第 10 章
神が存在することは自明なので論証され得ないと言う人々の見解
さて、神が存在することを論証しようとするこの考察は、ある人々にはおそらく余計なことに思われるであろう。そのような人々は、神が存在することはその反対が考えられ得ないほでに自明 1であって、その意味で神が存在するということは論証され得ないと主張するからである。確かにこのような主張は次のような根拠に拠っているのである。
自明であると言われるのは、その項が知られると[命題全体が]直ちに認識されるようなものである。たとえば、全体とは何であり部分とは何であるのかが認識されると、どんな全体もその部分よりも大きいことが直ちに認識されるのである。「神が存在する」とわれわれが言っていることはそのようなものなのである。というのは、神という名称によって「それ以上大きなものが考えられえないもの」をわれわれは知性認識している。ところが、このものが、神という名称を聞き知性認識する者によって、その知性のうちに形成されている。こうして少なくとも、知性のうちにはすでに加味は存在していなくてはならないことになる。だが、知性のうちにのみ存在することはできない。というのは、知性と実在と[の両方]において存在するものの方が、知性のみにおいて存在するものよりも大きいからである。ところが、神よりも大きなものは何も存在しないことは、その名称の概念そのものが明らかにしている 2。それゆえ、神が存在するということは、名称の意味それ自体からいわば明白なこととして、自明だという結論となる 3。
同じく、存在しないとは考えられ得ない何かが存在すると考えられ得る。そのことは明らかに存在しないと考えられ得るものよりも大きい。それゆえ、もし神が存在しないと考えられ得るとしたなら、神よりも大きな何かが考えられ得ることになるであろう。このようなことはその名称の概念に反している。それゆえ、神が存在するということは自明であるということになる 4。
さらに、「人間は人間である」といった命題のように、あるものがそれ自身に述語されるような命題はもっとも知られたものでなければならない。あるいは、「人間は動物である」といった命題のように、主語の定義のうちに述語が含まれているような命題はもっとも知られたものでなければならない。ところが、その存在とはその本質であるということが、以下に明らかにされるように、神においてとりわけ認められる 5。それは「何であるのか」という問いへの答えと「存在するのか」という問いへの答えとが同じようなものなのである。それゆえ、「神が存在する」と言われるときには、その述語[存在する]は主語[神]と同じであるか、少なくとも主語の定義のうちに含まれているのである。このようにして、神が存在するということは自明なのである。
加えて、自然本性的に知られていることがらはそれ自体によって 6認識される。そのようなことがらの認識に達するのに、熱心な探求によるのではないからである。さて、神が存在するということは自然本性的に知られている。なぜなら、後に明らかとなるように、人間の欲求は究極目的としての神へと自然本性的に向かうからである。それゆえ、神が存在するということは自明である。
同じく、ほかのすべてのものがそれによって認識されるものは自明でなければならない。ところで、神はそのようなものである。というのは、太陽の光がすべての可視的なものの知覚の原理であるのと同様に、神の光はすべての可知的なものの認識の原理だからである。というのも、もっとも可知的な第一の光が見出されるのは神においてだからである。それゆえ、神が存在するということは自明でなければならない。
以上のことや同様のことから、ある人々は神が存在するということは、その反対が精神において考えられ得ないほどに自明なものとして現れている 7という見解を持つことになったのである。
第 11 章
前述の見解への論駁とその諸根拠に対する解答
さて、前述の見解は次のことに由来する。
a)それは部分的には、彼らがはじめから神の名を聞き呼びかけることに慣れてきたという習慣に由来する。だが、習慣とりわけ幼年のころからの習慣は自然本性の力を得るものである 8。そのことから、精神が幼年期からそれに浸っていたことがらを、あたかも自然本性的で自明であるかのように堅固に保持することになるのである。
b)また部分的には、端的に自明であることとわれわれにとって自明であることとが区別されないということに由来している 9。というのも、神が存在するということは端的にはたしかに自明である。神がそれであるものとはその存在(エッセ)だからである。ところが、神がそれであるものそれ自体をわれわれは精神によって把握できないので、それはわれわれにとっては知られないままにとどまる。すべての全体はその部分より大きいということは端的には自明であるが、全体という概念を精神において捉えていないような人にとっては、それは知られていないはずであるのと同じことである。だからこそ、『形而上学』第2巻 10において述べられているように、諸事物のうちで最も明らかなことがらに対して、われわれの知性はふくろうの目が太陽に対するように関係しているいうことになるのである。
