Summa contra Gentilesについては、ごく初期の写本(1275年ごろ)でそのExplicitにおいてGentilesの語は使用されているが、これはアクィナス自身のものとは見なされていない。cf.[Introduction],p.102.。この書名の問題は、この書がスペインのパニャフォートのライムンドゥスがイスラム教徒を改心させる目的のためにアクィナスに依頼して書かれたものだという伝承(今日では多くの学者が否定的ではあるが)の問題とも関連し、さらには、infidelis, geniles, paganiといった意味の重なり合う用語の使い分けの問題とも関連する。この問題はさらに、ScGの著作の目的とその根本的性格をどのように捉えるかという厄介な問題にもつながり、ここでは結論を下せることではない。cf.[Hoping],Kapitel B. ただ、gentilesという用語はアクィナスの場合には「古代の異教徒」とりわけ古代の異教徒の哲学者の意味で用いられるのが通例である(paganusもほぼ同様であるが、用例は少ない)ことは疑えないし、この書が古代の異教徒だけを対話の相手にしているわけではないことは明らかである。それゆえ、邦訳の『対異教徒大全』の「異教徒」は、古代の異教徒に限らず広義における「信仰をもたないもの(infidelis)」の意味で理解されなければならない。本訳の注
(24)も参照。
... 哲学者[アリストテレス]が事物に名前を与える場合にそれに従うようにすすめている大多数の人の使用法では2
『トピカ』2巻1章109a27-33.
「また、問題における誤りについては二種類があること、つまり、思い違いをしたり、あるいは、[世間一般に]きまった言い方を踏みはずしたりすること、この二つの場合があることを区別しなければならない。なぜなら、思い違いをするひとは、或るものに属さないものを属すると言って思い違いをするし、また、事物を別種の名によって、たとえば、プラタナスを人間と呼ぶひとは、きまった命名を踏みはずすからである。」(岩波、村治訳)
同書2巻2章110a14以下においても、事物に名前を与えるという行為は「多数の人々」によらねばならないことが、事物そのものの認識との対比で述べられている。
... 一般に、<知者>とは諸事物をまっすぐに3
「まっすぐに」と訳したのは directe である。写本上はこの読みで確定してい
ると思われるが、[E2]はここを recte と直し(根拠は挙げられていないが、フェ
ラリエンシスのこの箇所への注解が一貫して recte としていることによるか?)、
in their right order と訳す。[E1]は rightly、[F1]は droitement、[D1]と[D2]はともに
richtig とし、[F2]は directement としている。[F2]だけが直訳であり、他は
directe の訳としては多少問題があるであろう。しかし、この[n.2]の b)で述べら
れている知者の「秩序づける」という働きは「直接に」というよりも、全体を支
配し統括するという観点からはむしろ「間接的」あり方をしているのであるから、
[F2]以外の諸訳が「直接的に」という訳語を採用していないのは頷けるのである。
そこでここでは、「直接的に」という訳語は採用せず、曖昧に「正しさ」をも意
味し得る「まっすぐに」を用いておく。
...秩序づけそれをうまく支配する人であるとされてきている。だから、人々が知者に関して捉えている他のことにもまして
4
この「他のことにもまして」は inter alia の訳であるが、これをフランス語の
entre autres と同様の意に解した。文脈上 alia が「何にとっての他のもの」
なのかは、論理的には確定できないからである。
...、「秩序づけることが知者に属する」
5
「秩序づけることが知者に属する」という言葉は、内容はその通りであるとしても、そのままの形では、[Marietti]が挙げるアリストテ
レス『形而上学』第1巻2章982a18 では見出されない。この点については、
[Introduction] p.97.でこの文言が当時通用していた「格言(adagia)」であった
と推測している。
...
配的技芸>として<棟梁的技芸>と名づけられるのである6
この点については、『形而上学注解』第1巻第1講n.26.の次の注解を参照。... quia
architectores sciunt causas factorum. Ad cuius intellectum sciendum est,
quod architector dicitur quasi principalis artifex: ab
quod est
princeps, et
quod est ars.
...
「わたしは知者たる建築家として基礎を立てました」と述べられているのである7
この箇所の注解(lect.II,n.148)でも、「端的な意味での知者とは最高の原因つまり神を認識し、それ以外のものを神に則して秩序づける者である」と述べられている。
... それに対して、端的な意味での知者の名は、世界8
[Marietti]のuniversisitatisは誤植。
...
者によれば、「最も高い諸原因」9
この原文 altissimas causas 「最も高い原因」に正確に符合するテキストは、
[Marietti]の挙げる『形而上学』1巻1章981a28以下や982a30-b5はみいだされな
い。
...../j1_44-78/j1_44-78_node?.html#372
10
ScG I,c.44,[n.372](神は知性認識者であること), II,c.24,[nn.1003-6](神は知恵に従ってはたらきをなすこと)。ただ、どちらの箇所においても、神が第一の作者(すなわち創造者)であることは直接的には言及されておらず、第1巻の方で「動者」に言及されているだけである。創造作用が運動とは異なることは、ScG II,c.17で述べられる。
...、知性である。それゆえ、世界の究極目的とは知性の善でなければならない
11
アクィナスはこの主張を様々な箇所でしている。例えば、STI-II,q.57,a.2,ad 3. また、この箇所の[Marietti]のOporterはOportetの誤植。
...
れの考察に留まるのでなければならない12
この原文 circa eius considerationem principaliter sapientiam insistere
については、[E1]だけが sapientiam を insistere の目的語と取り、aims at
と訳している。また、eius consideratio を知者の考察、知者が考察することと
している点でも他の諸訳とは異なる。circa の収まりの悪さ、構文上の問題、ま
た直前のテキストのとの連関からしても、この[E1]の訳は取れない。だが、
DeferrariのLexicon によれば insistere circa という用法はなく、ad を伴ったり与格を
とったりするのが通例である。したがって、このcircaは変則であるが、知恵が
それに関わるべきものが、主として「世界の究極目的」であるとしても、それに
付随する多くのこともまた関わるものであることを示すために、circa という多
少幅のある用語が選ばれたものであろう。神学の主題は神であるが、神へと秩序
づけられている限りでの被造物も考察の対象とされるというアクィナスの主張を
思い起こすべきである(cf. STI,q.1,a.7,ad 2.)。
...
ているのである13
『ヨハネ福音書講解』18章講解6(n.2359)でアクィナスは、アウグスティヌス
とクリゾストモスの異なった解釈を併記して判断を示していない。すなわち、前者によれば「こ
こに生まれ」は「肉における誕生」を意味し、「この世に来た」ことと同義であ
るが、後者によれば「ここに生まれ」の「ここ」とは「御父からの永遠の誕生」
を意味しているとされる。この『対異教徒大全』の箇所ではアウグスティヌスの
解釈に従っていることになる。
...
だからである14
『形而上学』第2巻1章993b30-31.
