第 1 章
知者の務めとは何か
「私の喉は真理を省察し、私の唇は不敬虔なものを忌み嫌うであろう」(『箴言』8章7節)
a) 哲学者[アリストテレス]が事物に名前を与える場合にそれに従うようにすすめている大多数の人の使用法では 2 一般に、<知者>とは諸事物をまっすぐに 3秩序づけそれをうまく支配する人であるとされてきている。だから、人々が知者に関して捉えている他のことにもまして 4、「秩序づけることが知者に属する」 5と哲学者によって措定されているのである。
b) ところで、目的へと秩序づけられているすべてのものにおいて、支配と秩序 の規則は目的から取ってこられることが必然である。実際、どのような事物であっ ても、それが自己の目的に適合的な仕方で秩序づけられるときに最もよく状態づ けられているのである。というのも、目的はそれぞれの事物の善だからである。 それゆえ、われわれの見るところ、種々の技芸においても他の技芸を支配し、い わばその君主のようなものがあり、その支配的な技芸に他の技芸の目的は属して いるのである。たとえば、医術は軟膏術を支配しそれを秩序づけるが、それは医 術がそれに携わっている健康というものが、軟膏術によって作られるすべての軟 膏の目的だからである。造船術に対する航海術も、また馬術や他の戦具に対する 戦争術においても、明らかに同様である。そして、この他を支配する技芸は<支 配的技芸>として<棟梁的技芸>と名づけられるのである 6。それゆえまた、それらの技芸をなす職人は<棟梁>と呼ばれ、知者という名が彼に値するのである。
a) だが、上述の職人たちは何らかの個別的な事物の目的に従事しており、す べてのものの普遍的目的には到達しないのであるから、これとかあれとかの[個別的]事物につ いての知者なのである。この意味で『コリントの信者への手紙1』3章10節で、 「わたしは知者たる建築家として基礎を立てました」と述べられているのである 7。
b) それに対して、端的な意味での知者の名は、世界 8の原理[はじまり]でもある 世界の目的[終り]について考察をめぐらす人だけに限定される。だから、哲学 者によれば、「最も高い諸原因」 9を考察することが知者に属するのである。
a) さて、それぞれの事物の究極目的とは、その事物の第一の作者あるいは第一 の動者によって意図されていることである。ところが、世界の第一の作者あるい は動者とは、以下で示されるように 10、知性である。それゆえ、世界の究極目的とは知性の善でなければならない 11。だが、これは真理である。 それゆえ、世界全体の究極目的は真理でなければならないし、知恵は主要にはそ れの考察に留まるのでなければならない 12。
b) だからこそ、肉を取った神の知恵[キリスト]が、自分が世界へと到来したのは真理の明示 のためであると証言しているのである。すなわち、『ヨハネによる福音書』[18章37 節]で、「私は真理を証するためにここに生まれ、この世に来たのだ」と述べられ ているのである 13。
だが、哲学者は第一哲学もまた「真理の学知」であると規定している。とはいえ、 それはどのような真理であってもというわけではなく、すべての真理の起源であ るような真理の学知なのであり、これはすべてのものにとっての存在の第一原理 に属する真理の学知である。それゆえまた、その真理はすべての真理の原理なの である。というのは、諸事物の真理における状態はその存在における状態と同様 だからである 14。
ところで、対立するものの一方を追及することと他方を排除することとは同じこ とに属する。たとえば、健康を作り出すものである医学が病気を取り除くように である。それゆえ、とりわけ第一原理についての真理を省察し他の人にその真理 を述べることが知者に属しているの同様に、反対のものである誤謬を排斥するこ とも知者に属している 15。
だから、前掲の言葉 16において知恵[ソロモン]の口から、知者の二つの務めが明らかにされて いることは適当なのである。すなわち[一つは]、換称的に 17真理である神的真理を省察して述べることであり、こ れが「私の喉は真理を省察し」と知者が言ったときに指していたことである 18。もう一つは、真理に対立す る誤謬を排斥することでる。これが「私の唇は不敬虔なものを忌み嫌うであろう」 と言ったときに指していたことであり、それによって神的真理に対立する虚偽が 指示されている。この虚偽は<敬虔>とも名づけられる敬神の反対のものなので ある。だから、それに対立する虚偽も<不敬虔>という名を得ることになるので ある 19。
第 2 章
本書における著者の意図
さて、人間のなすすべての研究のうちで知恵の研究がより完全、より崇高、より 有益、そしてより喜ばしいものである。
a) <より完全>というのは、人間が知恵の研究をすればするだけ、真なる至福 の何らかの部分をすでに持つことになるからである。だから知者[ベン・シラあるい はその祖父]は「知恵にとどまる人は至福である」(『集会の書』14章21 節)と言っているのである。
