第 14 章
神の認識のためには除去の途を用いなければならないこと
さて、われわれが神と呼ぶ何らかの第一の存在者が存在することが示されたので 1、それのあり方を見いださねばならない。
a)だが、とりわけ神的実体の考察では除去の途を用いなければならない 2。というのも、神的実体はその広大無辺性によってわれわれの知性が到達するあらゆる形相を超えているから、それが「何であるのか」を認識するという仕方でその実体を把握することはわれわれにはできない。
b)だが、われわれはそれが「何でないのか」ということを認識することによって、それについての何らかの知を持っている。[だから]、われわれが自身の知性を通じてそれから 3より多くを除去すればするほど、それだけいっそうそれの知に近づくことになるのである。
c)というのも、どんなものであっても、それの他との相違をより明白に見れば見るほど、われわれはそれをより完全に認識しているからである。というのも、それぞれの事物はそれ自体のうちに他のすべての事物と区別された固有の存在をもっているからである 4。だから、その定義をわれわれが認識している事物においてであっても、それをまず設定するのは類においてであって、その類によってそれが何であるのかを一般的に知るのである。そしてわれわれはその後になって種差を加え、それによってその事物が他の事物から区別されることになるのである。事物の実体の十全な知が完成されるのはこのようにしてなのである。
a)ところが、神的実体の考察においては、われわれは類としての「何であるのか」を捉えることができない。また、それの他の事物との区別も肯定的な種差を通じて捉えることができない。だから、神的実体を否定的種差によって捉えなければならないのである。
b)ところで、肯定的種差においてある種差が別の種差を限定し、より多くのものからの相違をもたらすのに応じて事物のより十全な指定に近づく。それと同様に、否定的種差のあるものは別の種差によって限定され 5、その種差がより多くのものからの相違をもたらすのである。
c)たとえば、神は偶有ではないと述べるときに、このことによって神はすべての偶有から区別されているが、ついで神は物体ではないと付け加えるならば、われわれは神をある種の実体からも区別していることになるのである。こうして神の外にあるすべてから神がこのような否定を通じて順序立てて区別されることになる。そして、神の実体についての固有の考察が成立することになるのは、神がすべてのものから区別されたものとして認識された場合である。とはいえ、その認識は完全ではないであろう。なぜなら、神がそれ自体として何であるのかは認識されないからである。
a)そこで、神を除去の途を通じて認識することへと進むために、われわれは上述のことから明白であること、すなわち神がまったく不動であるということから始めることにしよう 6。
b)このことを聖書の権威も確証している。すなわち、『マラキ書』3章6節で「神である私は変わることもない」とあり、『ヤコブ書』1章17節では「彼[御父]には移り変わるということがなく」とあり、『民数記』23章19節では「神は人のようではなく、変わることがない」とある。
第 15 章
神は永遠である
さて、そのことからさらに神が永遠であることが明らかである。
というのは、存在し始めたり存在するのを止めたりするものはすべて、運動あるいは変化によってそのようなことを受ける。ところが、神がまったく転化しないものであることが明らかである 7。それゆえ、神は永遠であり、始まりと終わりのないものである 8。
同じく、運動しているものだけが時間によって測られる。『自然学』第4巻において明らかなように「時間とは運動の数」だからである。ところが、すでに証明されたように、神はまったく運動なしにそんざいしている。それゆえ、神は時間によって測られることはない。それゆえ、神においてより先より後を捉えることはできない。よって、神は非存在の後に存在を持つこともないし、存在の後に非存在を持つこともあり得ないのであって、神の存在において何らかの継起は見いだされ得ないのである。というのは、継起は時間なしには理解され得ないからである。それゆえ、神は始まりと終わりのないものであり、自己の全存在を同時に持つものである。そして、このことのうちに永遠ということの特質は存しているのである。
さらには、神がある時に存在せずその後に存在したのだとすれば、非存在から存在へと何らかのものによって引き出されたことになる。だが、それは自己自身から引き出されたのではない。というのは、存在しないものは何かを為すということはできないからである。だが、もし自分以外のものによって引き出されたのだとすれば、そのものが神よりも先なるものであることになる。ところが、神が第一原因であることは明らかである。それゆえ、神が存在することを始めたということはないことになる。よって、存在することを止めることもない。なぜなら、常に存在してきたものは常に存在する力を持っているからである。それゆえ、神は永遠である。