「こうして、各々のものはそれぞれの有する存
在性の度に応じて、その程度の真理性を持っている。」(岩波、出訳)
...
とも知者に属している15
この「真理言表」と「誤謬の排斥」の両方が知者の努めであるという見方が、「序論」の以下の議論の、したがって本著作全体の基本的トーンとなっていることに注意。そのことは「自然的理性を超えた」ミステリウムを論じる本書第4巻の冒頭の序論でも確認されている。cf.ScG IV,c.1,[n.3348]
...だから、前掲の言葉
16
[n.1]の『箴言』の言葉。
...
いることは適当なのである。すなわち[一つは]、換称的に17
[Introduction] Appendice,p.46. はこのantonomasticeという[Marietti]の採
用する綴りはantonomasiceという[Leonina]のままでよいとする。この後者は中
世においては通常の綴りであったようである。
...
れが「私の喉は真理を省察し」と知者が言ったときに指していたことである18
冒頭の『箴言』のテキスト、veritatem meditabitur guttur meum の meditor
については、主語が「喉」であるがゆえに、「実際に声に出す」ことを意味する
と考えられるかもしれない。だが、この喉は『箴言』の文脈上は「私、すなわち
知恵の喉」であるから、あからさまな比喩であると考えるべきである。この聖書
のテキストは知恵そのものは「真理を省察する」ことだけを語っているが、アクィ
ナス自身は[n.6]で述べているように、「真理を省察すること」と「それを他者に
語ること」とを一応分けた上で、その両方を知者の務めだとするのである。この
[n.7]でも真理を「省察したうえで語る meditatam eloqui」とし、省察することの
先行性を指示していると思われる。つまり、アクィナスは『箴言』の
meditabitur の内容にはただ「省察すること」が含まれ、「実際に声に出す」こ
とまで含まれていたとは捉えていないと見なし得る。
...
ある19
「敬神 religio」についてはSTII-II,q.81、「敬虔 pietas」については
STII-II,q.101を参照。また、III Sent.d.9,q.1.で語られる「神への礼
latria」や theosebia, eusebia(神への畏敬) なども基本的には同じ徳である
と見なされている。
...
と近づくのであり、その神は「すべてを知恵において」なしたからである20
ここの原文は、ad divinam similitudinem accedit, quae omnia in sapientia
fecit: となっており、直訳すれば「万物を知恵において作った神的類似へと近
づく」であるが、[n.8]のb)全体の行論からは、テキストのquaeの意味上の主語は
神そのものと取らざるを得ない。(「万物を知恵において作った」という『詩篇』
104,24の文脈では作ったのは「主」であるということは、当然アクィナスの念頭
にあったであろう。)すなわち、知恵の研究を通じて人間は神に類似したものと
なり、その神と類似しているということが神との友愛による結合の原因であるた
めに、知恵の探究が崇高なものとされているのである。しかし、上記のdivina
similitudoを三位一体のうちの「御父の完全な類似としての御子」と解釈するこ
とも可能かもしれない。その場合には、御子すなわち「知恵そのもの」が「万物
を作った」という理解となり、これが完全に不可能であるとは言えないであろう。
アクィナスの御子についてのさらなる用語法の検討が必要である。
...
8章16節)からである21
[F1]の註3は、第1章との対比においてこの第2章[n.8]が聖書の引用だけによっ
て権威づけられていることに注意している。しかし同時に、完全性、崇高性、喜び
と知恵とを結びつける思想はアリストテレスのとりわけ『ニコマコス倫理学』第
10巻にも見出されることを[Introduction]p.145が指摘していることも示唆し
ている。それぞれ、7章1177a19-21と8章1178b8-32(完全性)、9章1179a22-32
(崇高性)、7章1177a22-27(喜び)を参照。
残りの「有益性」がアリストテレスの知恵、あるいは第一哲学の概念と齟齬を持
つことは自然である。つまり、知恵あるいは理論的諸学一般が、アリストテレス
においては他のことのためでなく、それ自体のためになされるものである。アクィ
ナスも知恵について『デ・ヘブドマディブス注解』序文においては、知恵の探究
を遊びにたとえ、それのもたらす喜びとともに「それ自体のためにpropter se」
追求されるものであることを承認している。知恵の探究が最高の「有益性」をも
つことと「それ自体のためになされること」との間にどのような関係があるのか
は、一つの問題である。
...
ことである22
原文では文法的には「真理を明示すること」が主で、「誤謬を消去すること」が
従属的である。しかし、この両方の仕事がともに知者の務めであることは、第1
章[n.6]では同格の仕方で述べられていることを勘案すると、一概に真理の明示が
この著作の主要意図であるとは断じることはできない。また、逆の解釈について
も同じである。
...
覚している」のである23
ヒラリウス『三位一体論』第1巻37章(CCSL,62,p.35)
...
このような仕方を異教徒24
この「異教徒」の原語はgentilesである。[F1]は注において、これをpaien
と訳すべきとする。確かに、この文脈では、「古代の教師」アウグスティヌスや
ユスティノスのことを念頭におくならば、首肯できるであろう。しかし、次の
[n.11]でイスラム教徒と同じように聖書の権威をまったく認めない人々をpaganus
とアクィナスは呼んでいるし、一般的に言っても、gentilesとpaganusの使用
法に厳格な区別をしていないと思われる。cf.[Introduction],p.109 seq. そのため、前者を「異教徒」、後者を「多神教徒」と訳し分けておく。本訳の注(1)を参照。
...
の権威によって打ち負かすことができるのであるが25
この聖書の一部を承認していながら誤謬を犯している人々と聖書の一切を認めな
い誤謬を犯している人々に対する議論の性格の相違については、以下のような箇
所を参照。STI,q.1,a.8,c.; In de Trinitate,q.2,a.3.; Quodl.IV,q.9,a.3.
...
らないのである26
権威(auctoritas)ではなく理性的根拠(ratio)により一層依拠すべき議論の場面
については、前註の最後の参照箇所において、ここで述べられているのと
は別の場面のことが主張されている。それはdisputatio magistralis in scolis
の場面である。すなわち、学校において信仰を共有している聴講者に対して教師
が教育的になす討論である。この場合には「誤謬を排除する」ことを目的とする
のではなく、共有されている真理の理解を目指しており、その場合にはその真理
のさらなる「根(radix)」を発見しながら「理性的諸根拠(rationes)」に依
拠しなければならないことが強調されている。
理性的根拠を用いる二つの目的が、『神学大全』と本書『対異教徒大全』の著作
目的に対応していると言えそうである。しかし、本書がただ「論駁的」目的だけ
を持っているということは言えないであろう。論駁それ自体が、この第2章で明
らかにされているように、真理の明示ということと表裏一体のこととして捉えら
れているからである。その意味では、本書第1巻から3巻までのいわゆる「自然神
学」が、共有されている真理の根を明示するための教育的な性格を持ってい
るとも言えるのである。
...