b) また<より崇高>というのは、その研究によって人間はとりわけ神の類似へ と近づくのであり、その神は「すべてを知恵において」なしたからである 20。それゆえ、類似は愛(dilectio)の原因であるから、知恵の研究は人間を友愛によってとりわけ神と結びつけるのであ る。このために知恵は「人間にとって無限の宝庫であり、それを用いる者は神と の友愛を分け持つものとされる」(『知恵の書』7章14節)と語られているので ある。
c) また、<より有益>というのは、その知恵によって人間は不死の国へと達 するからである。というのは、「知恵への欲望は絶えざる国へと導く」(『知 恵の書』6章21節)からである。
d) また、<より喜ばしい>というのは、「それとの付き合いには苦さがなく、それと ともにあることは苦労がない。それどころか、満足と喜びがある」(『知恵の書』 8章16節)からである 21。
そこで、自身の力を超えるのではあるけれども、神の憐れみによって知者の務め を追求すべき確信を得たので、われわれの意図するところはカトリックの信仰が 告白している真理をわれわれの分に応じて明示し、またそれと反対の誤謬を消去する ことである 22。ヒラリウ スの言葉を用いるならば、「私のすべての言葉と思いとが」神を「語ること、こ のことを私は私の人生の主要な務めとして」神に対して「なさねばならないと自 覚している」のである 23。
しかしながら、個々の人々の誤謬に対して議論をすることは困難である。これは 二つの理由による。第一は、誤謬を犯した個々の人々の語った冒涜的なことをわ れわれが知っているわけではなく、彼らの語っていることから彼らの誤謬を破壊 するための根拠を取り出してくることができないからである。古代の教師たちは このような仕方を異教徒 24の誤謬を破壊するために用いた。だが、それはその教師 たち自身も異教徒だったことがあるためか、少なくとも異教徒たちと交わって彼ら の教説に通暁していたために、異教徒の立場を知ることができたからなのである。
a) 第二には、誤謬を犯している人々のうち、マホメット教徒や多神教徒のよう な人々がいて、彼らはいかなる聖書の権威においてもわれわれと一致していない からである。というのは、ユダヤ教徒には旧約聖書によって議論をすることがで きるし、異端に対しては新約聖書によって議論をすることができるように、聖書 の権威によって打ち負かすことができるのであるが 25、彼らはこのどちらも受け入れていないのである。
b) だから、万人が承認するように強いられるものである自然本性的論拠に立ち戻らねばな らないのである 26。とはいえ、その自然本性的論拠は神的なことがらにおいては欠陥があるのである。
だが、何らかの真理を見出すことによって、同時にわれわれはその真理を通じて どのような誤謬が排除されるのかを明らかにすることになろう。またそうすることで、 論証による真理がキリスト教の信仰とどのようにして調和するのかも明らかにす ることになろう 27。
第 3 章
神的真理を明示するのにどのような様態が可能であるか
だが、すべての真理を明らかにする様態が同じであるわけではない 28。ところで、「それぞれの ものについて事物の本性の許すだけの確信を得ようと努めることが、学問のある 人に属する」と、アリストテレスが極めてうまく述べたこととして、ボエティウ スが提示しているのである 29。だから、当該の真理を明示するためにどのような様態が 可能であるのかを、まず明らかにしなければならない。
さて、われわれが神について告白していることがらには、真理の二つの様態があ る 30。
a) 神に関わる真なることがらのうちのあるものは、人間理性のあらゆる力能(facultas)を 越えている。たとえば、<神が三にして一であること>がそうである。
b) それに対してもう一つは、自然本性的理性であってもそれに到達できること がらである。たとえば、<神が存在すること>、<神が一であること>、それと 同様のことなどである。これらのことは哲学者たちも、理性の自然本性的光に導 かれて、神について論証的に証明してきたのである 31。
だが、神に関する知性認識され得ることがらのなかには、人間理性の才(ingenium)を全く越 えているものがあることは、極めて明らかである 32。
a) その理由は次のとおりである。何らかの事物について理性が把握する学知全 体の原理はその事物の実体の知解である。哲学者の教説によれば、論証の原理は<何であ るか>だからである 33。それゆえ、事物の実体が知性認識される様態に応じて、そ の事物について認識されることがらの[認識される]様態があることになる。だから、人間知性 が何らかの事物の実体、たとえば石や三角形の実体を完全に把握するならば、そ の事物に関して知性認識され得ることがらのどれも人間理性の力能を越えていな いことになる 34。