さらに、われわれは世界の内に存在することも存在しないことも可能な何ものか、つまり生成消滅しうるものを見ている。ところで、存在することが可能であるようなものはすべて、原因を持っている。なぜなら、それは存在と非存在という二つのものに対して自らは同等に関わっているのであるから、もし存在がそれに適合するとするならば、何らかの原因によってそのことが成立しているのでなければならないからである。ところで、先にアリストテレスの論拠によって証明されたように、諸原因において無限に進むということはできない。それゆえ、何か「存在が必然的なもの」を措定しなければならないのである。ところで、必然的なものはすべてその必然性の原因を[自分とは]別のところから有しているか、あるいはそうではなく自分自身で必然的であるかのいずれかである。ところが、別のところから自分の必然性の原因を有しているような必然的なものどもにおいて、無限に進むということはできない。それゆえ、自分自身で必然的であるような何か第一の必然的なものを措定しなければならないのである。そして、これが神である。というのは、明らかなように神は第一原因だからである。それゆえ、神は永遠である。なぜなら、自体的に必然的であるものはすべて永遠だからである。
また、アリストテレスは時間の永続性から運動の永続性を明らかにしている。そこからまた、彼は動かしている実体の永続性を明らかにしている。ところで、第一の動かしている実体とは神である。それゆえ、神は永続的である。ところで、仮に時間と運動の永続性が否定されても、それでも実体の永続性にかかわる論拠は残る。というのも、もし運動が始まりを持ったとしたら、運動は何らかの動かすものから始まったのでなければならないが、その動かすものが始まったのだとすると、何らかの作用者によって始まったのである。そしてこのように無限へと進むことになるか、あるいは始まったということのない何ものかへと至るかのいずれかであることになろう。[もちろん前者は否定される。]
神的権威はこの真理に証言を与えている。だから、『詩篇』は「主よ、あなたは永遠にそのままです」とあり、同書では「あなたは同じあなた自身であり、あなたの年は消えることがない」とあるのである。
第 16 章
神には受動的能力がないこと
さて、神が永遠であるならば、神が可能態にないことが必然である。
というのは、その実体に可能態が混じっているものはすべて、その可能態からして持っているものに即して、存在しないことができる。なぜなら、存在することが可能であるものは存在しないことが可能だからである。ところで、神はそれ自身に即しては存在しないことが可能ではない。なぜなら、永続的だからである。それゆえ、神において存在への可能態はないのである。
さらに、可能態にあったり現実態にあったりするものは時間的には現実態にあるよりも先に可能態にあるのであるとしても、端的には現実態のほうが可能態よりも先である。なぜなら、可能態は自分を現実態へのひきだすことはなく、現実態にある何かによって現実態に引き出されるのでなければならないからである。それゆえ、何らか仕方で可能態にあるものはすべて自分より先なる何かを持っている。ところで、神は第一の存在者であり第一の原因であることは上述のことから明らかである。それゆえ、神は自己の内に何か可能態と混じったものを持つことはないのである。
同じく、存在することが自体的に必然であるようなものは、いかなる意味においても存在することが可能なものではない。というのは、存在することが自体的に必然であるものは原因を持たないからである。それに対し、上で明らかなように、存在することが可能なものはすべて原因を持つ。ところで、神は存在することが自体的に必然である。それゆえ、いかなる意味においても存在することが可能なものではない。よって、神の実体にはいかなる可能態も見いだされない。
同じく、それぞれのものは現実態においてある限りにおいて作用をする。それゆえ、その全体が現実態でないものはじこの全体において作用をするのではなく、自己のある部分で作用をする。ところで、自己の全体において作用をするのでないものは、第一の作用者ではない。というのも、そのようなものは自己の本質によってではなく何らかのものを分有することによって作用するからである。それゆえ、第一の作用者である神には何の可能態も混じっておらず、神は純粋現実態なのである。