ることになろう27
この[n.12]は[n.11]の末尾の「とはいえ」以下の自然本性的論拠の不十分性を踏まえたものと見るべ
きである。すなわち、自然本性的理性を用いるしか方法のない相手が存在するの
であるが、同時にその理性は明示しようとしている神的真理を明示するには不十
分であることも承認せねばならないのである。その上で、自然本性的理性によっ
て発見できる「何らかの真理」を獲得すると、それと「同時に」、その獲得され
た真理に反するものは誤謬として排除されるということが明示されるのである。
その結果、その理性によって論証された事柄とキリスト教の信仰の示す事柄とが
「調和する」ということ、あるいは相互に矛盾しないことも明示されることにな
るのである。この点はScGでは第7章で再度確認されることになる。
...だが、すべての真理を明らかにする様態が同じであるわけではない
28
この部分の原文は non omnis veritatis manifestandae modus est idem であ
るが、この omnis は veritatis と modus のいずれにも結びつけることが可能
である。前者の場合には、veritatis が単数なので潜在的にでしかないが、真
理の多様性が前提されることになり、その多様な真理のそれぞれを明示する様態
が同一ではないことが強調されていることになる。逆に omnis を modus と結び
つけると、まさに単数の真理についても多様な明示の様態があることが前提にさ
れていることになる。ここでは前者の解釈を採用する。その理由は、次の「とこ
ろで、」の部分ではそれぞれの事物の本性が異なるに応じて確信のあり方が異な
ることが承認すべきこととして語られているのであるから、事物の多様性に応じ
た真理の多様性が前提されていると考えるべきだからである。このような一般論
を前提として、最後に「当該の真理」というこの書物の扱う種類の真理、つまり
神的真理に関わる明示の様態を限定しようとしているのである。
...
スが提示しているのである29
この部分の原文は次の通りである。
disciplinati autem hominis est tantum de unoquoque fidem
capere tentare, quarum natura rei permittit, ut a Philosopho,
optime dictum Boetius introducit.
だが、原文でイタリックにされ引用とされているテキストが誰のテキストなのか
を決定できない。まず、これはボエティウスの『三位一体論』第2章の原文では
ない。当該の部分は、
Age, igitur, ingrediamur et unumquodque ut intelligi atque capi potest
dispiciamus: nam sicut optime dictum videtur, eruditi est hominis
unumquod que ut ipsum est, ita de eo fidem capere tentare.
である。また、アリストテレスが言ったとされて挙げられる『ニコマコス倫理学』
1巻1章1094b23-25 のアクィナスが見ているラテン訳は、
Disciplinati enim est in tantum certitudinem inquirere secundum
unumquodque genus, in quantum natura rei recipit.
である。このいずれとも趣旨は同じであるにしても、テキストは完全には一致し
ない。アクィナスがアリストテレスのこのテキストを正確に知っていたことは、
ボエティウスの『三位一体論』への自分の注釈書において明らかである(In de
Trinit., Expositiones c.2, Leonina, pp.133-34.)。従って、ボエティウスと
アリストテレスのテキストをいずれも正確に知っていたアクィナスがこのような
不完全な引用をしたとは考えられないから、この諸刊本で引用とされているテキ
ストはむしろアクィナス自身による趣旨の要約あるいは翻案であると解するべき
であろう。
...
る30
[Marietti]のこの箇所への巻末補注(Adnotationes)では、神の認識についてのこ
の二種の内容の歴史的源泉が紹介され、さらに、アクィナス自身の用語ではない
が伝統的な「自体的に信じられ得ること(credibilia per se)」と「付帯的に信
じられること(credibilia per accidens)」の区別がここで現れているとする。
確かに、この区別に対応することは、後者が「信仰への前駆(praeambula fidei)」
とアクィナスによって呼ばれていることからも(例えば、STI,q.1.)、一応了承
できるであろう。また、この[n.14]の冒頭でも「神についてわれわれが告白してい
る(confitemur)」とされ、信仰として保持している「信じられること」の区分だ
と考えることは当然であるといえるかもしれない。しかし、この箇所では「信じ
られること」といった用語は現れない(9問までの序論全体において現れない)
し、むしろわれわれの現世での自然本性的認識を基準枠として用い、それによっ
てアクセス出来るのか出来ないのかが前面に出ているのである。このことは、第9章[n.51]においても明確に述べられることになる。
...
かれて、神について論証的に証明してきたのである31
[Marietti]はこの箇所への脚注において、「真理の二つの様態」とされているこ
とをいわゆる「二重真理説」と関係づけている。このことは、校訂者が『対異教
徒大全』の著作年代(少なくとその改訂作業)を1270年代にまで遅らせる解釈を
取っていることと関連しているであろう。しかし、この著作年代の解釈は一般的
に承認されているわけではないし、アクィナスの前期の著作の立場からしても、
神に関わる二つの認識様態の区別を、とりたててラテン・アヴェロエス主義の登
場と結びつける必要はないであろう。
...
えているものがあることは、極めて明らかである32
あることが「知性認識され得ることがら(intelligibilia))」でありながら、同時に「人間理性の才
を全く越えている」ということが奇妙でないのは、「可知性(intelligibilitas)」
はもちろん何らかの「知性(intellectus)」との関係において規定される特質で
あるにしても、その特質の担い手はあくまで事物・事象そのものだからである。
あるいは、事物の持つ可知性は最終的には神の知性との関係における特質である
と言ってもよい。だから、何らかの事物・事象がそれ自体で(神の知性との関係
で)「最大度の可知性」を有しているのに、それが「人間の知性あるいは理性」
にとっては「それを越えたもの」であっても、そこには何の問題もないのである。
...
るか>だからである33
『分析論後書』第2巻3章90b30-33.
Definitio quidem ipsius quid est et
substantiae est: sed demonstrationes videntur omnes supponere esse, et
accipientes quod quid est; ut mathematicae quid unitas et quid impar, et
aliae similiter.
...
いことになる34
ここで言われていることは、われわれが例えば石についてその実体(ここでは本質と同義と解しうる)
の「完全な把
握」を実際になしているということではない。実際に[n.18]や第4章[n.25]では、
そのような認識でさえも「われわれの知性の脆弱さのために」誤謬が「多くの場
合に」混じることが強調されている。ここでは、ある事物の実体の完全な把握と
その事物に含まれるすべての属性・付帯性の認識との間の論理的な必然性が述べ
られているに過ぎない。
...
のである。ただし、感覚に入ってこないものの35
原文の earum は前後にそれにあたる女性複数の名詞がないが、rerum が暗に想
定されていると読む。
...