b) だが、こんなことが神についてわれわれに生じることはない。というのは、 神の実体を捉えるまでに、人間知性が自然本性的力によって到達することはでき ないからである。実際、現世の状態ではわれわれの知性の認識は感覚から始まる。 だから、感覚のうちに入ってこないものは、人間の知性によって捉えられ得ない のである。ただし、感覚に入ってこないものの 35認識が可感的事物から取り集められる場合は別であるが。 とはいえ、われわれの知性が、神の実体の何であるのかが感覚的事物において分 かるほどまでに、その事物によって導かれることはできないのである。なぜなら、 可感的事物とはそれの原因の力と等しいような結果ではないからである。
c) しかし、われわれの知性は神について、それが存在することやその他同様の 第一原理に帰属させるべきことがら 36を認識するところまでは、可感的事物から導かれるのである。
d) それゆえ、神に関わる知性認識されうることがらのうちの或るものは、人間 理性に接近できるものである。それに対して、或ることがらは人間理性の力を全く 超えているものなのである。
a) さらに、同じことは諸々の知性のなかに段階があるということからも容易に分かる。つまり、二 者のうちの一方の者が或る事物を他方の者よりも知性によってより精妙に見て取っ ている場合、その知性がより高次である方が、他方がまったく捉え得ない多 くのものを知性認識している。たとえば、哲学の精妙な考察を全く捉え得ないよ うな教養のない人において、このことは明らかである。
b) ところで、天使の知性が人間知性を超えている程度は、最良の哲学者の知性 が全く無教養で無学の人の知性を超えている程度よりも大きい。なぜなら、後者 の距離は人間という種の範囲に含まれているが、天使の知性はその範囲を越えて いるからである。実際、天使が神を認識するのは、人間の場合よりも高貴な 結果によってなのである。それは 37、天使がそれを通じて神の認識へと自然本性的認識によっ て導かれる天使の実体そのものが、可感的事物より高貴であり、さらには人間知 性が神の認識へとそれを通じて昇ってゆく魂よりも 38高貴であるということによる。
c) そして、神の知性が天使の知性を超えている程度は、天使の知性が人間の知 性を越えている程度よりもはるかにずっと大きい。実際、神の知性そのものはそ の包括力において神の実体と等しいので、自己の何であるかを完全に知性認識する。 また、自己に関して知性認識されうることがらのすべてを認識するのである 39。それに対して、天使は神 の何であるのかを自然本性的認識においては認識しない。なぜなら、それを通じて 神の認識へと導かれる天使の実体そのものであっても、それは力が等しくない [神という]原因の結果だからである。それゆえ、神が自己において知性認識す ることがらのすべてを、天使が自然本性的認識のよって捉えることができるわけ ではない。そしてまた、人間理性は天使が自己の自然本性的力によって知性認識 していることがらのすべてを捉えるのに、十分なものではないのである。
d) 以上から、哲学者が提示していることがらを捉えることができないからといっ て、それを偽であるとする無学の人が最大の狂気のうちにあるのと同様に、いや それ以上に、天使の仲介で神によって啓示されたことがらを 40、理性によって見出すこ とができないのだから偽ではないのかと疑う人がいたならば、その人は度外れた愚 昧のうちにあることになるのである。
さらに同じことは、われわれが事物を認識するときに日々経験している欠陥とい うことから明らかである。実際、われわれは可感的事物の多くの固有性について 無知であり、また感覚によって把握している固有性のもつ本性 41についても、大概の場合に それを完全には見つけ出すことができないでいる。それゆえ、なおさら一層、あ の最高に卓越した実体[神]について、その知性認識されうることがらのすべてを見出すには人間 理性は不十分なのである。
a) 哲学者の言葉も以上のことと調和している。『形而上学』第2巻において、 「われわれの知性は本性の上ではもっとも明らかな第一の諸々の存在者に対して、 こうもりの眼が太陽に対するようなものである」と主張しているからである 42。
b) 聖書もまたこの真理のために証言をしている。実際、『ヨブ記』11章7節で 「おまえは神の足跡を把握できるのか。また、全能者を完全に見つけうるのか」 とあり、36章26節では「さあ、偉大なる神よ、われわれの学知を打ち負かす神よ」 とある。また、『コリントの信徒への手紙1』13章9節には、「われわれは部分的 に知る」とある。
以上から、神について述べられていることは、そのすべてが理性によって見出さ れることができないにしても、マニ教徒や多くの不信仰者が考えていたようには、 すべてがただちに偽として捨て去れらるべきではないのである。
第 4 章