さらに、それぞれのものは本性上現実態にある限りで作用をなすように、可能態にある限り作用を受ける。というのも、運動は可能態において実在するものの現実態だからである。ところが、神はすでに述べられたところから明らかなように、神はまったく非受動で変化しないものである。それゆえ、神はいかなる能力[可能態]、すなわちいかなる受動的能力をも有していない。
同じく、世界の内には可能態から現実態への出てゆくものが見いだされる。ところで、そのようなものは自己を可能態から現実態へと引き出すのではない。なぜなら、可能態にあるものはまだ存在しないからである。よって、それは作用をなすことができない。それゆえ、可能態から現実態へと引き出される何か別の先なるものが存在しなくてはならない。さらに、これが可能態から現実態への出て行くものであるならば、その前にそれによって現実態へと引き出される何か別のものが措定されなくてはならない。ところが、このことが無限へと進むことは不可能である。それゆえ、ただ現実態にありいかなる意味においても可能内にはない何かへと至るのでなければならない。そして、これをわれわれは神と呼ぶのである。
第 17 章
神には質料はない
以上からまた、神が質料ではないことが明らかである。
なぜなら、質料とは可能態において存在するところのものだからである。
同じく、質料は作用することの原理ではない。よって、哲学者によれば作出者と質料とが同じものおいて生起することはない。ところが、上記のことから神には諸事物の第一の作出因であることが適合する。それゆえ、神は質料ではない。
さらには、万物を第一原因としての質料に還元する人々にとっては、自然的事物は偶運によって存在するということが帰結することになるが、このような人々に対して『自然学』第2巻で反論がなされている。それゆえ、もし第一原因である神が諸事物の質料因だとするならば、万物は偶運から存在することになるであろう。
同じく、質料が何らかのものの原因となるのは、それが変質し変化する限りにおいてでしかない。ところが、証明されているように、神は不動であるならば、神はいかなる意味においても質料という仕方で事物の原因ではあり得ない。ところで、カトリックの信仰はこの真理を告白している。その信仰によれば、神は神の実体からではなく無から全体を創造したと主張しているのである。
ところで、この点でディナンのダヴィドの狂気は打ち負かされている。彼はあえて神は第一質料と同一であると語っているのだが、その理由は次のようなものである。もし同一でないとするならば、神は第一質料と何らかの種差によって相違しているのでなければならず、そうすると神も第一質料も単純なものではなくなるであろう。というのも、種差によって他のものと相違しているということよって、種差そのものは複合をなしているからである。こういう理由である。
だが、この議論は相違[種差]と異他性との間にある違いを知らないという無知に由来している。
a)というのは、『形而上学』第10巻で規定されているように、相違するものは何かとの関係で語られる。なぜなら、相違するものはすべて何らかの点で相違しているからである。それに対して、異他なるものは、それが同一ではないということから、他から切り離して語られる何かなのである。
b)それゆえ、相違は何らかの点で一致しているものどもにおいて尋ねなければならない。なぜなら、それらのものにおいて、それに即して相違しているような何かが指定されなければならないからである。たとえば、二つの種は類において一致しており、だから種差において区別されなければならないのである。
c)ところが、いかなる点においても一致していないものどもにおいては、どの点で相違しているのかが尋ねられるべきではなく、それらはそれ自体で異他なるものなのである。というのは、諸々の対立する種差もこのようにして相互に区別されるからである。実際、それらは類を自己の本質のいわば部分として分有しておらず、だからそれ自体で異他なるものであるがゆえに、それらがどの点で相違しているのかは尋ねてはならないのである。
d)神と第一質料もこの意味で区別されるのである。一方は純粋現実態であり他方は純粋可能態なのであって、いかなる点にも一致がないからである。
第 18 章
神においてはいかなる複合もないこと
a)以上のことから、神においてはいかなる複合もないことが結論され得る。
b)というのも、複合したものにおいては現実態と可能態がなければならない。というのは、複数のものが端的に一となるのは、そこであるものが現実態であり別のものが可能態である場合だけだからである。実際、現実態において存在するものどもが一とされるのは、
複合したものはすべて、その複合要素よりも後なるものである。それゆえ、第一の存在者である神はいかなるものからも複合されていない。