第一原理に帰属させるべきことがら36
ここの「その他同様の第一原理に帰属させるべきことがら」とは、これと対比さ
れた神の「何であるか」に含まれないものと理解されなければならない。つまり、
この章の[n.14] b)で例として挙げられている「神が一であること」などの神の
「属性」とされるものは、広義において「神の何であるか」を示すものではあ
るが、神の「本質の認識そのもの」ではないのである。そのことは『神学大全』
第1部第3問序文において、「神の何であるかではなく、何でないか」しかわれわ
れは知り得ないと前提されながら、神の単純性、完全性などの属性の探究が始め
られていることによっても明らかである。
...
結果によってなのである。それは37
原文の quanto には多少の問題が残る。これをあとのdignior rebus
sensibilibus と結びつけて読むと、主張の力点は種々の天使の内部の高貴さの
区別にあることになるが、この論点は現在の文脈では不必要である。主張の要点
はあくまで天使一般と人間一般の知性認識能力の相違にある。そこで、この
quanto の前の文章に一種の説明を与えたものと解し、このように訳した。
...
性が神の認識へとそれを通じて昇ってゆく魂よりも38
この部分の原文は、rebus sensibilibus et etiam ipsa anima, per quam
intellectus humanus in Dei cognitionem ascendit であるが、この per quam
の箇所についてFerrariensisの注解では per quae と読んでいる。つまり、「そ
れによって神の認識へと上昇するもの」は感覚的事物と魂の両方であると解して
いることになる(それでも文法的には per quas の方が普通であり、その両方を
一括して中性複数としていることには疑問が残る。あるいはFerrariensisの見て
いたアクィナスの原文がそうなっていたのかもしれない)。しかし、原文の通り
per quam でも大きな問題は起こらない。むしろ、et etiam ipsa anima と改め
て言い添えられている書き方からすれば、魂だけと関係させるほうが自然とも言
えるであろう。(ただし、ことがら自体としては、人間の魂の知性的認識がこの
世では感覚によって取られられたことがらから始まるほかないというのがアクィ
ナスの立場であるから、rebus sensibilibus を含めてもよい。)
...
また、自己に関して知性認識されうることがらのすべてを認識するのである39
原文 ideo perfecte de se intelligit quid est, et omnia cognoscit quae de
ipso intelligibilia sunt の de ipso については二つの解釈が可能であろう。
一つは「神に由来し、その意味で神にとって他なる知性認識されうることがら」
と解するものであり、もうひとつは「神に関わっている知性認識されうることが
ら」と解するものである。第一の解釈では、テキストの前半を神の自己認識、後
半を他者認識に振り分けることになる。第二の解釈では、テキスト前半の quid
est を狭い意味で神の本質の自己認識とし、後半はより広義の自己認識と解する
ことになる。ここでは第二の解釈を取った。なぜなら、この[n.17]全体の議論にお
いて、人間、天使、神という知性的認識を行うものについて、それぞれがどのよ
うな仕方で神を認識するのかということだけが問題となっており、自己認識と他
者認識の認識様態の区別は問題とされていないと認定できるからである。もちろ
んこの解釈でも神の他者認識ということがら自体が排除されはしない。つまり、
「神に関わっている」ということは、神の創造作用の結果としての被造物につい
ての認識を含み得るからである。しかし、このことは現在の論点ではないので、
あえて第一の解釈を取る必要はないとみなす。
...
それ以上に、天使の仲介で神によって啓示されたことがらを40
この箇所で「天使の仲介」に触れられていることは、人間、天使、神の順序で知
性的存在者を論じてきた議論の進行からみれば自然なことであるが、ことがら自
体として神の啓示の働きと天使の仲介ということが必然的な関係を持っているの
か、天使の仲介を必要としない啓示があり得るのかについては、より詳細なテキ
ストの吟味が必要である。ただし、この論点は現在の文脈では重要ではない。
...
無知であり、また感覚によって把握している固有性のもつ本性41
「本性」と訳したのは rationes である。もちろん、これは諸固有性の「根拠」
と訳すことも可能である。つまり、固有性(proprietates)は常に「何かの」固有
性であるから、その「何か」の本性が固有性のあり方を決めていると見なすこと
ができるからである。固有性がいかなるものであるのかという意味でのそれの本
性を理解することは、それが「どのようなものの」固有性であるかを根拠として
理解することだからである。
...
こうもりの眼が太陽に対するようなものである」と主張しているからである42
ここでアリストテレスの『形而上学』第2巻の引用とされているテキスト
([Marietti]は993b9-11とする)は、厳密には引用ではなく、アクィナスによる
要約である。
なお、『形而上学注解』第2巻第1講や『神学大全』第1部第88問1項異論4などで
は、ここで「第一の諸々の存在者」とされているものは非質料的実体(天使)の
ことであるとアクィナスは理解している。ここでもそのことを承知した上で、神
を含めた広義の非質料的実体についてのアリストテレスの主張と解しているので
あろう(アリストテレスの主張と「調和している(consonat)」という表現はその
ためであるかもしれない。)
...
いたとしたならば、次の三つの不都合が生じることになるのである43
この三つの不都合については、[Marietti]の補注は、マイモニデスの『迷える者
の導き』第1巻第34章の「形而上学の困難さの五つの原因」の議論に依拠してい
ることを指摘している。また、[Leonina] vol.50の序文(pp.6-7)においてもこのこ
とが指摘される。(これは[F1]のnote 6.による。)このScGの箇所ではマイモニデス
の名は挙げられていないが、『命題集注解』第3巻24区分第3項第1小問、『ボエ
ティウス三位一体論注解』第3問1項主文、『真理論』第14問10項ではマイモニデ
スに依拠していることが明言されている(すべて、Rabbi Moysesとして言及)。
しかし、実質的に同じ内容を含む『神学大全』第1部第1問1項主文、第2部の2第2
問4項では、この『対異教徒大全』と同じく、マイモニデスの名は挙げられてい
ない。この理由は次のように想定することができる。『対異教徒大全』(とそれ
以降の著作)では、確かに「三つの不都合」を構成する要素は何らかの仕方でマ
イモニデスの「五つの原因」と関連を持つが、全体の構造それ自体はアクィナス
自身によるものであるので、敢えて名前を挙げることなく自己の見解として提示
したのだと、考えることが出来るであろう。以下の注(53)を参照。
マイモニデス自身によるの形而上学の困難さの「五つの原因」の内容は次のように要約でき
る。
- 第1原因
- :対象の深遠さ
- 第2原因
- :人間知性の弱さ
- 第3原因
- :多くの準備的学問の必要性
- 第4原因
- :資質の不具合
- 第5原因
- :物質的条件を満たす仕事の必要性
... 実際、或る人々は体質が不具合44
「体質の不具合」は complexionis indispositio の訳。complexio は構造、構
成を一般的には指すが、ここでは動物の身体的な構造を意味すると思われる。ま
た、ここで「或る人々」が不具合なのであるから、人間の身体の本性の不具合で
はなく、個人的な身体の状態であるから「体質」と訳すことにする。ちなみに、[E1]はphysical disposition、[D2]はkorperlichen Veranlagungとしている。
しかし、ここで問題にされているのは神の認識であり、神はまったく非質料的な
ものであるから、個々人の身体的条件には依存しないのではないかという疑問が
提出されうるであろう。これについては、「同一の事物をある人が別の人よりよ
りよく知性認識することが出来るか」を問う『神学大全』第1部第85問7項主文で、
アクィナスは次のように答えている。すなわち、この「よりよく」を知性認識の対象と関係
させることはできない。しかし、知性認識の主体との関係では肯定される。すな
わち、人間の知性は身体の形相である魂の能力であるから、「身体がよりよく状
態づけられているほど、それだけ一層よりよい魂を受け取る」のであり、「人間
においても、或る人々がよりよく状態づけられた身体を持っているときに、知性
認識するのにより大きな力を持つ魂を受け取る」のである。また、知性よりも下
位の感覚的能力それ自体がよりよく状態づけられていることによって、知性もよ
りよく状態づけられていることになる。だから、人間の場合には、個々人の知性
認識の状態は身体のあり方によって規定されることをアクィナスは明確に承認し
ていると言ってよいのである。
...