自然本性的理性が到達する神的なことがらに関わる真理が、人間に信じるべきも のとして提示されていることは適当なことであること
さて、神的で知性認識可能なことがらの真理には二つがあり、一つは理性の探究 で到達することのできないもの、他方は人間理性の才のすべてを越えているもの なのであるが、その両方が人間に信じられるべきものとして提示されていることは適 当なことである。
a) だが、理性の探究によって接近可能である前者について、まず最初に明らか にしなければならない。というのは、それが理性によって保持され得るからといって、 それが信じるべきこととして超自然的な霊注(inspiratio)によって伝えられたというこ とが無用のことだなどと人に思われることのないためにである。
b) もしそうではなく、このような真理がただ理性のみで探究するに任せられて いたとしたならば、次の三つの不都合が生じることになるのである 43。
一つの不都合とは、神の認識がわずかの数の人にしか内属しないことになるとい うことである。実際、真理の発見という研究的探究の果実[を得ること]を、多 くの人は次の三つの原因のために妨げられている。
a) 実際、或る人々は体質が不具合 44であることによって妨げられている。そのために、多く の人は生まれつき知るということに対する状態づけがなされていないのである。だか ら、神を認識するということに存している人間の認識の最高段階に触れるところまで到 達することは、その人々にはいかなる研究によっても不可能なのである 45。
b) また或る人々は、家政の必要のために妨げられている。実際、人々の中には時間 的なことがらの管理に意を注ぐ人がいなければならない。そのような人は観想的 探究への閑暇のために時間を使って、神の認識という人間の探究の最高点にまで 到達することはできないのである 46。
c) また或る人々は、怠惰のために妨げられる。実際、神について理性が見出 すことのできることがらの認識のためには、多くのことを前もって認識しなけれ ばならない。というのも、哲学のほとんど全体の考察は神の認識へと秩序づけら れいる。だからこそ、神的なことにかかわるものである形而上学は、哲学の諸部門のうちで最 後に学ぶべきものとされつづけているのである 47。
d) だから、上述の真理の探究に至ることができるには、研究の多大の労苦を 欠くことはできないのである。そして、神は人間の精神に学知への愛を自然本性 的欲求として植えつけているにしても、その愛のためにこれほどの労苦を耐え忍 ぼうとする人は少数なのである 48。
第二の不都合は、上述の真理の発見に至るような人々であっても、長い時間の 後になってやっとそこに到達するということである。
a) それは一つには、この真理の深遠さのためであり、その真理を理性の方途に よって捉えるのに人間知性がふさわしいものとなるのは、長い修練の後でしかな いからである 49。
b) また一つには、記述のように 50、多くのことが前もって認識されていなければならないからである。
c) また一つには、若年のときに魂がさまざまな情念の動きによって揺れている 間は、これほど高度の真理の認識には適さず、『自然学』第7巻で述べられてい るように、「それを静めることによって賢慮と学知をもつものとなる」からであ る 51。
d) よって、神を認識するのに理性の方途だけしかなかったとしたら、人類は最 大の無知の暗闇の中にとどまっていたことであろう。というのは、神の認識が人 間をもっとも完全で善良なものとするのであるが、その認識はわずかの人々にとっ てだけに、しかも長い時間の後にしか到来しないようなものだからである。
第三の不都合は、人間理性の探究には多くの虚偽が混じるということである。
a) それは、判断に際してのわれわれの知性の脆弱さと表象像との混合のためで ある。それゆえ、もっとも真なる仕方で論証されたことがらでさえも、多くの人 の場合、論証の力というものを知らないために疑いのうちにとどまることになる。 またとりわけ、知者と言われているさまざまな人々がさまざまに異なったことを 教えているのを見るときにはそうなるのである 52。
b) 実際、論証されている多くの真なることがらの中に、論証されているのでは なくて何らかの蓋然的あるいは詭弁的論拠によって主張されている虚偽が時とし て混じりあっており、それが論証であると評価されることもあるのである。
c) それゆえ、神的なことがらについての堅固な確実性と純粋な真理が、信仰と いう方途によって人間に示される必要があったのである 53。
それゆえ、有り難いことに 54神の寛大さは、理性が見出すことのできることがらであっ ても信仰によって保持するように命じるというほどに備えをなしているのである。 そうすることで、すべての人が神の認識を分有する者となり、しかも疑いと誤謬 なしにそうなることができるのである。
