...さて、われわれが神と呼ぶ何らかの第一の存在者が存在することが示されたので 1
第13章での神の存在論証の過程では、神が「第一の存在者(primum ens)」であるという表現は登場しない。しかし、「最高度に存在するもの(maxime ens)」という表現はn.114に登場する。ある性質Xを最高度に有するものは、何らかの仕方でその性質Xを有しているものにとっての原因であるということが、アクィナスにとっては言うまでもない前提として承認されているので、「存在者」であるということについても、「最高度」であれば他の存在者の原因として「第一の」存在者であることが帰結すると考えられていると解釈できる。『神学大全』第1部第2問3項主文の「第四の道」を参照。

...a)だが、とりわけ神的実体の考察では除去の途を用いなければならない 2
この「とりわけ(praecipue)」には曖昧な点が残る。すなわち、神以外のものはともかく神については除去の途(via remotionis)を用いなければならないという点に強調があるのか、それとも、「卓越性の途(via eminentiae)」や「原因性の途(via causalitatis)」ではなくて除去の途をとりわけ用い泣けばならない点に強調があるのかが曖昧である。Ferarrienisは後者の意味で解釈しており、アクィナスの他のテキストではこの三つの途の区別が前提されているので、首肯できる面がある。しかし、ScGのこの箇所では他の途との対比はなく、もっぱら除去・否定の途を取るべきことの必要性が強調されている。したがって、n.116で存在からそれの「あり方(conditiones)」の考察へと転移するにあたって、他の存在者に対しても除去の途を用いるべき場面はあるにしても、神という存在者には「とりわけ」その途が適当であることが強調されていると見た方がいいかもしれない。

...b)だが、われわれはそれが「何でないのか」ということを認識することによって、それについての何らかの知を持っている。[だから]、われわれが自身の知性を通じてそれから 3
この「それから」はab eoであり、文脈上まえの女性形「神的実体」を受けることができず、「神」あるいは「第一の存在者」を指すと解するほかない。しかし、文脈上はこれが神的実体と同一視されていることは明らかである。ということは、逆に言うと、わざわざ「神的実体」という表現が用いられていることにアクィナスの強い含意を読み取るべきではないことを意味するであろう。

...c)というのも、どんなものであっても、それの他との相違をより明白に見れば見るほど、われわれはそれをより完全に認識しているからである。というのも、それぞれの事物はそれ自体のうちに他のすべての事物と区別された固有の存在をもっているからである 4
この固有の存在(esse proprium)がどのような存在であるのかについては、個体を個体として存在させているような存在として捉えるのか、あるいは、種的な本質をもつものとしての実体的存在と捉えるのかに曖昧な点が残るかもしれない。この後の類と種差による定義可能な事物の例示を見る限り、後者の意味で取っておいて問題がないようにも見える。しかし、この例示は人間知性によって定義可能な事物の場合であっても、つまり、「何であるのか」を知りうる事物の場合であっても、われわれの認識はより一般的な規定から限定された規定へと、他の事物との相違(種差)を付加することによってなされることを示すだけである。つまり、「何であるのか」が知り得ない事物にあっては、次の[n.118 b)]で示されるように、肯定的種差によってではなく否定的種差によってしか規定され得ない。したがって、そのような事物の「固有の存在」は個体としての存在であるとか実体的存在であるとかいう問いが問えないような存在であるというべきであろう。もちろん、このテキストは「それぞれの事物」についての主張であるから、神のような何であるのかが知り得ない存在だけについて述べられてはいない。だが、「何であるのか」という問いを徹底すれば(このテキストの文脈を離れて)、神以外の事物についても、それと他の事物の最終的な相違を知ることはきわめて困難であるというのがアクィナスの主張であるとも考えられる。つまり、われわれの知性の自然本性的対象である質料的事物についても、その種的な本質を知り定義を得ることはできるという限りでは「何であるのか」を知りうるとしても、その事物の個的な存在に固有な「何であるのか」はやはり知り得ない、というのがアクィナスの主張であるかもしれない。このことは人間知性の固有対象が普遍的な本質であって、第一義的には個体ではないというアクィナスの主張とも関連して、課題を提起することになるであろう