a)だから、第一の根拠[n.60]が意図しているようには、「神」というこの名の意味が認識されると神が存在することが直ちに知られるのでなければならないということにはならないのである。それは第一には、神がそれより大きなものが考えられないものであるということは、すべての人に知られているわけではない、それも神が存在することを認める人々にとっても知られているわけではないからである。実際、古代の多くの人々は神とはこの世界なのだと言ったのである。さらにまた、ダマスケヌスが提示しているこの「神」という名の諸解釈 11からも、何かそのようなことが理解されているとされているわけでもないのである。
b)また次には、この「神」という名によってすべての人がそれより大きなものが考えられ得ない何かを理解すると仮定しても、それより大きなものが考えられ得ない何かが実在において存在するということは必然ではないであろう。というのも、事物と名の概念との措定の仕方は同じでなければならない。ところが、この「神」という名によって示されていることが精神において捉えられているということからは、神が知性において存在するということしか帰結しない。それゆえ、それより大きなものが考えられ得ないものも、それが存在するということが当然であるのは知性においてだけだということになろう。そして、このことからは、それより大きなものが考えられ得ない何かが実在において存在するということは帰結しないのである。そういうわけで、神が存在しないと措定するひとにも何も不都合は生じない。というのも、実在においてであれ知性においてであれどのようなものが所与とされても、それよりも大きなものが考えられ得るということに不都合はないのである。不都合があるとすれば、それよりも大きなものが考えられ得ない何かが実在において存在すると認めている人にとってだけなのである。
さらにまた、第二の論拠[n.61]が主張していたようには、神が存在しないと考えられ得るとしたらそれより大きな何かが考えられ得る、ということに必ずしもなるわけではない。というのは、神が存在しないと考えられ得るというこの事態は、その存在はそれ自体ではもっとも明白なものである以上神の存在の不完全性あるいは不確実性に由来するわけではなく、われわれの知性の脆弱さに由来するからである。われわれの知性は神をそれ自体を通じて直観し得るわけではなく、神の諸結果から直観するので、推論することによって神が存在するということを認識するにいたるものなのである。
以上からまた、第三の論拠[n.62]が解決される。全体はその部分よりも大きいということがわれわれにとって自明であるのと同様に、神の本質そのものを見ているものたちにとっては、神の本質はその存在であることによって、神が存在するということはまったく自明である。しかし、神の本質をわれわれは見ることができないので、神それ自体によってではなくそれの結果を通じて神が存在することを認識するに至るのである。
第四の論拠[n.63]に対する解答も明らかである。人間は神を自然本性的に欲求しているのと同じように、神を自然本性的に認識している。ところが、人間が神を自然本性的に欲求しているというのは、至福を自然本性的に欲求しているかぎりにおいてであって、その至福は神の善性の何らかの類似なのである。それゆえ、人間に自然本性的に知られているのは、それ自体として考察された神自身だということになるわけではなく、そうなるのは神の類似なのである。そこから、人間は諸結果のなかに見出される神の類似を通じて、推論をへて神の認識に到達するのでなければならないことになるのである。
また、第五の論拠[64]に対する解答も容易に明らかである。というのも、神はそれによってすべてのことが認識されるものではあるけれども、自明な諸原理の場合にそうであるのとはちがって、神が認識されなければ他のものが認識されないということではないのである。そうではなくて、われわれにおけるすべてのものの認識が神の影響によって原因されるからなのである。
第 12 章
神が存在するということは論証され得ず信仰だけによって保持されると主張する人々の見解について
ところで、ある人々の見解は前述の立場と反対のものであるが、その見解によっても神が存在するということを証明しようと試みる人々の努力は無益なものとされることになる。というのは、そのような人々の言うところでは、神が存在するということは理性によって発見されることはできず、ただ信仰と啓示の途によってのみ受け入れられるものだからである。
さて、ある人々がこう言うように動かされることになったのは、神が存在するということを証明するためにある人々が導入した諸論拠が脆弱であったためである。
とはいえ、この誤謬は、誤っているとはいえ、ある種の哲学者たちの言葉から何らかの支えを得ることはできるかもしれない。その哲学者たちは神において本質と存在とは、すなわち、「何であるのか」への答えとなることと「在るかどうか」という問いへの答えとなることとは同じであることを明らかにしている。ところが、神について何であるのかが知られるようになるまで、理性の途によって達することはできない。したがって、神が存在するかどうかについても、理性によって論証され得ないと思われるのである。