このことゆえに、『エフェソの信徒への手紙』4章17節で「あなたがたは、自分 の考えという虚栄のなかで闇の暗い知性も持ちながら歩む異邦人たちのように歩 むことのないように」と語られているのである。また、『イザヤ書』54章13節で は、「私はあなたの子らすべてを主によって学識あるものとなそう」と言われて いるのである。
第 5 章
理性によって見出され得ないことがらが、信仰によって保持されるように人間に提示されていることは適当であること
ところで、理性で見出すには不十分なことがらが、それを信じるようにと人間に提示されるべきではないと思われる人々がおそらくいるであろう 55。というのも、神の知恵はそれぞれのものにその自然本性の様態に応じて摂理をなすのだからというわけである。そこで、理性を超えていることがらでさえも、人間に信じるべきこととして神によって提示されることが必要であるということが論証されねばならない。
a) それは次のようにしてである。人が欲求と研究とによって何かへと向かうのは、その何かが前もってその人に認識されている場合だけである。それゆえ、後に見出されることになるように 56、人間はそのもろさゆえに現世において経験できるよりも高次の善へと神の摂理によって秩序づけられている以上、精神はわれわれの理性が現在到達できるよりも高次の何かへと呼び出されているのでなければならなかったのである。そうして、精神は現世の状態全体を越えている何かを欲求し、その何かへと研究によって向かうことを学ぶのである。
b) このことはとりわけキリスト教に適合する。それは特別に霊的で永遠の善を約束しているからである。だからまた、そこにおいて人間の感覚を越えた多くのことが提示されているのである。それに対して、旧法で約束されていたのは時間的なものであり、人間理性の探究を越えたものはわずかだけが提示されているのである。
c) またこの意味で、哲学者たちも人間を感覚的な快から誉れへと導くために、この感覚的なことよりも力のある別の善が存在し、行為の徳あるいは観想的徳にいそしむ人々はこの善の味わいをずっと甘美に悦ぶのだということを明らかにすることに意を注いだのである。
さらに、このような真理がそれを信じるようにと人間に提示されることが必要であるのは、神についてのより真なる認識を持つためである。というのは、われわれが神を真に認識していることになるのは、神について人間が考えることが可能なすべてを神が越えているのだということを信じるときだけだからである。先に示されたように 57、神の実体は人間の自然本性的認識を越えているからである。それゆえ、理性を越えている何ごとかが神から人間に提示されることによって、神とは考え得るものを越えた何かであるという見解が人間において確保されるのである 58。
ここからもう一つ別の効用(utilitas)がでてくる。それは誤謬の母である思い上がりの抑制という効用である。実際、自分の才だけで思い上がって、諸事物の自然本性全体を自分の知性によって測ることができるのだと考えるような人々がいる。つまり、自分にそうだと思われることの全体が真で、そうだと思われないことは偽であると評価する人々がいる。だから、人間のこころがこの思い上がりから解き放たれて謙遜な真理の探究へと至るために、人間の知性をまったくもって越えている何らかのことが、神によって人間に提示されることが必要だったのである。
a) またもう一つの効用があって、それは哲学者が『倫理学』第10巻において述べていることから明らかである。つまり、シモニデスとかいう者 59が人に神的認識をあきらめ、人間的なことがらに才を用いるようにと説得しようとして、「人間は人間的なことを味わい、死すべきものは死すべきものを味わうべきである」と言ったときに、それに対して哲学者は「人間はなし得るかぎり不死で神的なことがらへと向かうべきである」と述べているのである。
b) だから『動物論』第11巻 60で、上位の諸実体についてわれわれの捉えることはわずかであるのに、その少数のことが下位の諸実体についてわれわれの持つすべての認識よりも愛され欲求されている、と述べているのである。
c) また『天体・世界論』第2巻 61では、天体についての疑問については、それがわずかの蓋然的な(topica)解決によって解決されるときにも、聴講者の喜びは激しいものとなることがあると述べているのである。
d) 以上すべてのことから、最も高貴な事物については、どれほど不完全な認識であろうとも魂に最大の完全性をもたらすということが明らかなのである。
それゆえ、理性を越えたことがらを人間の理性は明白に捉えることはできないのではあるが、少なくともそれらのことを信仰によって何らかの仕方で保持するならば、理性には多くの完全性が得られるのである 62。
a)だから、『集会の書』3章25節では「人間の思いを越えた多くのことがあなたに示された」と語られている。
b)また『コリントの信徒への手紙1』2章11節では「神に属することは神の霊でなければ何人も知らない」と、だが10節では「神はその霊を通じてわれわれに啓示された」と言われているのである 63。