さらに、複合したものはすべて、複合性という特質によって存在しているので限り、可能態において複合解消可能なものである。もちろん、何らかの面では何かそれとは別の複合解消性には反するような点があることはあるにしてもである。ところで、複合解消可能であるものは、非存在への可能態においてある。だが、このことは神に適合しない。というのは、神はそれ自体で「存在することが必然であるもの」だからである。それゆえ、神のうちには何の複合もない。
さらには、すべての複合性は複合をもたらす何らかのものを必要とする。というのは、複合は複数ものものからなるのであるが、自体的に複数であるものどもが一つのものに一致するのは、複合をもたらす何らかのものがそれらを一つにする場合だけだからである。それゆえ、もし神が複合したものであるとするなら、神は複合をもたらすものを有していることになるであろう。というのは、神が自己自身に複合をもたらすことはできないからである。なぜなら、何ものも自己自身の原因であることはできないからである。できるとすれば、それが自己自身よりも先なるものであることになってしまうのであるが、それは不可能だからである。ところで、複合をもたらすものは複合したものにとっての作出因である。それゆえ、[神が複合をもたらすものを持つとすれば]神は作出因をもつことになってしまうであろう。そうだとすると、神は上記で得られたような第一原因ではないことになってしまうであろう。
同じく、どんな類においても、より単純であればあるほどそれはより高貴なものである。たとえば、熱いものの類においては、冷たいものとのいかなる混合も持っていない火が高貴なものである。それゆえ、すべての存在者のうちで、高貴さの究極にあるものが、単純性の究極にあるのでなければならない。ところで、すべての存在者のうちで、高貴さの究極にあるものをわれわれは神と呼んでいる。それは神が第一原因だからであり、原因は結果よりもより高貴だからである。それゆえ、神にはいかなる複合も付帯しえない。
さらに、あらゆる複合したものにおいて、善はあれやこれやの部分に属するのではなくて、その全体に属している。というのも、わたくしが善と呼ぶのは、全体に固有でそれの完成であるような善性に基づいてなのである。実際、部分は全体との関係では不完全である。たとえば、人間の諸部分は人間ではないし、6という数の部分は6の完全性を持っていないし、同様に線の部分は線全体において見いだされる尺度の完全性には到達しないのである。それゆえ、もし神が複合したものであるとすると、神の完全性と善性は神の何らかの部分においてではなく全体において見いだされる。そうだとすると、神に固有であるような善が神において純粋な仕方では存在しないことになるであろう。それゆえ、神は第一で最高の善ではないのである。
同じく、あらゆる多性の前に一性が見いだされなければならない。ところが、すべての複合したものにおいて多性がある。それゆえ、万物の前に存在するもの、すなわち神はあらゆる複合性を欠いているのでなければならない。
第 19 章
神には強制されたものも自然本性をはずれたものもないこと
さて、以上から哲学者は神には強制されたものも自然本性をはずれたものもないと結論している。
というのも、そこに何らかの強制されたものや自然本性をはずれたものが見いだされるものは、それ自身に付加された何らかのものを有している。実際、事物の実体に属しているものは強制されたものでも自然本性をはずれたものでもあり得ない。ところで、単純なものはどんなものでも自己の内に何か付加されたものを有してはいない。なぜなら、そうであるとすると複合性が帰結することになるからである。それゆえ、すでに示されたように神が単純である以上、神において強制されたり自然本性をはずれたものは何もあり得ないことになるのである。
また、強要の必然性は他のものによる必然性である。ところで、神においては他のものによる必然性はなく、それ自体による必然性があり、また他のものにとっての必然性の原因がある。それゆえ、神においては強要されたことは何もないのである。
さらに、何か強制されたことが存在するところにはどこでも、その事物に自体的に適合するものからはずれた何かが存在し得る。というのも、強制されたものとは自然本性に従ってあるものと対立しているからである。ところが、神においては、神にそれ自身に即して適合するものからはずれた何かが存在するということは不可能である。なぜなら、すでに示されたように、神はそれ自身に即して「存在することが必然的であるもの」だからである。それゆえ、神においては何か強制されたものはあり得ない。
同じく、そこに何か強制されたものあるいは非自然本性的なものが存在するものはすべて、本性上他のものによって動かされる。というのは、強制されたものとは「その原理が外に存在し、働きを受けるものに何の力も与えない」ようなものだからである。ところが、すでに示されたように、神はあらゆる意味で不動である。それゆえ、神において何か強制されたものあるいは非自然本性的なものが存在することはできない。