同じく、「在るかどうか」を論証するための原理は、哲学者の[論証の]技術によれば、名称が意味表示しているものを受け入れなければならないとし、他方で、『形而上学』第4巻の哲学者に従って「名称によって意味表示されている概念が定義である」とするならば、神の本質あるいは何性の認識が欠けている以上、神が存在することを論証するための途は何も残されていないことになるであろう。
同じく、『分析論後書』において示されているように、論証の原理は認識の期限を感覚から得ているのであるとするならば、あらゆる感覚と可感的なものを越えていることがらは論証不可能であるように思われる。ところが、神が存在することとはそのようなものなのである。それゆえ、そのことは論証不可能なのである。
しかし、以上のような考えが虚偽であることはわれわれにとって次の理由で明ら かになる。すなわち、
a) 諸結果から原因を結論するようにと教えている論証の方法から。
b) 諸学知の秩序そのものから。つまり、もし可感的実体を越えた何らかの実体 が知られ得るものでないとしたら、『形而上学』第4巻で述べられているように、 自然学を越えたどんな学知も存在しなくなることであろう。
c) 神が存在するということを論証しようと努力した哲学者たちの研究から。
d)また、『ローマ人への手紙』1章20節の「神の目に見えないことがらは作られ たことがらを通じて、知性認識されたものとして捉えられる」という使徒の真理 が肯定していることから。
だが、第一の論拠[n.74]が主張していた<神において本質と存在と は同一である>ということが、持ち出されてくるべきではない。というのは、そ の本質と同じようにわれわれにそれがどのようなものであるかが知られていない と理解されているのは、神がそれによってそれ自体において自存する存在なので あって、知性の複合を意味表示している存在が理解されているわけではないから である。実際、神が存在するということが論証のうちに入るのは、われわれの精 神が神について、神が存在するということをそれによって表現するような命題を 形成するように、論証的諸論拠によって導かれる場合のことなのである。
だが、神が存在するということがそれによって論証される諸論拠においては、第二の論拠[n.75]が主張しているように、神の本質あるいは何性が [論証の]媒介項だと受け取られるべきではない。そうではなくて、事実による 論証において生じるように、何性の代わりに結果が媒介項と受け取られる。そし て、このような結果から<神>という名称の概念が受け取られるのである。とい うのも、神的な名称はすべて、神の結果を神から引き離すことによってか、ある いは神のその結果への何らかの関係から賦与されるからである。
以上からまた、次のことが明らかである。すなわち、神はすべての可感的なこと と感覚とを越えているにしても、神が存在するということの論証がそこから受け 取られる神の結果というものは可感的なものなのである。この意味で、われわれの認識の起源が感覚にあるということは、感覚を越えていることがらについてもそうなのである。
第 13 章
神が存在することを証明する諸論拠
以上で神が存在するということを論証しようとすることが虚しいことではないこ とが示されたので、カトリックの教師たちと同様、哲学者たちがそれによって神 が存在することを証明した諸論拠の提示に進むことにしよう。
さて、まず最初に神が存在するということを証明するために、アリストテレスが それによって議論を進めた論拠を提示することにしよう。彼はこのことを運動の 側から証明しようと意図して、次の二つの方途に拠っている。
a) その第一の方途は次のようなものである。すなわち、動いているものはすべ て他のものによって動かされている。ところが、たとえば太陽のように、何らか のものが動いていることは感覚によって明らかである。それゆえ、それは他の動 かすものによって動かされている。
b) それゆえ、その動かしているものは動かされているか、あるいはそうでない かのいずれかである。もし動かされていないのであれば、その場合にはわれわれ は何らかの動かされ得ないで動かすものを措定することが必然であるという目下 の課題を得たことになる。そして、これ[動かされ得ないで動かすもの]をわれ われは神と言うのである。
c) また、もし動かされているのであれば、その場合には別の動かすものによっ て動かされていることになる。この場合には、これが無限に進むことになるか、 あるいは何らかの動かされ得ないで動かすものに至るか、のいずれかであること になる。ところが、無限に進むということはない。それゆえ、何らかの動かされ 得ないで動かす第一のものを措定することが必然なのである。
さて、以上の証明には、証明されるべき二つの命題がある。すなわち、<動いて いるものはすべて他のものによって動かされている>と<動かすものと動かされ るものにおいて無限に進むということはない>という二つの命題である。
このうちの最初の方を哲学者は三つのやり方で証明している。
a) 第一のやり方は次のようなものである。もし何かが自分自身を動かしている とするなら、それは自己の運動の原理を自分のうちに持っていなければならない。 もしそうでないとしたら、他のものによって動かされていることは明白である。