第 6 章
信仰に属することがらに同意することは、理性を越えているにしても、軽率ではないこと
とはいえ、「人間理性がそれの経験を持つ」 64ことのないこのような真理に対して信仰を保持する人々が、『ペテロの第二の手紙』[1章16節]で語られているような意味で、いわば学識のない「作り話に従っている人々」のように、軽率に信じているわけではない。
というのは、万物をもっとも明白に知っている神的知恵それ自身が、人間にこの神的「知恵の秘密」を啓示することが相応しいと見なしたからである。つまり、その神的知恵は自己の現前および教えと霊注の真理を適切な議論によって明らかにする一方 65、自然本性的認識を超えたことがらを確かなものとするために、自然本性全体の力能を越えている業を目に見える仕方で明らかにしているのである。つまり、病人の驚くべき癒し、死者のよみがえり、天体の驚くべき変化において示している。また、さらに驚くべきことには、無学で単純な人々が聖霊の賜物に満たされ一瞬のうちに最高の知恵と雄弁とを獲得するといった、人間の精神への霊注において示されている。
以上のことが洞察して、無数の民衆、それも単純な人々だけでなく極めて知恵のある人々がキリスト教の信仰へと殺到したのは、上述の証明の効力によるのであって、武器による強制によるのでも、快楽[を満たすという]約束のゆえでもなかったのである。またもっとも驚くべきことであるが、このことが迫害者たちによる専制体制の間におこったのである。それも、キリスト教信仰においては人間のあらゆる理解を超えることがらが述べ伝えられており、肉の快楽が抑制され、この世にあるすべてのことがらは価値の低いものだと教えられているのにそうだったのである。これらのことに死すべき人間のこころが同意しているということも最大の奇跡であり 66、また、目に見えることがらが価値のないものとされ目に見えないことがらだけが熱望されていることは神の霊注の明白な業なのである。
だが、このことが一挙に偶発からではなく神の配慮からなされたということは、神が預言者たちの多くの予言を通じて、自分がそのようになすのだということを前もって語っていたことから明らかである。そしてその預言者たちの書物は、いわばわれわれの信仰の証をもたらすものとして、私たちのもとで崇敬されているのである。
今述べたような[信仰を]確かなものとするやり方が『ヘブル人への手紙』[2章3-4節]で触れられている。「これは」、すなわち人間の救いは、「主によって初めに語られ、それを聞いた人々からわれわれにおいて確かなものとされている。そして、神がしるし、驚くべきことがら、それに聖霊の様々な分与によって証しているのである」と言われているのである 67。
さて、世界がキリスト教信仰へと回心するというこの驚くべきことは、過去のもろもろのしるし[の目的]を最も確実に証拠だてるものである 68。だから、その結果において明らかに現れているのであるから、過去のしるしがさらに繰り返される必要はない。実際、世界がかくも至難のことがらを信じ、かくも困難なことがらをなし、かくも気高いことがらに希望を抱くことへと単純で生まれ卑しき人々によって導かれるということが、どんな驚くべきしるしもなしになされていたとしたら、それはあらゆるしるしよりもさらに驚くべきことであろう。とはいえ、神はわれわれの時代においても、信仰を確かなものとするために聖人たちを通じて奇跡をなすことをやめているわけではないのではあるが。
だが、誤った党派を導きいれてしまった人々は、これ[キリスト教の場合]とは逆の道を進んでいたのである。
a) このことはマホメットにおいて明らかである。彼は肉的快楽を約束し、その快楽の欲求へと肉的欲望が湧き起こるようにと、人々を誘い出したのである 69。
b) また、彼は肉的快楽の手綱をゆるめてその約束に見合った規定を伝えたのであり、肉的な人間たちはすぐにその点に従うことになったのである。
c) さらに、彼が真理の証拠として持ち出したのは、凡庸な知恵を持つものであればだれでも自然本性的才で容易に認識され得るようなことだけだったのである。さらには、彼は自分が教えた真なることがらに、多くの作り話と極めて間違っている教えとを混ぜ合わせているのである。
d) また、マホメットは超自然本性的になされたしるしを示さなかった。神的霊注に適合した証が示されるのはそのようなしるしだけによるのであり、神的なものでしかあり得ない可視的なはたらきが、真理の教師が目に見えない仕方で霊注をうけたことを明らかにするのである。ところが、彼は自分が武器の力において派遣されたと語ったのであって、そのようなしるしは強盗や独裁者にさえ欠けていないわけではないのである。
e) また、初めから彼に信をおいていたのは、神的なことがらや人間的なことがらに熟達した知恵ある人々ではなかったのである。そうであったは砂漠に住み、神的なすべての真理を少しも知らない野獣的人々だったのである。マホメットはそのような大衆を通じて、武器の暴力によって他の人々を自分の法へと強制したのである。