第 20 章
神は物体ではないこと
上記のことから、さらに神が物体ではないことが示される。
というのは、物体はすべて連続体であるから、複合したものであり部分を持っている。ところが、すでに示されたように、神は複合したものではない。それゆえ、神は物体ではない。
さらに、量を持つものはすべて何らかの仕方で可能態にある。というのも、連続体は可能態において無限に分割可能であるし、数は無限に増大可能である。ところで、物体はすべて量をもつものである。それゆえ、物体はすべて可能態においてある。ところが、すでに示されたように、神は可能態においてはなく、純粋現実態である。それゆえ、神は物体ではない。
さらに、もし神が物体であるとすると、何らかの自然的物体でなければならない。というのも、数学的物体は哲学者が証明しているように、次元は偶有である以上、それ自体で存在するものではないからである。ところで、神は自然的物体ではない。というのは、すでに示されたように、神は不動であり、自然的物体はすべて可動的だからである。それゆえ、神は物体ではない。
さらには、すべての物体は有限である。このことは直体と同様に球体についてもそうであることは『天地論』において証明されている。ところで、有限な物体はどんなものでも知性と想像力によってわれわれはそれを超越することができる。それゆえ、もし神が物体であるとすると、われわれの知性と想像力が神よりも大きい何かを思考することができることになる。そうだとすると、神はわれわれの知性よりも大きいものではないことになる。これは不都合である。それゆえ、神は物体ではない。
さらに、知性的認識は感覚的認識よりも確実である。ところが、実在において感覚のもとに入る何かが見いだされる。それゆえ、知性のもとに入るものも見いだされる。ところで、諸能力の秩序は対象の秩序に即しているし、それらの区別もそうである。それゆえ、実在においてあらゆる感覚的なものを超えた何か可知的なものが存在する。ところで、実在において存在する物体はすべて可感的である。それゆえ、あらゆる物体を超えている何かより高貴なものを捉えなければならない。それゆえ、もし神が物体であるとすると、神は第一の最高度の存在者ではなくなっていますであろう。
さらには、生きていないどんな物体よりも生きている事物のほうが高貴である。ところで、どのような生きている物体よりも、それの生命の方がより高貴である。なぜなら、生きている物体はそれ以外の物体を超えた高貴さをこのことによって有しているからである。それゆえ、それよりもより高貴なものが何もないようなものは、物体ではない。ところで、それ[それよりもより高貴なものが何もないようなもの]は神である。それゆえ、神は物体ではない。
同じく、同じことを明らかにする哲学者たちによる諸論拠が見いだされ、それらは運動の永遠性から論を次のような仕方で進めているものである。すなわち、すでに述べられたことから明らかなように、永続的なすべての運動において、第一の動者はそれ自体によっても偶有的にも、動かされることはない。ところで、天の物体は永続的な運動において円運動をしている。それゆえ、その物体の第一の動者はそれ自体によっても偶有的にも動かされていない。ところで、どんな物体も動かされるのでなければ、場所的に動かすことはない。というのは、動かす者と動かされる者とは同時に存在しなければならないからである。そうして、動かす物体は、動かされている物体と同時に存在するためには、動かされているのでなければならない。また、物体の内にあるどんな力も、偶有的に動かされているのでなければ、動かすことはない。なぜなら、物体が動かされるときに、物体の力は偶有的に動かされているからである。それゆえ、天の第一動者が物体でも物体のうちなる力でもない。ところで、天の運動が究極的にそれを第一の不動の動者として還元されるものとは、神である。それゆえ、神は物体ではない。
さらに、無限な能力のいかなるものも大きさのうちにある能力ではない。第一動者の能力は無限の能力である。それゆえ、第一動者はいかなる大きさのうちにもない。そういう意味で第一動者である神は、物体でも物体のうちなる力でもない。
第一の命題は次のようにして証明される。もし何らかの大きさを持つものの能力が無限であるとすると、有限な大きさのものの能力であるか、あるいは無限な大きさのものの能力であるかのいずれかである。だが、『自然学』第3巻と『天地論』第1巻において証明されているように、無限な大きさというものは何も存在しない。ところで、有限な大きさのものに無限な能力が属することは不可能である。そういう意味で、大きさを持つもののどれにも無限な能力があるということはできないのである。