b) また、それ[自分自身を動かしているもの]は第一に動かされるものでなけ ればならない。すなわち、動物がその脚の運動によって動かされる場合のように 自己の部分を根拠として動かされるのではなく、それ自身を根拠として動かされ るのでなければならない。というのは、そうでないとすれば、全体がそれ自身に よってうごかされるのではなく、部分が動かされることになってしまい、一つの 部分が別の部分によって動かされることになってしまうからである。
c) また、それは可分的であり部分を持つものでなければならない。なぜなら、 『自然学』第6巻で証明されているように、動かされているものはすべて可分的 だからである。
以上のことを前提として、アリストテレスは次のように論じている。それ自身に よって動かされていると措定されているものは第一に動かされるものである。そ れゆえ、それの或る部分の静止には全体の静止が伴う。というのは、或る部分が 静止している場合にそれの別の部分が動かされているとするならば、その全体は 第一の動かされているものではなく、別のものが静止しているときに動かされて いる部分の方が第一の動かされているものになってしまうからである。ところで、 他のものが静止している場合にそれ自身も静止しているもののどれも、それ自身 によって動かされてはいない。というのも、それの静止に他のものの静止が伴う ようなものについては、そのようなものの運動には他のものの運動が伴うのでな ければならないからである。こうしてそのようなものそれ自身によって動かされ ていないのである。それゆえ、それ自身によって動かされていると措定されてい たものは、それ自身によって動かされていないことになる。したがって、動いて いるものすべてが他のものによって動かされていることが必然なのである。
だが、それ自身を動かしていると措定されているものの部分が静止することはで きないと、またさらに静止することや運動することが部分に属するのは付帯的に でしかないと言うことができるではないかという人がおそらくいるであろう。た とえばアヴイセンナはそのような誤解している。だが、上述の論拠にとってこの ことは妨げとはならない。というのは、この論拠の力は次のことのうちにあるか らである。すなわち、もし或るものが自分を第一に、その部分を根拠とすること なくそれ自身によって動かしているとするならば、それが動くと言うことは何か 他のものに依存していない。ところが、可分的なものが動くということは、それ の存在もそうであるように、その部分に依存している。それゆえ、そのようなも のが自分自身を第一に、それ自身によって動かすことはできないのである。だか ら、導出された結論の真理性のためには、自分自身を動かしているものの部分が 静止しているということが、或る独立した真なることとして前提されることは必 要ではないのであり、<もし部分が静止しているのなら、全体が静止している> という条件文が真であることが必要なのである。実際、この条件文はたとえ前件 が不可能であるとしても真であることが可能なのである。それは、<もし人間が ロバであるならば、人間は非理性的である>という条件文が真であるのと同じな のである。
第二のやり方。アリストテレスは帰納によって次のように証明している。付帯的 に動いているものはすべてそれ自身によって動いていない。というのは、そのよ うなものは他のものの運動に即して動いているからである。同様に、強制によっ て動いているものがそれ自体によって動いているものでないことは明白である。-- また、それ自体から動かされているものとして自然本性によって動いているもの もそれ自身によって動いていない。たとえば、魂によって動かされていることが 確かな動物がそうである。-- またさらに、重いものや軽いもののような自然本 性によって動いているものどももそれ自体によって動かされていない。なぜなら、 これらはそれを産出するものや妨害するものを除去するものによって動かされて いるからである。-- さて、すべての動いているものは、自体的に動いているか 付帯的に動いているかのいずれかである。そしてもし自体的にであるとすると、 それは強制によるか自然本性によるかのいずれかである。そしてこの後者は、動 物のようにそれ自体から動かされているか、あるいは重いものや軽いもののよう にそれ自体から動かされていないかのいずれかなのである。それゆえ、動いてい るものはすべて他のものによって動かされていることになる。
第三のやり方。アリストテレスは次のように証明している。同一のものが同一の ものとの関係において現実態にあり同時に可能態にあるということはない。とこ ろが、動いているものは、そのようなものである限り、可能態にある。なぜなら、 運動とは「可能態にあるものの、そのようなものである限りでの、現実態」だか らである。他方で、動かしているものはすべて、そのようなものである限り、現 実態にある。なぜなら、何ものもそれが現実態にある限りでなければ、働きをな すことはないからである。それゆえ、同一の運動との関係において、動かすもの でありかつ動かされるものであるようなものは何もないのである。こうして、何 ものも自分自身を動かすことはないことになる。