f) また、先行する預言者たちによるどんな予言も、彼のための証となっているわけではない。むしろ彼は旧約と新約のほとんどすべての証拠をおとぎ話じみた語り口によって損なっているのであり、そのことは彼の律法を吟味する人には明らかなのである。だから、彼が自分に付き従う人々に旧約と新約の諸書を読むべきでないものとしたのは、それによって[自分の]虚偽が難じられることのないようとの、抜け目のない配慮だったのである。
g) 以上のように、彼の語ることに信仰をおく人々は軽率に信じているのである 70。
第 7 章
理性の真理がキリスト教信仰の真理と対立するわけではないこと
さて、前述のキリスト教信仰の真理は人間理性の受容力を越えているにしても、理性が自然本性的に与えられたものとして有している真理がこの真理と対立するものではあり得ないのである。
というのは、理性の中に自然本性的に備わっていることがらは極めて真であることが確かであり、それが偽であると考えることが不可能なほどである 71。また、信仰において捉えられていることがらは、神によってこれほど明証的に確保されているのであるから 72、それを偽であると信じることは許されないのである。それゆえ、真の定義を吟味すれば明白であるように、真なることに対立するのは偽なることだけである以上、理性が自然本性的に認識している諸原理に上述の信仰の真理が対立することは不可能なのである。
同様に、教える者によって弟子の魂のうちに導入されることは、その教師の学知が含んでいるものと同じものである。ただ、教える者がいつわって教える場合はべつであるが、そんなことを神について語ることは不敬なことである。ところで、自然本性的に知られる諸原理の認識はわれわれのうちに神によって備えられている。というのも、われわれの自然本性の作者は神自身だからである。それゆえ、神的知恵はこの諸原理をも含んでいることになる。だから、この諸原理に対立することはどんなことでも、神的知恵に対立している。だからそのようなことは神に由来するということはあり得ない。だから、神的啓示に由来し信仰によって捉えられていることは、自然本性的認識に対立するものではあり得ないのである。
さらに、われわれの知性は対立する諸根拠に結びつくことがあるが、その場合には真なることの認識へと進むことができなくなる。それゆえ、もし対立する[内容の]認識が神からわれわれに送り込まれるのだとすると、そのことによってわれわれの知性は真理の認識を妨げられることになるであろう。こんなことが神に由来することはありえないのである。
さらにまた、自然本性的であるようなことがらは、自然本性がそのままであるなら、変化することはできない。ところが、対立する意見が同時に同じ人に内属することはできない。それゆえ、何らかの意見あるいは信仰が自然本性的認識に反して人間に神から送り込まれることはないのである 73。
a) そういうわけで使徒[パウロ]は『ローマ人への書簡』[10章8節]で次のように言っているのである。すなわち、「言葉は近くに、あなたの心と口の中にある。これはわたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である」。とはいえ、この言葉は理性を越えているために、少なからぬ人々はそれを対立するものと見なしているのである。だが、これはあり得ないことである。
b) このことはまた、アウグスティヌスの権威にも合致している。彼は『創世記逐語注解』第2巻 74において次のように述べているからである。「真理が」開示していることは「旧約であろうと新約であろうと、聖なる書物に反することはどんな意味においてもあり」得ない。
c) 以上から、どのような議論が信仰の証拠に反対したものとして措定されとしても、それが自然本性のうちに備えられた自明な第一諸原理から正しい仕方で出てくることはないということが結論される 75。だからまた、それは論証としての力をもっておらず、蓋然的あるいは詭弁的な論拠(rationes probabiles vel sophisticae)なのである。だから、そのような論拠を解消する余地が残されているものなのである。
第 8 章
人間理性は信仰の真理にどのように関わるのか
a) また、次のことを考察しておくべきであると思われる。すなわち、人間理性の認識がそこから始まる可感的事物は、そのうちに神の模倣の何らかの痕跡(vestigium)を保持しているが、その痕跡は不完全で神自身の実体を明らかにするにはまったく不十分であることが見出される。というのも、「作用者は自己と類似したものをなす」 76のである以上、結果というものはその原因の類似性を自分の様態において有してはいるが、結果が作用者の完全な類似性に常に到達するわけではないからである。