ところで、有限な大きさのものうちに無限な能力があることができないということは、次のようにして証明される。より小さな能力がより長い時間においてなしているのと同じ結果を、より大きな能力はより短い時間においてなす。この場合、その結果なるものは、質的変化であろうとも、場所的運動であろうとも、あるいは他のどんな運動であろうとも、どんな結果であってもよい。ところが、無限な能力は有限な能力のどんなものよりもより大きい。それゆえ、無限な能力はどんな有限な能力よりも、より早く動かすことによってより短い時間で結果を完成する。それゆえ、このことは不可分の時間において生じるという結論になる。そういう仕方で、動かすこと、動かされること、それに運動は瞬間において生じることになるであろう。だが、これとは反対のことが『自然学』第6巻において論証されているのである。
だが、有限な大きさを持つものの無限な能力が時間のうちで動かすことができないということは、さらに次のようにしても証明される。無限な能力をaとしよう。それの部分をabと理解しよう。そうすると、この部分はより長い時間で動かすことになる。ところが、この時間と能力全体が動かす時間との間にはある比例がなければならない。というのも、どちらの時間も有限だからである。そこで、この二つの時間が相互に十倍の比例にあるものとしよう。比例がこれとかあれとか言うことに相違が出てくるのはこの比によるからではないからである。ところで、上述の有限の能力に付加がなされるとすると、その能力への付加の比例に応じて時間に関する減少が生じるのでなければならないであろう。というのも、より大きな力はより短い時間で動かすからである。それゆえ、十倍が付加されると、その能力は最初の無限な能力が属すると理解されていた部分が動かす時間の十分の一の時間で動かすことになろう。しかし、このそれの十倍である能力は有限の能力である。なぜなら、有限な能力との確定した比例を持つからである。それゆえ、有限な能力と無限な能力とが等しい時間で動かすという帰結になる。これは不可能である。それゆえ、有限の大きさを持つものの無限な能力がある時間において動かすことはできないのである。
ところで、第一動者の能力が無限であることは次のようにして証明される。有限な能力のいかなるものも無限の時間において動かすことはできない。ところが、第一動者の能力は無限の時間において動かす。なぜなら、第一の運動は永続的だからである。それゆえ、第一動者の能力は無限である。
最初の命題は次のようにして証明される。もし或る物体の何らかの有限な能力が無限の時間において動かすとすれば、その物体の一部分は能力の一部分をもっているために、より短い時間で動かすであろう。なぜなら、何かがより大きな能力を持てば持つほど、それだけ長い時間において運動を持続させることができるであろう。そうして、前述の一部分が有限の時間において動かすことになるが、より大きな部分はより長い時間において動かすことができることになるからである。そしてこういう仕方で、動者の能力に付加がなされるに応じて、その同じ比例で時間への付加がなされることになる。ところが、付加が何回かなされると、全体の量に到達するか、あるいはそれを超えでてしまうことにさえなる。それゆえ、時間の側の付加も全体を動かす時間の量に到達する。ところが、全体を動かす時間は無限であると言われていた。それゆえ、有限の時間が無限の時間を計ることになるであろう。これは不可能である。
だが、この議論進行には多くの反論がある。
第一の反論とは、第一の運動を動かしている物体は、天体について明らかなように、不可分ではないと措定されうるが、前述の証明はそのものの分割ということから始まっている、という反論である。
だが、これに対しては次のように言うべきである。前件が不可能であるような仮言命題は真であり得る。そして、このような仮言命題の真理を壊すような何かがあれば、その仮言命題は不可能である。たとえば、「もし人間が飛ぶとすれば、羽をもっている」という仮言命題の真理を壊すような何かがあれば、その命題は不可能であろう。前述の証明の進行はこのような仕方で理解すべきなのである。すなわち「もし天体が分割されるならば、その部分は全体よりも小さな能力を持つであろう」というこの仮言命題は真なのである。ところが、このような仮言命題の真理は、第一動者が物体であると措定されると、そこから帰結する不可能なことがらのために、除かれることになる。それゆえ、これが不可能であることは明らかである。また、有限な諸能力の増大に関わる反論がなされても、同様に解答し得る。なぜなら、実在において時間があらゆる時間に対して有しているすべての比例に応じて能力を捉えることはできないからである。とはいえ、前述の証明において必要とされる仮言命題は真なのである。