ところで、知っておくべきことがある。それは、プラトンは動かしているものは すべて動かされていると主張したのであるが、彼は「運動」という名称をアリス トテレスよりも広い意味で受け取っているのである。
a) というのは、アリストテレスは運動を固有な意味では、可能態にあるものの、 そのようなものである限りでの現実態であると捉えている。そして、『自然学』 第6巻において証明されているように、こういったものは可分的なものと物体に しか属さないのである。
b) 他方、プラトンによれば自分自身を動かすものは物体ではない。というのも、 彼はどのような働きであってもそれを運動であり、知性認識することや見解を持 つこともある種の動くことであると理解していたからである。そして、アリスト テレスもまた『デ・アニマ』第3巻ではこのような述べ方に触れている。それゆ え、プラトンは第一の動かすものは自分自身を動かすと言ったのであるが、それ は自分自身を知性認識し自分自身を意志したり愛したりする限りにおいてのこと だったのである。そして、このことはアリストテレスの諸論拠といかなる点でも 背馳するわけではないではないのである。というのは、プラトンによる自分を動 かす何らかの第一のものに至るといたるということと、アリストテレスによる全 く動かされない第一のものに至るということとは、何ら異なることのないことだ からである。
さて、第二の命題すなわち<動かすものと動かされるものにおいて無限に進むと いうことはない>ということを、アリストテレスは三つの論拠によって証明して いる。
その第一の論拠は次のようなものである。もし動かしているものと動かされている ものにおいて無限に進むと言うことがあるとするならば、そのようなものはすべ て無限な物体でなければならない。なぜなら、『自然学』第6巻において証明さ れているように、動いているものはすべて可分的であり物体だからである。とこ ろが、動かされているものを動かして物体はすべて、動かしているのと同時に動 いている。それゆえ、これらの無限なものすべては、そのうちの一つが動いてい る間、同時に動いていることになる。ところが、そのうちの一つは、それが有限 であるので、有限な時間において動いている。それゆえ、その無限なすべては有 限な時間において動いていることになる。だが、こんなことは不可能である。そ れゆえ、動かすものと動かされるものにおいて無限に進むということは不可能で ある。
さて、上述の無限なものどもが有限な時間において動くことが不可能であること を、アリストテレスはつぎのように証明している。動かすものと動かされるもの は同時に存在しなければならない。そのことを個々の種類の運動において帰納に よって証明している。ところが、諸物体は連続あるいは接触によってしか同時に 存在することはできない。それゆえ、証明されているように前述の動かすものと 動かされるもののすべては物体であるから、それらは連続あるいは接触によって、 いわば一つの動かされ得るものとなっているのでなければならない。こうして、 一つの無限なものが有限な時間において動くことになる。これは、『自然学』第 6巻において証明されているように、不可能なのである。
同じことを証明する第二の論拠は次のようなものである。秩序づけられた動かす ものと動かされるものども、すなわちそのうちの一つが他のものによって秩序に よって動かされるものどもにおいて、第一の動かすものが除去されるあるいは動 かすことをやめるならば、他のものどものどれも動かしもしないし動かされもし ないということが、必然的なこととして見出される。というのは、第一のものが 他のすべてのものにとって動かすことの原因だからである。ところが、動かすも のと動かされるものどもが無限に秩序づけられて存在するとするならば、何か第 一の動かすものといったものは存在しないことになり、すべてのものがいわば中 間の動かすものになるであろう。それゆえ、他のもののどれも動かされることが 出来なるなるであろう。こうして、世界のうちの何ものも動かないことになるで あろう。
第三の証明は同じことに帰すのであるが、ただ順序が変化している、つまり上位 のものから議論が始まっている点だけが異なる。それは次のようなものである。 道具として動かすものは、主要な意味で動かす何かが存在しなければ動かすこと ができない。ところが、動かすものと動かされるものにおいて無限に進むとすれ ば、すべてのものがいわば道具として動かすものであることになるであろう。と いうのは、すべてのものが動かされて動かすものと措定されており、主要な意味 での動かすものであるものは何もないことになるからである。それゆえ、何も動 かないことになるであろう。
以上のようにして、アリストテレスが<第一の動かされ得ない動かすもの>が存 在することを証明した論証の第一の方途において、前提されていた両方の命題の 証明が明らかとなったのである。