...b)ところで、肯定的種差においてある種差が別の種差を限定し、より多くのものからの相違をもたらすのに応じて事物のより十全な指定に近づく。それと同様に、否定的種差のあるものは別の種差によって限定され 5
この「限定する contraho」については、この[n.118(c)]の例示を参看するならば、次のような意味に取ることができる。「神が偶有ではない」という命題によって神はすべての偶有から区別される。これが一つの種差(una differentia)であって、その区別のもとで「神は何か実体であること」という認知が得られている。次に、その種々の実体の内部で、「神は物体的実体ではない」という命題がえられるのである。この偶有の次元から実体の次元への「限定」が「一つの種差が別の種差をcontrahoする」という表現によって示されていることである。

...a)そこで、神を除去の途を通じて認識することへと進むために、われわれは上述のことから明白であること、すなわち神がまったく不動であるということから始めることにしよう 6
[Ferrariensis] IV-VI は除去(否定)の途は、まず神についての肯定的な命題が得られていなければ成立しないのではないか、という疑問を提示しそれに答えている。アクィナスの立場(とFerrariensisが見なす)による解答の要点は次の点にある。確かに、実在的事物のそれ自体としての関係からいえば、ある事物に何らかの属性を否定するということは、その事物についての肯定的属性の存在を前提しなければならない。しかし、それは事物の側から論理的にそうなるということであって、「われわれにとって(quoad nos)」は必ずしも肯定的属性の判明な認知を前提しない。「布が白色ではないことは知っていても、その布の色を何色と述べることができない」認知はあり得る。同じように、「神がロバではない」という否定的認知は、神という事物それ自体の側からは神性という本性の故に成立しているに違いないが、われわれの側からは神性そのものをまず判明に認知していなければならないわけではないのである。以上のFerrariensisの理解をおおむね正しいと前提すると、この[n.119]で神の不動性をprincipiumとするという場合でも、その神の不動性がわれわれにとっては何か判明なものであるということにはならないであろう。

...というのは、存在し始めたり存在するのを止めたりするものはすべて、運動あるいは変化によってそのようなことを受ける。ところが、神がまったく転化しないものであることが明らかである 7
第13章や第14章[n.119]でも、除去の途の出発点となる神の属性は「不動性(immobilitas)」であったが、ここでは「不変性(immutabilitas)」と何の断りもなく変更されている。immobilitasとimmutabilitasが同じ事態を指示していることを疑うことはできないが、両者の概念を捉える観点は異なっていると言えるかもしれない。『真理論』第28問第1項で、運動と変化の区別が述べられている(Deferraryの``mutatio''の項目による)が、それによるとmotusとはAからBへの移行(たとえば白から黒への移行)を意味しており、mutatioはnon-AからA、あるいはAからnon-Aへの移行(白でないものから白へ、あるいは白から白でないものへの移行)を意味する。この厳格な区別を前提するなら、この[n.121]では「Aとして存在することを始める」、「Aとして存在することを止める」ことが論点とされている文脈上は、motusよりもmutatioの方がより的確であるということにはなる。しかし『真理論』の同所では、AからBへのmotusは或るものXがAからnon-Aへの移行と、non-B からBへの移行の二つのmutatioを持っていることになるとされる以上、motusをしないものは同時にmutatioをしないことになるというべきである。したがって、アクィナスが神の不動性から直ちに神の不変性へと表現を変更していることには、論理的な齟齬は認められないであろう。

...。それゆえ、神は永遠であり、始まりと終わりのないものである 8
このテキスト、Est igitur aeternus, carens prinicipio et fine. には二つの解釈が可能であろう。(1)神が永遠であることと、神が始まりと終わりのないこととは完全に同義である、(2)神が永遠であることの理由が、神が始まりと終わりを持たないことである、の二つである。しかし、アクィナスの『神学大全』第1部第10問1項や2項の説明などを前提するなら、「無始無終であること」は直ちに永遠性の定義ではない以上、両方の解釈はいずれも不十分であることになろう。