達することは、その人々にはいかなる研究によっても不可能なのである45
これはマイモニデスの[第4原因]にあたる。マイモニデスでは、naturales
dispositiones と表現されており、この naturales も「個人が生まれつき持っ
ている」の意と解すべきであると思われる。
...
到達することはできないのである46
これはマイモニデスの[第5原因]にあたる。
...
後に学ぶべきものとされつづけているのである47
これはマイモニデスの[第3原因]にあたる。マイモニデスの該当箇所では、諸
学の学ぶべき順序について、論理学、数学、自然学、形而上学の順序を挙げてい
る。ここでは倫理学についての言及はないが、アクィナスは『原因論注解』序文
で、論理学、数学、自然哲学、道徳哲学、神的学問(形而上学)を挙げている。
また、この箇所で神の認識に秩序づけられているのは哲学の「ほとんど」全体と
され、ニュアンスが付けられているが、これについては次のように見なすことが
できる。すなわち、形而上学という最高の観想的学知のために倫理学(道徳哲学)
は本質的には必要とされない。倫理学の目的は活動的生であり、観想的生とは本
質的には区別されるのである。だが、観想的生のために魂を「状態づける
(dispositive)」という観点では、倫理的徳も観想的生に属するのである。つま
り、強い情念や騒々しい外的感覚といったものが観想の働きを妨げるので、それ
らを押える倫理的徳が観想的生に貢献するのである。(『神学大全』第2部の2第
180問2項を参照。)また、自然学や数学の一部としての天文学は形而上学を学ぶ
ためには必要不可欠の前提となるのに対して、音楽や道徳的学は形而上学が「よくあるた
めに(ad bene esse)」必要であると考えられている(『ボエティウス三位一体論
注解』第5問1項第9異論解答を参照。Ferrariensis がこのテキストを引用して注
解している。[Leonina],p.12,II.)
...
ぼうとする人は少数なのである48
[Marietti]はこの[n.23]の c) と d) とを分けて解釈しているように見える。す
なわち、d)は[n.23]の全体の趣旨である「神を認識する人が少数になるという不
都合」の要約だと理解している。しかし、「研究の多大の労苦」ということは神
の認識のために前提とされ前もって学ぶべき諸学の多さゆえの「怠惰」という
c)の論点の帰結と見る方が適当であろう。
...
いからである49
これはマイモニデスの[第1原因]にあたる。だが、この「修練(exercitium)」
という語はマイモニデスのラテン訳の[第2原因]に現れる。ただ、それは「人
間の」修練であって、「知性の」修練という表現はアクィナスのものである。だ
から、アクィナスは生まれながらには(a principio)感覚的な対象に縛り付け
られている人間の知性が、神という最も非感覚的な対象へと向かうように自己を
訓練すること、として捉えられていると思われる。
...#23c
50
[n.23] c)
...
る51
『自然学』第7巻3章247b10-11. In quietari enim et residere anima sciens
fit et prudens.同箇所へのアクィナスの注解、lect.6, n.925.参照。ここでは
以上のようにアリストテレスの典拠が挙げられており、マイモニデスとの関係は
ないように見える。しかし、その[第4原因]では、体質の不具合とならんで
「道徳的諸徳は知性的徳のための準備となる(virtutes morales praeparatorias
esse ad virtutes intellectuales)」とされており、実質的にはマイモニデスに
も認めることの出来る論点である。
...
教えているのを見るときにはそうなるのである52
これはマイモニデスの[第2原因]にあたる。
...
いう方途によって人間に示される必要があったのである53
アクィナスは以上三つの不都合を次のように構造化していると思われる。神につ
いての認識が信仰として与えられないならば、まず「少数の人々」しかその認識
をもち得ない(第一の不都合)。さらに、その少数の人々でも神の認識には「長
い時間」が必要である(第二の不都合)。さらにまた、その長い時間をかけたと
しても「多くの虚偽」が混じる可能性を排除できない(第三の不都合)。『神学
大全』第1部第1問1項ではこの順序がそのまま記されている。第2部の2第2問4項
では、第一に時間の側面、第二に人数の側面、第三に確実性の側面の順序で語ら
れている。この順序の変更の理由は不明である。しかし、『対異教徒大全』以降
の著作では、人間知性の脆弱さによる虚偽の混入の可能性が最後に置かれること
には変わりはない。このことは、神についての認識の中には人間の自然本性的理
性によって到達可能なことがらがあることを根底において承認しながらも、アクィ
ナスがそれがどれほど困難であるのかについての自覚が深まったことを示すのか
もしれない。
...それゆえ、有り難いことに
54
「有り難いことに」は salubriter の訳。同じ用語は平行箇所である『真理論』
第14問10問主文末尾でももちいられ、「万人にどんなときにも救いへの容易な入
り口が明らかであるように(patet omnibus facilis aditus ad salutem
secundum quodcumque tempus)」と述べられる。それゆえ、この語は「救いのた
めに」と訳すこともできると考えられる。
...ところで、理性で見出すには不十分なことがらが、それを信じるようにと人間に提示されるべきではないと思われる人々がおそらくいるであろう
55
このような人々について、[Marietti]の脚注はいわゆるラテン・アヴェロエス主義者を挙げる。1277年のタンピエの禁令のうちには、信仰による知を承認しないと解釈されるような命題があることは確かである。例えば、「自明なこと、あるいは自明なことがらから明らかにされることでなければ、何も信じるべきではない」([n.4])、「人間は何らかの問題の確実性のために権威で満足すべきではない」([n.5])といった命題は、「信仰は権威だけにより、自明な内容にもとづかないから、信じるべきではない」と解釈されうるであろう。だが、Hissetteなどの研究では、この二つの命題の源泉となったテキストを確定することはできない。
...../j3_17-63/j3_17-63node?.html#2246ことになるように
56
第3巻48章「人間の究極の幸福はこの世にはないこと」を参照。
...#13
57
[n.13]参照。
...、神の実体は人間の自然本性的認識を越えているからである。それゆえ、理性を越えている何ごとかが神から人間に提示されることによって、神とは考え得るものを越えた何かであるという見解が人間において確保されるのである
58
ここで述べられている「必要性」は救いのために絶対に欠くことのできない必要性ではなく、「有用性」と言うべきである。というのは、[n.29]での人間本性それ自体についての考察から得られる洞察とは異なって、「神が人間の能力を越えたものであること」の認識自体は啓示を不可欠とするわけではなく、ある種の人々(神学者、哲学者)にとっては自然本性的に認識可能だというのがアクィナスの立場だからである。神の本質そのものをこの世で人間が認識できるわけではないが、「神がわれわれの認識を超えている存在者である」という命題の真理は認識できるのである。とはいえ、すべての人間がそのような真理の認識を持っておらず、確実性を欠く「見解(opinio)」としてしか持っていない人々が多いのであるから、啓示によってあらゆる人間の認識を越えたことがらそれ自体が提示されることが有用なのである。次の[n.31]、[n.32]では、明確に「効用」と語られており、この章全体の目指す「必要性」は広義の必要性なのである。
... またもう一つの効用があって、それは哲学者が『倫理学』第10巻において述べていることから明らかである。つまり、シモニデスとかいう者59
「シモニデスとかいう者」とした部分は「シモニデス的な人」とすることも可能かもしれない。というのは、アクィナスが挙げている『ニコマコス倫理学』第10巻の7章では、「シモニデス」という固有名は言及されておらず、直接の言及があるのは『形而上学』第1巻2章だからである。アクィナスがアリストテレスのテキストの混同をしているのであれば「シモニデスとかいう者」でよいが、混同しておらず「シモニデス的な」思想の内容に主眼が置かれているとするならば、「シモニデス的な人」の方が好ましいであろう。アクィナスに引用テキストの混乱が皆無ではないので、決定できない。
... だから『動物論』第11巻60
『動物部分論』第1巻5章644b32-34.