b) それゆえ、人間の理性が信仰の真理(それは神の実体を見ている人々にだけ最もよく知られるものである)を認識するということは、その真理へ向かう[途上の]何らかの真らしさ(verisimilitudines)を取り集めることはできるということである。だが、その真らしさでは前述の真理がいわば論証的に、あるいはそれ自体で知性認識されているものとして[完全に]把握される 77には十分でないのである。
とはいえ、このようなどれほど脆弱な諸論拠であっても、それを[完全に]把握しているとか論証しているとかいった僭越がない限り、人間精神がその論拠において自己を鍛えることは有益である。なぜならば、上述のことから明らかなように 78、極めて気高い事象に関しては、どれほどわずかで脆弱な考察によるにしても、何らかのことを吟味し得るということは極めて喜ばしいことだからである。
以上の主張にヒラリウスの権威が合致している。彼はこのような真理について『三位一体論』において、次のように語っている。すなわち、この真理を信じることから「始め、前進し、堅く留まりなさい。たとえあなたが到達することはないであろうことを私が知っているにしても、進歩することを私は祝します。というのは、敬虔さをもって無限なるものを追求する人は、いつか達するということがないにしても」、常に「前進し進歩するからです」。しかし、「最高の知性実体」を把握しようなどと見込んで、かの秘密に入り込まないように、また限りのない「出生の秘所」に飛び込まないように。「それらは把握不可能であること」を理解しなさい 79。
第 9 章
この著作における論述の順序と方法について
さてこれまで述べたことから、知者の意図するものとは神的なことがらの二種の真理とそれとは反対の破壊されるべき誤謬とに関わるべきであるということが明らかとなった。その真理の一方は理性の探究が到達し得る真理であり、他方もう一つの真理は理性のあらゆる才能を越えたものである。とはいえ、神的なことがらの二種の真理と私が言うのは、神自身の側からではない。神は一つで単純な真理だからである。そうではなくて、私はわれわれの認識の側からそう言うのである 80。なぜなら、われわれの認識は認識されるべき神的なことがらに対してさまざま異なった仕方で関わるからである。
a) そこで第一の真理を明示するためには、敵対者がそれによって打ち負かされ得るような論証的論拠によって議論が進められなければならない。
b) しかし、第二の真理に関してはそのような論拠を持つことができないので、敵対者が論拠によって打ち負かされることが意図されるべきではない。そうではなく、その人が真理に反対するものとして有している論拠が解決されることが意図されるべきである。というのは、示されたように 81、自然本性的理性が信仰の真理と対立するものではあり得ないからである。
しかし、このような真理に反対する敵対者たちを打ち負かすための特有の議論の方法は、奇跡についての神によって確保された聖書の権威によるものである。実際、人間理性を越えていることがらについては、われわれはそれを神が啓示することによってしか信じないのである。
とはいえ、このような[啓示による]真理を明示するために、何らかの真らしい論拠(rationes verisimiles)を導入すべきである。ただそれは、信仰者の修練と慰めのためであって、敵対者たちを打ち負かすためではない。なぜなら、この論拠の不十分さのために、われわれがかくも脆弱な論拠によって信仰の真理に同意しているのだと敵対者がみなしてしまい、彼らの誤謬をいっそう確固たるものとしてしまうことになるからである 82。
そこでわれわれはいま提示された方法で議論を進めることを意図して、まず第一に信仰が告白し理性が見出す種類の真理を明示することに努める。その場合には論証的論拠と蓋然的論拠(rationes probabiles)とを導入し、それらの論拠のいくらかを哲学者たちと聖人たちの著作からわれわれは取り集め、それによって真理が確証され敵対者が打ち負かされるのである 83。
次に、より明示的なことからより明示的でないことがらへと議論が進むように、われわれは理性を越えた真理を明示することへと進む。その場合には敵対者たちの諸論拠を蓋然的論拠と権威の両方によって解決し、神が許す限りにおいて、信仰の真理を表すことになる 84。
このように[まず]、われわれは神について人間理性が見出し得る真理を理性の方途を通じて追究することを意図しているので、
a) 第一に、神に神自体にそくして適合することがらについての考察がなされる。
b) 第二に、被造物の神からの発出についての考察が、
c) 第三に、被造物の神を目的とする秩序についての考察がなされる 85。
a) さて、それ自体としての神について考察されるべきことがらのうちで、いわば全著作にとって必要な基礎として提示しておかねばならないのは、神が存在することがそれによって論証される考察である。
b) このことが得られないならば、神的事象に関する考察の全体が破壊されてしまうのである。