第二の方途は次のようなものである。もし動かすもののすべてが動かされている とするなら、この命題は自体的に真であるか、付帯的に真であるかのいずれかで ある。もし付帯的に真であるならば、その場合にはそれは必然的命題ではない。 というのは、付帯的に真であるものは必然的ではないからである。それゆえ、動 かしているもののどれもが動かされていないということは起こり得ることである。 ところが、敵対者が言うように、もし動かしているものが動かされていないとす れば、それは動かしていないのである。それゆえ、何も動かされていないという ことが起こり得る。というのは、もし動かすものが何もないとすれば、動かされ るものも何もないからである。だがこのこと、すなわちいかなる運動もない何ら かの時があったということを、アリストテレスは不可能なこととしている。それ ゆえ、最初のこと[動かすもののすべてが動かされていること]は起こり得るこ とではなかったのである。というのは、誤った起こり得ることから誤った不可能 なことが帰結することはないからである。このようにして、<すべての動かされ るものは他のものによって動かされる>というこの命題は、付帯的に真なる命題 ではなかったのである。
a) 同じく、もし何らかの二つのものが或るものにおいて付帯的に結合しており、 それらの一方が他方なしに見出されるとするならば、別のものの方も他方なしに 見出され得るということは蓋然的である。たとえば、ソクラテスにおいて白と音 楽的であることとが見出され、プラトンにおいては白いということなしに音楽的 であるということが見出されるならば、誰か別の人において音楽的であることな しに白いということが見出され得るということは蓋然的なのである。それゆえ、 動かすものと動かされるものとが或るものにおいて付帯的に結合しており、動か されるものが動かすということなしに何らかのものにおいて見出されるならば、 動かしているものが動かされていると言うことなしに見出されることが蓋然的で ある。
b) だが、このことに反対して、一方が他方に依存しているような二つのものに 関わる反論がなされ得るわけではない。なぜなら、これらは自体的に結合してい るものではなく、付帯的に結合しているものだからである。
a) さて、前述の命題が自体的に真であるとしたら、同様に不可能なことあるい は不適当なことが帰結する。それは次のような理由による。動かすものはそれが 動かしているのと同じ種類の運動において動かされているか、あるいは別の種類 の運動において動かされているかのいずれかである。
b) もし同じ種類においてであるとするなら、その場合には質的に変化させるも のは質的に変化させられ、さらには癒すものは癒されることに、教える教えられ ることに、しかも同じ学知に関してそうであるのでなければならなくなるであろ う。しかし、こんなことは不可能である。なぜなら、教える者は学知を持ってい ることが必然であり、それに対し学ぶものはそれを持っていないことが必然であ るから、同じものが同じ人によって所有されかつ所有されていないということに なり、こんなことは不可能だからである。
c) 他方、別の種類の運動において動かされる、すなわち、質的に変化させてい るものが場所において動かされたり、場所において動かしているものが量的に増 大させられたり、などいったことだとする場合には、運動の類や種は有限である から、無限に進むということはないことが帰結する。こうして、他のものによっ て動かされることのない何らかの第一の動かすものがあることになろう。 /par d) ただし、次のように言う人がいるであろう。すなわち、あらゆる種類の運動 が尽くされたとしても、さらに第一ものへ還帰しなければならないという意味で の折り返しが生じるのである。たとえば、場所において動かすものが質的に変化 させられ、質的に変化させるものが量的に増大させられ、今度は量的に増大させ るものが場所において動かされる、というようにである。しかし、このことから は前のと同じことが帰結する。すなわち、何らかの種の運動において動かしてい るものは、直接的ではなく間接的であるにしても、同じ種の運動において動かさ れていることになるのである。
それゆえ、<何らかの外的なものによって動かされることない何か第一のもの> を措定しなければならないということが残された結論となる。
a) だが、外的な別のものによって動かされることのない第一の動かすものがあ るということが確保されたとしても、それがまったき意味で動かされ得ないもの であるということは帰結しないのであるから、アリストテレスはさらに議論を進 めて、このことは二つの仕方であり得ると述べている。 /par b) 一つの仕方というのは、その第一のものがまったき意味で動かされ得ないも のである場合である。このように措定されるならば、目下のことがら、すなわち 動かされ得ない何か第一の動かすものが存在するということが得られることにな る。 /par c) もう一つの仕方というのは、その第一のものがそれ自身によって動かされる 場合である。そしてこれは蓋然的であるように思われる。なぜなら、それ自体に よって存在するものは他のものによって存在するものよりも、常により先なるも のである。そこからまた、動かされるものどもにおいて、第一の動かされるもの は他のものによってではなく、それ自体によって動かされるということは合理的 なことだからである。
