えたり学んだりすることを命じる。これは、こういった行為が意志的である限りにおいて道徳の問題に属しているからであり、人間的生の目的へと秩序づけられうるものだからである。しかしながら、政治家が幾何学者に向かって三角形について何を結論すべきか命じるなどということはない。なぜなら、こういうことは人間の意志に属しておらず、人間的生に秩序づけられうることでもなく、むしろ事物の本質〔=客観的な自然の世界の法則〕に左右されることだからである。したがってアリストテレスは次のように言う。国家において、思弁的学にせよ実践的学にせよどんな学問があることが必要であるか、また、誰がどんな学をいつの時期まで学ぶべきかを政治学はあらかじめ定める、と。

28. 他方、棟梁的学の第二の特性、すなわち下位の諸学を利用するという特性が政治学に属しているのは、ただ実践的諸学に対してのみである。そこで彼は次のように付け加えているのである。すなわち、最も貴重な、つまり最も高貴な「力 virtus」、つまり実践的な諸技芸、たとえば戦術、家政術、弁論術が、政治学のもとに含まれているのを私たちは目にする、と。これらすべてを政治学は自らの目的のために、すなわち国家の共通善のために利用するのである。

29. 続いて「そして、政治学は他の実践的諸学を用い…」(1094b4)と言うとき、アリストテレスは二つの前提から結論を導き出す。彼はこう言っている。政治学は実践的学として、残りの実践的な学問分野を利用し(第二の前提)、また、何をなすべきで何を避けるべきかを律法する(第一の前提)から、棟梁的学としてのこの学の目的は、別の実践的諸学の目的を包含している、つまり自らのもとに含んでいるという帰結になる。そこで彼はこう結論することになる。これ、すなわち政治学の目的は人間的善である、すなわち人間的なことがらにおける最高善である、と。

30. 【主要な学としての政治学】続いて「というのは、一個人と国家にとっての善が…」(1094b7)と言うとき、政治学はその固有の目的の特質からして最も主要な (principalissima)学であるということをアリストテレスは示す。というのも──各々の原因は複数の結果へと自らを伸ばすほどそれだけすぐれているということは明らかである。それゆえ、善も、目的因の性質をもっているから、複数のものへと自らを伸ばすほどそれだけすぐれているということになる。したがって、一個人と国家全体の善が同じものだとすれば、一個人の善であるものよりも国家全体の善を獲得・管理し、保持することのほうがはるかに大きくより完全なことであると思われる。事実、人々の間にあるべき愛には、ただ一人の人にとっての善を追求し保持するということがたしかに属するが、これが民族や国家全体に施されることのほうがはるかに善く、より神的なことである。さらに別様にこうも言える。これがただひとつの国家に施されることはたしかにうるわしいことではあるが、多くの国家を含む民族全体に対して施されることのほうがはるかに神的なことである。ところで、このことをより神的と彼が言うのは、すべての善の普遍的原因たる神への類似により多く属しているという理由からである。さて、この善、すなわち個人にも複数の国家にも共通の善こそが、政治学と呼ばれるような何らかの探求(methodus)、つまり技術知(ars)が目指しているものである。したがって、最も主要な学としての政治学には、人間的生の究極目的を考察することが最大度に属している。

31. しかし、政治学を最も主要だと彼がここで言っているのは、絶対的な意味ではなく、活動に関する学(activa scientia)の領域に限ってのことである。それらの学は人間的なことがらに関わり、その人間的ことがらの究極目的を考察するのが政治学なのである。というのは、宇宙全体の究極目的を考察するのは神学(scientia divina)の仕事であり、この学こそがあらゆる意味で最も主要な学だからである。しかし、アリストテレスは人間的生の究極目的の考察が政治学に属すると述べ、やはりこの書物でその究極目的について規定している。なぜなら、この書物の教えが政治学の第一原理を含んでいるからである。

第1巻・第2講の註
(註番号をクリックすると本文に戻ります)

★1 ── 「目的」と訳した finis はそもそも「終極、限界」の意味を含むから、そのようなものの系列が「無限に in infinitum」進むことは、単純に言葉の上でも矛盾しているとも言える。ただし、この講での finis の訳語は「目的」に統一した。


1094b11-1095a13.