... また『天体・世界論』第2巻61
『天体論』第2巻12章291b24-28.
...それゆえ、理性を越えたことがらを人間の理性は明白に捉えることはできないのではあるが、少なくともそれらのことを信仰によって何らかの仕方で保持するならば、理性には多くの完全性が得られるのである
62
この[Marietti]では[n.33]のパラグラフが[n.32]と切り離されているが、両者は一体にすべきであると思われる。なぜなら、[n.32]の議論は d)を含めて一貫して、アリストテレスの立場においても「上位の存在者」をわずかでも認識することの有益さが承認されていることを確認することにとどまっている。だが、この章全体の趣旨からするならば、そのような哲学者も認める人間の認識の価値の序列を、自然本性的次元を超えて啓示されたことがらにまで拡張する必要があるからである。この哲学的次元内部から超自然本性的次元への拡張が [n.33]でなされていることであって、[n.32]と[n.33]は分けるべきではないと思われる。[Leonina]もここでパラグラフをわけてはいない。
...b)また『コリントの信徒への手紙1』2章11節では「神に属することは神の霊でなければ何人も知らない」と、だが10節では「神はその霊を通じてわれわれに啓示された」と言われているのである
63
それではこの章の冒頭[n.28]で想定された反論の根拠、つまり「神の知恵はそれぞれのものにその自然本性の様態に応じて摂理をなすのだから」という根拠に対してはどのようにして答えられたことになるのであろうか。要点は人間の「自然本性」の把握の仕方にある。アクィナスの立場では、人間は啓示によってしか知られないことがらを自己の自然本性によっては認識できないが、その認識できないものへと向かう存在である。だから、そのような自然本性につりあった仕方で神は、人間が自然本性によって認識できないことを、自然本性に拠らない啓示という仕方で教えたのであり、それがまさに「それぞれのものの自然本性の様態に応じて摂理をなす」ことなのである([n.29])。また、人間の自然本性的認識を神が超越していること自体の認識は、自然本性的次元では不完全な認識にとどまること([n.30])、思い上がりに陥りやすいという人間本性([n.31])、さらにはどれほど不完全であっても神を認識することに喜びを覚えるという人間本性([nn.32-33])、このような自然本性の諸側面からも、啓示によって間を教示することは神の摂理・知恵なのである。言い換えると、冒頭で想定された反論では人間の自然本性が限界を持つものという面からだけ捉えられているのに対して、アクィナスは人間の本性を神へと向けて創られ、それを受容する可能性を有するものととして捉えているのである。
...とはいえ、「人間理性がそれの経験を持つ」
64
大グレゴリウス『福音書講話』26,ML,76,1197 c. この箇所をアクィナスは数箇所で引用しているが、それらはほとんど「信仰に属することがらのために導入された論拠(ratio)は信仰の功績を減少させるのか」という論点において用いており、この箇所の文脈で用いるのは珍しい。
...というのは、万物をもっとも明白に知っている神的知恵それ自身が、人間にこの神的「知恵の秘密」を啓示することが相応しいと見なしたからである。つまり、その神的知恵は自己の現前および教えと霊注の真理を適切な議論によって明らかにする一方
65
この「議論」はargumentaであり、広義に「証拠」とすることもできる。だがこれは、次の奇跡という「目に見える仕方で明らかにする」のと対照されているとみなし、言論による明示の意味でこのように訳した。
...以上のことが洞察して、無数の民衆、それも単純な人々だけでなく極めて知恵のある人々がキリスト教の信仰へと殺到したのは、上述の証明の効力によるのであって、武器による強制によるのでも、快楽[を満たすという]約束のゆえでもなかったのである。またもっとも驚くべきことであるが、このことが迫害者たちによる専制体制の間におこったのである。それも、キリスト教信仰においては人間のあらゆる理解を超えることがらが述べ伝えられており、肉の快楽が抑制され、この世にあるすべてのことがらは価値の低いものだと教えられているのにそうだったのである。これらのことに死すべき人間のこころが同意しているということも最大の奇跡であり
66
ここの et maximum miraculorum est の et は分かりにくい。ここでは、この [n.37]の最初の「また最も驚くべきことである(mirabilissimum)」とされた「迫害の中での回心」と同じ程度に「奇跡的」ということを示す et であると見なしておく。アクィナスにおいて、厳密にはmirabiliaとmiraculaとは区別されるのであるが、ここではそれほど厳密に区別されているとは考えられないからである。また、この節のラテン語の文体が、通常の「乾いた」アクィナスの文体とは大いに異なった修辞的なものであることも、概念上の厳密な区別を求めないものであるように思われる。諸近代語訳もさまざまなフレーズで補っている。
...今述べたような[信仰を]確かなものとするやり方が『ヘブル人への手紙』[2章3-4節]で触れられている。「これは」、すなわち人間の救いは、「主によって初めに語られ、それを聞いた人々からわれわれにおいて確かなものとされている。そして、神がしるし、驚くべきことがら、それに聖霊の様々な分与によって証しているのである」と言われているのである
67
この書簡への『注解』(n.99)では、この「しるし、驚くべきことがら」が奇跡とされ、「聖霊のさまざまな分与」が一瞬のうちに最高の知恵と雄弁を獲得するといった事態が考えられている。ちょうど[n.36]の末尾と対応しており、この[n.39]は[n.37]と[n.38]の全体を根拠づける権威であることになる。
...さて、世界がキリスト教信仰へと回心するというこの驚くべきことは、過去のもろもろのしるし[の目的]を最も確実に証拠だてるものである
68
この indicium certissimum est praeteritorum signorum の複数属格を[F1][F2]ともに、en faveur de と訳している。その趣旨は以下のように解することができる。しるしは「何かの代わりに、それを表示する」ことを目的とするのであるが、神が過去になしたしるしが存在したことの目的は救済である。神のしるしの目的が救済であったことを最も確実に指し示しているのが、「世界のキリスト教信仰への回心」という驚くべきことなのである。この回心もそれ自体が救済ではないから広い意味ではしるしの一つなのであるが、しるしの目的そのものにより接近しているので、最も確実にしるしの目的を明らかにしているものなのである。また、「確実」と訳したcertusという語をアクィナスは、単に認識の問題としてだけでなく、目的の達成の場面で用いること(e.g. STII-II, q.18,a.4.c.)にも注意する必要があるであろう。