第二の反論とは、物体が分割されるとしても、何らかの力が物体が分割されても分割されないような何らかの物体に属するのであり、たとえば理性的魂は物体が分割されても分割されないようにである、というものである。
これに対しては次のように言うべきである。前述の議論進行によって、理性的魂が人間の身体に結合しているのと同じように、神は物体と結合しているのではないということが証明されているのではない。そうではなくて、神が物体の分割に即して分割されるような質料的力として物体のうちなる力なのではない、ということが証明されているのである。だから、人間の知性についてもそれは物体でもなく物体のうちなる力でもないと語られるのである。だが、神が魂のような仕方で物体と一となっているのではないということ、このことは別の論拠によるのである。
第三の反論は、前述の議論進行において示されているように、どのような物体にも有限な能力が属するのであるが、有限な能力によっては何かが無限の時間の間持続することはできないとするならば、どんな物体も無限の時間の間持続することはできないことが帰結する。こうして天体は必然的に消滅することになるであろう、という反論である。
だが、これに対しては、天体は自己の能力によるならば欠陥があり得るが、無限の能力を持つ他のものから持続の永続性を獲得しているのである、という解答をしている人がいる。そして、この解答をプラトンが証拠立てているように思われる。というのは、彼は神に天体について次のような仕方で語らせているからである。「お前の本性は分解されうるものであるが、私の意志によって分解され得ないものとなっている。なぜなら、私の意志はお前の膠よりも強いからである」と。
a)だが、この解決を注解者は『形而上学注解』第11巻で論駁している。すなわち、注解者によれば、存在しないことがそれじたいから可能であるようなものが存在の永続性を他者から獲得することは不可能である。というのは、可滅的なものが不可滅性へと変容するということが帰結することになるからである。こんなことは、注解者によれば不可能である。 <br> b)だから、彼は次のように解答している。たしかに天体において現に存在している能力はすべて有限であるが、天体がすべての能力を有していなければならないというわけではない。というのも、アリストテレス『形而上学』第8巻によれば、天体のうちには場所への可能態があるが、存在への可能態はないからである。この意味で、非存在への可能態が天体に内属しなければならないわけではないのである。
だが、この注解者の解答が十分でないと知るべきである。すなわち、天体において、質料の可能態である存在へのいわば受動的な可能態がないとしても、そのうちには存在の力であるいわば能動的な可能態がある。このことをアリストテレスは『天地論』第1巻において、「点は常に存在する力を持っている」と明瞭に語っている。
だからより適切に次のようにいうべきである。可能態は現実態との関係で語られるのであるから、可能態は現実態のあり方に応じて判断すべきである。ところで、運動というものにはその概念からして、量と延長とがある。だから、運動が無限に持続するには、動かしている可能態が無限であることが必要である。ところが、存在にはどんな量の延長もない。特に、天のようにその存在が不変であるような事物についてはそうである。それゆえ、有限な物体において、それが無限に持続するとしても、それが存在への無限の力を持たねばならないというわけではない。なぜなら、その不変の存在が時間と触れることになるのは付帯的にでしかない以上、その力を通じて一つの瞬間において持続するか、あるいは無限の時間において持続するかの間には何の差異もないないからである。
第四の反論は次のことにもとづくものである。すなわち、無限の時間において動かしているものが無限の可能態を持っていることは、動かしながら変化を被らないような動者の場合には、必然的であるとは思われないということにもとづく。というのも、このような運動はその動者の可能態を何も費消することはなく、だからその動者はある一定の時間において動かした後にも、以前よりもより少ない時間の間しか動かし得ないということはない。例えば、太陽の力は有限であるが、働きをなすとその能動的な力が小さくなることはないので、無限の時間においてこの下位の世界へと、自然本性に従って働きかけ得るのである。