主題となる素材に即して明確に述べられるなら、それで十分語られたことにしよう。というのも、あらゆる論述において同じように確かさが求められるべきではないのは、ちょうど諸々の製品の場合と同じだからである。ところで、政治学が考察を目指している善いことや正しいことには、大きな差異とゆらぎがあるので、それらはただ法によってのみあるのであって、自然本性からあるのではないように思われるほどである。ところで、善いものにもこのような何らかのゆらぎがある。※1なぜなら、善いものから害悪が多くの人に生じてくるからであり、実際、ある者は富のゆえに、ある者は強さのゆえに身を滅ぼしたのである。それゆえ、そういったことについて語るのに、そういったことから始めて、真理を大まかに、また素描的に明らかにすることが望ましい。すなわち、しばしばそうであることについて語るのに、しばしばそうであることから始めて、しばしばそうであることを結論することが望ましい。

だから、ここで語られることのそれぞれを受け取る場合も同じ態度で聞くべきである。というのも、ものの本性が許す限りで、それぞれの分野に応じた確実性を求めることが教育のある人にはふさわしいからである。実際、数学者に説き伏せることを許すのも、弁論家に論証を求めるのも似たようなことだと思われる。

ところで、誰でも自分の知っていることは善く判断できるのであり、これのすぐれた判定人である。各々のことがらに関していえば、その教育を受けた人が正しく判断でき、すべてのことに関して教育を受けた人なら端的にすべてを正しく判断できる。したがって、若い人は政治学の本来ふさわしい聴講者ではない。なぜなら、彼らは実生活に即した諸々の行動※2について未経験だが、政治学の論述はまさにそこから始まり、それを対象とするからである。またさらに、若い人は情念に従いやすいので、政治学を聞いても無駄で無益であろう。知ることではなくて行動することが目的だからである。年齢が若いのであっても性格が幼稚なのであっても、同じことである。というのも、そういう欠陥は時間によるものではなく、情念のままに生き、個別的なもの※3を追い求めることによるものだからである。実際、こういう人々にとっては抑制のない人の場合と同じで、認識は無益なものとなる。これに対して、理性に従って欲求し行動する人々にとっては、これらのことについて知ることは大いに有益なことだろう。

さて、聴講者、どのように論じるべきか、私たちが何を目指しているかについて、以上のことが序文として述べられたことにしよう。

1094b11-1095a13の註

※1 ── ta ... kala (1094b14), tagatha (b17) の両方を bona と訳しているために、この一文と前の箇所とのつながりが不明確になってしまっている。

※2 ── ton kata ton bion praxein (1095a3) を eorum qui secundum vitam sunt actuum と訳しているが、ラテン語の構文に無理があり理解しにくい。特に関係代名詞 qui がわかりにくいが、一応上のように訳しておく。註解 n.38を参照。

※3 ── hekasta (1095a8) を singula と訳している。


註解・第1巻・第3講

32. 【学の方法と主題】「主題となる素材に即して…」(1094b11)。哲学者は、この学で主として考察を目指す善が何であるかを示した後、ここではこの学にふさわしい方法を規定する。第一に教える者の側から、第二に、「だから、ここで語られることのそれぞれを…」(1094b22)の箇所で、聴講者の側からそれを規定する。第一の点に関して彼は次のような論拠を述べる。──どんな学においても真理を示す方法は、その学の題材(materia)として定められたものにふさわしいものでなければならない。このことは、何らかのことがらについて私たちが考察するすべての言説において、同じだけ確実性が見いだされることはありえないし、それを求めるべきでもない、という事実から明らかである。これはちょうど、技術によって作り出される製品の場合にも、すべてのものに同じ作業の方法はありえず、各々の職人は素材(materia)にふさわしい方法で素材からものを作り出すのに似ている。蝋、土、鉄と素材が違えば方法も異なるのである。ところで、道徳の題材は、完全な確実性がふさわしくないような性質のものである。このことは、道徳の題材・主題に属していると思われる二種類のものを考えれば明らかである。

33. 【道徳の主題の特質-1】さて、第一にそして主として道徳の主題に属しているのは、ここでは「正しいこと iusta」と言われている有徳な行為である。政治学は主としてこの正しい行為を対象とするのだが、これをめぐっては人々のあいだで確実な判定・見解はなく、人がこれについて判断することがらには大きな差異があるし、そこには多種多様なゆらぎ(error)がありうる。実際、ある人には正しく称讃すべきだと判断され、違う人には不正で恥ずべきことだと判断されるようなことがらもある。このような判断の違いは、時、場所、人物などの相違による。実際、ある時代やある地域で有徳だと判断されることが、別の時代や別の地域ではそうは判断されないことがある。そして、このような差異があるために、自然本性的に正しく称讃すべき行為などなく、すべてはただ法の定めによるのだと考える人々がいるかもしれない。この種の考えについては、第5巻でアリストテレスは十分に論じることになるだろう。