a) しかし、以上のことによっても、さらに同じことが帰結するのである。実際、 自分を動かしているものの全体が全体によって動かされているなどと言うことは できないなからである。なぜなら、そうだとすれば、前述の不適当なことがら、 つまりある人が教えながら同時に教えられることになることや他の運動における 同様のことが帰結してしまうことになるからである。さらには、動かすものはそ のようのものである限り現実態にあり、動かされるものは可能態にあるのである から、或るものが可能態にあると同時に現実態にあるといういうことが帰結する ことになってしまうからである。それゆえ、それ[自分を動かしているもの]の 一部分はただ動かすものであり、別の部分は動かされるものであるという結論が 残される。こうして、前と同じこと、すなわち何か動かされ得ないで動かすもの が存在するということが得られることになるのである。 /par b) だが、その両方の部分の一方が他方によって動かされるというようにその両 方が動かされると言うこともできない。また、一方の部分がそれ自身を動かし他 方の部分を動かしていると言うこともできない。また、全体が部分を動かしてい るとか、部分が全体を動かしていると言うこともできない。というのは、前述の 不適当なことがら、すなわち、或るものが同じ種類の運動に即して動かしながら 同時に動かされるということ、また、可能態にあると同時に現実態にあるという こと、さらには全体が自分を動かすの第一の意味においてではなく、部分を根拠 としてであるといった不適当なことが帰結することになるからである。それゆえ、 自分自身を動かしているものの一方の部分は動かされ得ないもので他方の部分を 動かしているものであるという結論がのこることになる。
しかし、われわれのもと[月下の世界]に存在し自分を動かしているものども、 すなわち動物たちにおいては、動かしている部分つまり魂は、自体的には動かさ れ得ないものであるとしても、付帯的には動かされている。そこでアリストテレ スはさらに、自分を動かしている第一のものの動かしている部分は自体的にも付 帯的にも動かされていないことを明らかにしている。
というのは次のような理由による。われわれのもとに存在し自分を動かしている ものども、すなわち動物たちは可滅的であるので、動物における動かす部分は付 帯的に動かされている。ところが、可滅的で自分を動かしているものどもは、何 らかの自分を動かす第一のものに還元されることが必然であり、その第一のもの は永続的なものなのである。それゆえ、何らかの自分を動かすものにとっての何 らかの動者が存在し、それが自体的にも付帯的にも動かされないものであること が必然なのである。
ところで、アリストテレスの立場によれば、何らかの自分を動かすものが永続的 なものであることが必然であることは明らかである。なぜなら、彼が前提してい るように運動が永続的であるとするならば、生成消滅するものである自分を動か しているものの生成が永久的でなければならないからである。だが、その自分を 動かしているものどものうちの何かがその永久性の原因ではあり得ない。なぜな ら、そのものは常に存在しているわけではないからである。また、それらのもの どものすべてが同時に存在することもできない。それは一つには、そうだとする とそれらが無限に存在することになるからであるし、一つにはそれらは同時には 存在しないからである。それゆえ、何か自分を動かしている永久的なものが存在 し、それがこれら下位の自分を動かしているものどもにおける永続性の原因となっ ているのでなければならない、という結論が残ることになる。こうして、それの 動者は自体的にも付帯的にも動かされることはないのである。
同じく、自分を動かしているものどもにおいて見て取れることは、動物がよって それ自体から動かされるわけではないような何らかの運動のために、たとえば食 物が消化されることや空気が質的に変化することのために、新たに動かされ始め るものがあるということである。そして、その運動によっては、自分自身を動か している動者は付帯的に動かされているのである。このことから、自分を動かし ているもので、それの動者が自体的にか付帯的にか動かされているようなものは、 決して常に動かされているわけではないことが理解され得る。そうではなくて、 自分を動かす第一のものが常に動かされているのである。というのも、そうでな いとすれば運動は永続的ではあり得ないことになろう。なぜなら、自分を動かす 第一のものの運動が他のすべての運動の原因となっているからである。それゆえ、 自分を動かしている第一のものは自体的にも付帯的にも動かされていないような 動者によって動かされているという結論が残ることになる。
ところで、下位の天球の動者どもは永続的な運動をさせているが、それらのもの は付帯的に動かされているではないかということは、以上の根拠への反論とはな らない。なぜなら、それらのものが付帯的に動かされていると語られるのは、そ れら自体を根拠としてではなく、それらによって動かされ得るものどもを根拠と してであり、その動かされ得るものどもは上位の天球の運動に従っているからで ある。