... このことはマホメットにおいて明らかである。彼は肉的快楽を約束し、その快楽の欲求へと肉的欲望が湧き起こるようにと、人々を誘い出したのである69
[Marietti]のpopulus illexitはpopulos illexitの誤植。
... 以上のように、彼の語ることに信仰をおく人々は軽率に信じているのである70
以上のマホメッドとイスラム教徒に対する非難の調子は、他の箇所では見られないほどに激烈なものである。ここだけを見ると、注 (1)で述べたScGがイスラム教徒を目の前の論敵として書かれたという伝承が信憑性を帯びる。だが、そのように断定することに慎重でなければならないことには変わりがないと考える。すなわち、ScG全体を通じて見ると、具体的な論点に関する議論がイスラム教の教義やそれに基づく習俗・習慣の微細な点に及ぶことはなく、一般的・理論的な次元で論は進められているからである。イスラム教徒に対する宣教的・護教的目的が執筆の目的であった場合には、当然提示されるべき論点が欠けているのである。
...というのは、理性の中に自然本性的に備わっていることがらは極めて真であることが確かであり、それが偽であると考えることが不可能なほどである
71
この理性に「自然本性的に備わっていることがら」とは、あらゆる種類の論証の第一原理としての矛盾律や排中律、あるいは量にかかわる諸学に共通の「全体は部分より大きい」といった命題であると考えられる。これについて「それが偽である考える(cogitare)ことが不可能なほど」である、すなわち「自明(per se nota)」であることについては、つぎのような制限をアクィナスが承認していることに注意しなければならない。すなわち、例えば矛盾律が偽であると本当の意味で信じていることは誰にもできないはずであるが、「音声の上で(voce)それを否定できないほどに真であることは何もない」(『分析論後書注解』第1巻19講)のであり、矛盾律それ自体が自明であることと、それが誰かにとって自明であることとは区別されるのである。
...。また、信仰において捉えられていることがらは、神によってこれほど明証的に確保されているのであるから
72
この箇所は、信仰の内容が理性にとって明証的であることを意味しないことは明らかである。第6章で示された奇跡や世のキリスト教への改宗といった事実によって、それの真理性が神によって確実であることが明証的なのである。例えば、神の三位一体が真理であることは明証的であるが、三位一体の内容それ自体が自然本性的理性にとって明証的なものとなるわけではない。
...さらにまた、自然本性的であるようなことがらは、自然本性がそのままであるなら、変化することはできない。ところが、対立する意見が同時に同じ人に内属することはできない。それゆえ、何らかの意見あるいは信仰が自然本性的認識に反して人間に神から送り込まれることはないのである
73
[nn.43-46]の四つの論拠は、アクィナスの信仰と理性、神学と哲学、啓示神学と自然神学の関係を考える場合に極めて重要である。この箇所での表現は、啓示の中身と自然本性的理性に内属するものとが「対立しない」という否定的なものにとどまっている。しかし、その裏側には有名な「恩寵は自然本性を破壊するのではなく、それを完成する」というアクィナスの基本的立場が隠されていることは言うまでもない。さらには、この箇所で強調されている「人間の自然本性的理性の作者は神」という点は、その理性が真理を認識するために作られているのであって、その働きとしての認識作用に対する基本的信頼を表明するものともなっている。ただし、人間のなす認識作用にいかなる虚偽もないといった意味での楽観主義をアクィナスが取るわけではないことも言うまでもない。この点については拙稿「トマス・アクィナスにおける確実性について」『哲学研究』第573号(近刊)を参照。
... このことはまた、アウグスティヌスの権威にも合致している。彼は『創世記逐語注解』第2巻74
第18章、Nunc autem seruata semper moderatione piae grauitatis nihil credere de re obscura temere debemus, ne forte,quod postea ueritas patefecerit, quamuis libris sanctis siue testamenti ueteris siue noui nullo modo esse possit aduersum, tamen propter amorem nostri erroris oderimus. アクィナスはこの文章の一部だけを取り出し、自然本性的理性によるものを含めた真理が聖書と背馳しない点だけを強調した引用になっている。だが、アウグスティヌスのこの言葉と前後の文脈は、聖書の一部だけからその箇所の意味を「軽率に」決めてしまうことを戒めているものであって、文脈は異なっている。ちなみに、Bibliotheque Augustinienne,t.48, p.210.の注44によると、ガリレオ・ガリレイがこのテキストを二度にわたって引用しているとのことである。
... 以上から、どのような議論が信仰の証拠に反対したものとして措定されとしても、それが自然本性のうちに備えられた自明な第一諸原理から正しい仕方で出てくることはないということが結論される75
この「正しい仕方で(recte)」という限定が重要であることは、先の[n.46]への注を参照。
... また、次のことを考察しておくべきであると思われる。すなわち、人間理性の認識がそこから始まる可感的事物は、そのうちに神の模倣の何らかの痕跡(vestigium)を保持しているが、その痕跡は不完全で神自身の実体を明らかにするにはまったく不十分であることが見出される。というのも、「作用者は自己と類似したものをなす」76
omne agens agit sibi simile. この有名な定式はアクィナスの場合、直接的にはアリストテレス『生成消滅論』第1巻7章324a9-12と関係づけられる。
アリストテレスのなかでも他の著作に同様のテキストが見出される。しかし、これをより広いギリシア以来の哲学史の伝統において、「存在の円環性」や因果性概念と結びつけて論じた以下の研究が有益である。Philipp W. Rosemann, Omne agens agit sibi simile: A ``Repetition'' of Scholastic Metaphysics, Leuven University Press, 1996.