34. 【道徳の主題の特質-2】道徳の主題には第二に、人間が目的のために使用する外的な善(bona exteriora)が属している。そしてこれらの善に関しても、前述のゆらぎが見いだされることがある。それらはすべての人において常に同一のあり方をしているわけではないからである。というのも、ある人にとってはそれが助けになるが、別の人にはそこから害悪が生じてくることがある。事実、自分の富をきっかけに滅んだ人は多い。たとえば略奪者に殺される場合がそうである。また、自分の身体的な強さをきっかけに滅んだ人もいる。彼らは強さを頼んで不注意にも危険に身をさらしたのである。したがって明らかに、道徳の主題は多様で、不定形なものなので、全面的な確実性をもたないのである。

35. 【倫理学の方法】そして、論証的な学のやり方に従えば、原理は結論に合致していなければならないから、「そういったこと」つまり、これほど変化しうることがらについて論じる場合には、同様のものから出発して、〔1〕第一に、真理を「大まかに grosse」示すことが望ましい。「大まかに」とは、普遍的で単純な原理を行為が成り立つ個別の場合、複合された状況に適用することである。というのも、行為に関わる学(operativa scientia)においては複合的な方法で進められることが必要であり、他方、思弁的な学においては逆に、分析的な方法──複合されたものを単純な原理に分解すること──で進められることが必要だからである。〔2〕そして次に、真理を「素描的に」、つまり真理に近い形で示さねばならない。これは、この学に固有の出発点から始めるということである。というのは、倫理学は意志的行為に関わるが、意志を動かすものは善だけではなく、見かけ上の善もまたそうだからである。〔3〕第三に、後に私たちはしばしば生じうることがら、つまり意志的行為について論じることになるが、意志的行為は意志が必然的に生み出すものではなく、一方より他方により大きく傾くことによっておこなう行為である。したがって、原理が結論に合致しているように、そういったことから出発しなければならない。

36. 【聴講者の姿勢】次に、「だから、ここで語られることのそれぞれを…」(1094b22)と言うとき、アリストテレスが示すのは、道徳の領域では今述べた探求の方法を聴講者も受け入れねばならないということである。彼は次のように言っている。各人は他人から自分に語られるそれぞれのことを「同じ態度で」、すなわち題材にふさわしいやり方で受け取らねばならない。なぜなら、「教育のある人」、すなわちよく教育された人には、それぞれの題材においてものの本性が許す限りの確実性を求めるということが属しているからである。変化しうる偶然のことがらの場合には、常に同一のあり方をしている必然的なことがらと同じだけの確実性はありえない。したがって、よく教育を受けた聴講者は、論じられていることがらにふさわしい以上の確実性を求めたり、それ以下の確実性で満足したりしてはならないのである。実際、弁論家のような説得術を数学者が使うのを受け入れたり、数学者が述べるはずの確実な論証を弁論家に期待したり、そういったことを聴講者がするとしたら、それは同じような誤りであると思われる。どちらの誤りも題材にふさわしい方法が考慮されていないことから生じてきている。数学は全面的な確実性が見いだされる題材を対象としており、それに対して弁論術は多様な変化が生じる政治上の題材を論じるものなのである。

37. 【聴講者の資格】次に、「ところで、誰でも自分の知っていることは…」(1094b27)と言うとき、彼はこの学の聴講者がどんな人でなければならないかを示す。第一に、聴講者として不十分な人はどんな人かを示し、第二に、「またさらに…」(1095a4)の箇所で、聞いても無駄な人はどんな人かを示す。そして第三に、「これに対して、理性に従って欲求し…」(1095a10)の箇所で、ふさわしい聴講者はどんな人かを示す。第一の点をめぐって二つのことを論じる。〔1〕はじめに、主張を示すために必要なことをあらかじめ述べる。すなわち、彼はこう言っている。人は自分の知っていることについてだけよく判断することができる。だから、あるひとつの領域のことについて教育を受けた人は、その領域に属することことに関してはうまく判断できるし、すべてにわたってよく教育を受けた人はすべてに関して端的によく判断することができる、と。