だが、神は自分を動かしている何らかのものの部分ではないのであるから、アリ ストテレスはさらに自分の『形而上学』において、自分を動かしているの部分で あるこの動者から、まったく離存した別の動者を見出している。それが神なので ある。実際、自分を動かしているすべてのものは欲求を通じて動かされているの であるから、自分を動かすものの部分である動者は何らかの欲求され得るものへ の欲求ゆえに動かしているのでなければならない。そして、この欲求され得るも のはその動者よりも、動かすことにおいてより上位のものである。というのは、 欲求するものは或る意味では動かされて動かすものであり、他方欲求され得るも のはまったく動かされずに動かすものだからである。それゆえ、<まったく動か され得ない離存した第一の動者>が存在しなければならす、これが神である。
だが、前述の議論進行を弱いものにすると思われる二つのことがある。その第一 は、それらの議論が運動の永遠性を仮定することから進められているということ である。このことはカトリックの人々のもとでは偽であると仮定されているので ある。
そして、これに対しては次のように言うべきである。神が存在することを証明す るための最も有効な方途は世界の永遠性を仮定することから得られるのであり、 それはそのことが措定される場合には神が存在するということはより一層明らか でないことになると思われるからである。というのは[逆に]、もし世界と運動 とが新たに始まったとしたら、その世界と運動とを新たに産出した何らかの原因 を措定しなければならないことは平明なことだからである。なぜなら、新たに生 じることはその起源を何らかの新たにするものから得るのでなければならないか らである。というのも、自己を可能態から現実態に引き出すもの、あるいは非存 在から存在に引き出すものは何もないからである。
また第二のことは、前述の論証においては第一に動かされるものすなわち天体が それ自体から動かされるものであるということが仮定されているということであ る。このことからはそれが魂を持つものであることが帰結するのであり、このこ とは多くの人々によって承認されていないのである。
そしてこれに対しては次のように言うべきである。もし第一の動かすものがそれ 自体から動かされるものでないと措定されるならば、それがまったく動かされ得 ないものによって直接に動かされているのでなければならない。だからアリスト テレスも、この結論を選択肢の一つに入れているのである。つまり、動かされ得 ず離存した第一の動かすものへと直接に到達するか、あるいは自分自身を動かす ものへと到達し、そこからさらに動かされ得ず離存した第一の動かすものへと到 達するか、このどちらかでなければならないとしているのである。
さて、哲学者は『形而上学』第2巻においては別の方途によって議論を進め、作 出因において無限に進むことはできず、神とわれわれが呼ぶ一つの第一原因へと 至るということを明らかにしている。この方途とは次のようなものである。秩序 づけられたすべての作出因において、第一のものは中間のものの原因であり、中 間のものは最後のものの原因である。その場合、中間のものは一つだけであるか、 あるいは複数であるかのいづれかである。ところで、原因が除去されると原因が それの原因であるものも除去される。それゆえ、第一のものが除去されると、中 間のものは原因であることが出来ないであろう。ところが、もし作出因において 無限に進むということがあるのであれば、諸原因のどれも第一の原因であること はないことになるであろう。それゆえ、中間のものである他のすべての原因も取 り除かれることになる。しかし、こんなことは明らかに偽である。それゆえ、< 第一の作出因が存在する>と措定しなければならないのである。これが神である。
また、アリストテレスの言葉から別の論拠を取りまとめることができる。という のは、『形而上学』第2巻において彼は最高度に真であるものどもが、また最高度に存在者どもであることを示している。しかるに『形而上学』第4巻においては彼は何か最高度に真であるものが存在するこ とを、次のことから明らかにしている。すなわち、二つの偽なることのうちの一 方は他方よりもよりいっそう偽であるということが見て取れるから、一方は他方 よりもより真でもなければならない。ところが、このようなことは端的にまた最 高度に真であるものへの接近度によるのである。以上からさらに<最高度に存在 者であるような何か>が存在すると結論することができるのである。そして、こ れをわれわれは神と呼ぶのである。
さらにダマスケヌスはこのことのために、諸事物の統宰から得られる別の論拠を 導入している。この論拠を注釈者[アヴェロエス]も述べている。それは次のよ うなものである。何らかの対立し不調和なことがらが一つの秩序へと、常にある いは多くの場合に一致するということは、何らかのものの統宰があり、それによっ て確定した目的へと向かうということがすべての個別的なものどもに賦与されな ければ、不可能である。ところが、世界のうちに見て取れることであるが、様々 な自然本性の事物が、まれにかつ偶然によってというのではなく、常にあるいは 大部分において一つの秩序へと一致しているのである。それゆえ、<それの摂理 によって世界が統宰されている何ものか>が存在するのでなければならない。そ してこれをわれわれは神と呼ぶのである。