... それゆえ、人間の理性が信仰の真理(それは神の実体を見ている人々にだけ最もよく知られるものである)を認識するということは、その真理へ向かう[途上の]何らかの真らしさ(verisimilitudines)を取り集めることはできるということである。だが、その真らしさでは前述の真理がいわば論証的に、あるいはそれ自体で知性認識されているものとして[完全に]把握される77
このcomprehendereの強い意味については、ST I,q.12,a.7,c.を参照。sciendum est quod illud comprehenditur quod perfecte cognoscitur. Perfecte autem cognoscitur, quod tantum cognoscitur, quantum est cognoscibile. その箇所では、人間の知性のみならず、あらゆる被造的知性にとって神の本質をcomprehendereすることが不可能であると主張されている。
...#28
78
第5章
...以上の主張にヒラリウスの権威が合致している。彼はこのような真理について『三位一体論』において、次のように語っている。すなわち、この真理を信じることから「始め、前進し、堅く留まりなさい。たとえあなたが到達することはないであろうことを私が知っているにしても、進歩することを私は祝します。というのは、敬虔さをもって無限なるものを追求する人は、いつか達するということがないにしても」、常に「前進し進歩するからです」。しかし、「最高の知性実体」を把握しようなどと見込んで、かの秘密に入り込まないように、また限りのない「出生の秘所」に飛び込まないように。「それらは把握不可能であること」を理解しなさい
79
ヒラリウス『三位一体論』第2巻10-11章、CCSL,LXII,pp.47-48. 出村和彦氏の邦訳『中世思想原典集成4』初期ラテン教父(平凡社、1999年)pp.483-4.を参照した。
...さてこれまで述べたことから、知者の意図するものとは神的なことがらの二種の真理とそれとは反対の破壊されるべき誤謬とに関わるべきであるということが明らかとなった。その真理の一方は理性の探究が到達し得る真理であり、他方もう一つの真理は理性のあらゆる才能を越えたものである。とはいえ、神的なことがらの二種の真理と私が言うのは、神自身の側からではない。神は一つで単純な真理だからである。そうではなくて、私はわれわれの認識の側からそう言うのである
80
この点は第3章[n.14]で二種類が区別されたときにも、二つの真理(duae veritates)ではなく「真理の二種の様態(duplex veritatsi modus)と語られたときから明瞭に意識されていた、アクィナスの基本的な立場である。その箇所の注(30)も参照。また、第7章での信仰の真理と理性の真理との「非対立」という否定的言明の背後に、この神の側からは単純な一つの真理があるという確信が横たわっているのである。
...#42
81
第7章参照。
... verisimiles)を導入すべきである。ただそれは、信仰者の修練と慰めのためであって、敵対者たちを打ち負かすためではない。なぜなら、この論拠の不十分さのために、われわれがかくも脆弱な論拠によって信仰の真理に同意しているのだと敵対者がみなしてしまい、彼らの誤謬をいっそう確固たるものとしてしまうことになるからである82
この[nn.52-54]の神的真理の明示(manifestatio)は、その真理の二種に応じて分けられているようであるが、「神に関わる信仰の学知において、哲学的な論拠と権威とを用いることが許されるか」を論じた『ボエティウス三位一体論注解』第3問3項では次の三つに区分されている。すなわち、哲学的論拠と次の三つの仕方で用いることができるとされている
- 信仰の前提・先駆であることがらを論証すること
- 信仰に属することを何らかの類似によって知らしめること(notificare)
- 信仰に反して語られているが偽であること、あるいは必然的ではないことを示してそれに対抗すること
区分の方法は異なっているにしても、この(a)と(c)とがScGのこの箇所での第一の真理の明示に、(b)が
第二の真理の明示に相当することは明らかである。
... probabiles)とを導入し、それらの論拠のいくらかを哲学者たちと聖人たちの著作からわれわれは取り集め、それによって真理が確証され敵対者が打ち負かされるのである83
この議論の様態で進められるのが、ScGの第1巻から第3巻までである。だが、一つの問題が残る。それは、この第一の種類の真理は「理性の探求が到達しうる」真理であるとされていたのであるのに、ここで聖人たちの著作から論拠を引き出し、「蓋然的論拠」をも導入するとされているのは、どうしたことなのか。これは次のように理解できるであろう。確かに、論じられることがらそれ自体は自然本性的理性によって論証できることがらなのである。しかし第5章で述べられたことに従って、そのような理性の探求の現実的な困難さによる不都合を回避するには、聖書や教父のテキストを通じて信じるにとどまる人々のために「蓋然的論拠」をも提示することが必要・有益なのである。実際、第3巻までの論述方法を見るならば、一つの問題についてまず周到な理性的論拠が提示され一定の結論がまず下されるのであって、聖書や教父による論拠はいわばそれまでの理性的論拠の「確認」に留められているのである。従って、この[n.55]で「論証的論拠と蓋然的論拠」と併記されているにしても、実際上は蓋然的論拠は補完的なものに過ぎないのである。そのことと関連して、このrationes probabilesを「蓋然的論拠」と訳すことも不適当な面のあることが分かる。すなわち、聖書や教父の権威にもとづく論拠は、純粋に哲学的な論証との対比においては「蓋然的」と言えるにしても、その蓋然的論拠によって示されることがら自体の認知的特性が蓋然的に過ぎないわけではないのである。その意味で「蓋然的」はあくまで論拠とそれによって示される事柄の間の関係であるから、誤解を招きやすいかもしれないので広義での「証明力のある」とするべきかもしれない。しかし、この箇所の文脈では次の[n.56]でも同じ用語が用いられていることもあって、「論証的」論拠との対比を明確にするために「蓋然的」としておく。
...次に、より明示的なことからより明示的でないことがらへと議論が進むように、われわれは理性を越えた真理を明示することへと進む。その場合には敵対者たちの諸論拠を蓋然的論拠と権威の両方によって解決し、神が許す限りにおいて、信仰の真理を表すことになる
84
これが第4巻でなされることになる。ここで述べられる「蓋然的論拠」は文字通りに取ってよいであろう。つまり、この場合は単に示されることがらとそれを示すための論拠の関係が蓋然的に過ぎないというだけではなく、ことがら自体が人間の自然本性的理性にとっては蓋然的にしか認知されえないという特性をもったものなのである。
... 第三に、被造物の神を目的とする秩序についての考察がなされる85
これがそれぞれ第1巻、第2巻、第3巻に割り当てられている。これが、始原としての神自身、始原からのexitus、始原へのreditusという発出-環帰の新プラトン主義的構図を持っていることは明らかであろう。これが『神学大全』でも基本的には保持されていること、さらには、ScGの第4巻の三位一体-受肉-終末という記述の順序とも符合していることについては、[F1],t.4,p.19ff.を参照。