38. 〔2〕次に、「したがって、若い人は政治学の…」(1095a2)の箇所で、結論として主張を述べる。すなわち、若者は政治学、さらには政治学のもとに含まれる倫理学全体のふさわしい聴講者ではないという主張である。なぜなら──今言われたように、人は自分の知っていることがらでなければよく判断できない。ところで、聴講者というものは正しく語られたことを受け入れ、誤って語られたことを斥けるために、自分の聞くことがらについてよく判断できねばならない。それゆえ、聞くべきことに関して何らかの知識をもっている人だけが聴講者としてふさわしいということになる。ところが、若者は倫理学が扱うことがらについて知識をもっていない。それは主として経験を通じて知られることだが、若者は人生が短いために人間的生の諸々のはたらきについて未経験である。しかしながらまさに、倫理学の議論は人生の様々な行動に関わることから出発し、それらを対象とするものである。たとえば、気前のよい人とは自分のためにはより少なく残し、他人により多くを与える人だと言われるとき、若者は未経験のゆえにこれを正しいとは判断しないかもしれない。そして他の政治的・社会的なことの場合にも同様である。したがって、若者が政治学のふさわしい聴講者でないことは明らかである。

39. 続いて、「またさらに…」(1095a4)と言うとき、彼はこの学を聞いても無駄な人はどんな人かを示す。ここで考察すべきことは次のようなことである。倫理学は理性に従い、情欲や怒りなどのような心の情念が傾いていく対象から距離をおくことを人に教える。ところで、それらの対象に人が傾くのには二通りの場合がある。ひとつは、選択によってであり、たとえば、人が自分の情欲を満たすためにこの対象を目指す場合がそうである。こういう人をアリストテレスは「情念に従う人」と呼んでいる。★1もうひとつは、人が害になる快楽を避けようと目指しているが、時に情念の衝動に負けて、自らの意図に反して情念の衝動に従ってしまうという場合である。こういった人が「抑制のない人」と呼ばれている。

40. こういうわけで、情念に従う人はこの学を聴講しても「無駄で inaniter」、すなわち何ら効果がなく、「無益である inutiliter」、すなわちふさわしい目的を達成することはできない、と彼は言うのである。というのは、この学の目的は単に知ることではなく(知ることだけならもしかすると情念に従う人でも到達できるかもしれない)、すべての実践的諸学と同様、人間的行為がこの学の目的なのであるが、情念に従う人は有徳な行為に達することはないからである。このようにして、この学の聴講から遠ざけられるという点に関しては、年齢の点で若い人でも性格の点で幼い人(すなわち情念に従う人)でも変わりはないということになる。なぜなら、年齢の若い人が知識としてこの学の目的を達成できないのと同様に、性格が幼稚な人は行動という目的を達成できないからである。後者の欠陥は時間によるものではなく、情念に従って生き、情念が傾いていく個別的なものを追い求めることによるが、こういう人たちにはこの学を知ることは無益なことである。それは抑制のない人の場合も同じである。彼らは道徳的なことがらに関して知をもっていてもそれに従わないからである。

41. 次に、「これに対して、理性に従って欲求し…」(1095a10)と言うとき、彼はこの学のふさわしい聴講者はどんな人かを示す。理性の命令に従って自分のすべての欲望を満たし、外的な行為をおこなう人にとっては、道徳的なことがらについて知ることは大いに有益である、と彼は言っている。

42. そして最後に、彼はこの序言で述べてきたことをまとめてこう言う。聴講者について(これは序言の最後の部分だった)、論述の方法がどんなものか(これは中ほどだった)、私たちが何を目指しているか、すなわち、この学が主として考察を目指しているものは何であるか、この三点について、以上のことが序言として述べられたことにしよう、と。★2

第1巻・第3講の註
(註番号をクリックすると本文に戻ります)

★1 ── Amplius autem passionum ... (1095a4) は前文の iuvenis の説明の続きとして、「若い人は情念に従いやすいので…」と理解するべきであろうが、トマスはそう読んでいない。 n.37, n.40からもわかるように、「若者は(知識の点で)聴講者として不十分」「情念に従う人は(行動の点で)この学を聞いても無駄」と二分して解釈している。たしかに、若者がすべて情念に従うと断言するのもどうかと思うが、もしトマスが解するように「情念に従う人は…」という意味なら、existens (on) は不要ではないか。なお、ここで「情念に従う人」ということでトマスが考えているのは、いわゆる intemperatus(放埒な人)である。

★2 ── 註解 n.7を参照。