これに対しては次のように言うべきである。既に証明されたように、物体は動かされなければ動かすことはない。だから、或る物体が動かされることがないならば、それは動かさないことになる。ところが、動かされているすべてのものにおいては、反対的なものへの可能態がある。なぜなら、運動の終局するところは反対的なものだからである。それゆえ、動かされている物体はすべて、それ自体による限り、動かされないことが可能である。そして、動かされないことの可能なものには、それ自体では、永続的な時間において動かされるということはないのである。こうして、永続的な時間において動かすということもないのである。
それゆえ、前述の論証は有限な物体の有限な可能態というものからの論証であり、そのような可能態はそれ自体では無限の時間の間動かすことはできないものなのである。しかし、それ自体では動かされることも動かされないことも可能であり、動かすことも動かさないことも可能であるような物体が、別のものから運動の永続性を獲得することは出来るのである。そして、その別のものは非物体的なものでなければならない。それゆえ、第一動者は非物体的でなければならないのである。この意味で、自然本性上は有限である物体が、別のものから動かされることにおける永続性を獲得することで、動かすことにおける永続性をも得るということを妨げるものは何もないのである。というのも、第一の天体それ自体もその自然本性に従って、天球が天球を動かしていることによって、下位の天体を永続的な運動において回転させることができるからである。
また、注釈者によれば、それ自体で動かされることと動かされないこととのいずれにも可能態にあるものが別のものから運動の永続性を獲得するなどということは、存在の永続性についてそれが不可能であることが措定されているように、不適当なのであるが、そんなことはないのである。というのも、運動とは動かすものから動かされるものへの何らかの流出であるから、或る動かされるものが別のものから、それ自体では持っていない運動の永続性を獲得することができるのである。それに対して、存在は存在者において固定した静的な何かである。だから、それ自体では非存在への可能態にあるものは、注釈者が言っているように、自然の方途に従えば別のものから存在の永続性を獲得することはできないのである。
第五の反論:前述の議論進行によれば、大きさの外にある可能態が無限ではないという理由より大きさのうちにある可能態が無限ではないという理由の方がより強いということにならないと思われる。というのも、両方の場合に、その可能態が時間のうちではない仕方で動かすということが帰結するからである。
これに対しては次のように言うべきである。『自然学』第3巻と第6巻で証明されているように、有限と無限は大きさと時間と運動とにおいて一つの根拠にもとづいて見いだされる。だから、それら三者の一つにおいて無限なものは、他の二つにおいて有限な比例関係を除去してしまう。ところで、大きさを欠いているものにおいては、有限と無限とは同名異義的でしかない。それゆえ、前述の論証方法はこのような可能態には当てはまらないのである。
だが、別の仕方でもっと適当に答えることが出来る。すなわち、天は二つの動者を持っている。一つは近接の動者であり、これの力は有限であり、そのために天の運動は有限の速さをもっていることになる。そしてもう一つは沿革の動者であり、これの力は無限であり、そのことから天の運動は無限の持続を持つことが出来ているのである。こうして、大きさのうちにない無限の可能態が物体を直接的ではなく時間において動かすことができるということが明らかである。ところが、大きさのうちにある可能態は直接的に動かすのでなければならない。というのも、どんな物体も動かされなければ動かさないからである。それゆえ、もしそれが動かしているのであれば、非時間において動かしていることが帰結することになってしまうであろう。
さらに適切に次のように言うこともできる。大きさのうちにない可能態は知性であり、それは意志を通じて動かす。それゆえ、それは動かされうるものの要求に応じて動かすのであって、自己の力に比例して動かすのではない。それに対して、大きさのうちにある可能態は、自然本性の必然性によってしか動かすことができない。なぜなら、知性が非物体的な力であることは証明されているからである。こうして、その可能態は自己の量に比例して必然的に動かすことになる。それゆえ、もしそれが動かすのであれば、瞬間において動かすということが帰結するのである。
以上のように、前述の反論が排除されたので、アリストテレスの論証が妥当するのである。
さらに、物体的動者による運動のどれも連続的で規則的であることができない。それは、場所的運動における物体的動者は、引きつけたり斥けたりすることによって動かしているが、引きつけられたり斥けられたりするものは、運動の最初から終わりまでのあいだ、動者に対して同じ状態にはない。なぜなら、それは時には動者に接近し時には離れていることになるからである。こうして、どんな物体も連続的で規則的な運動をすることは出来ないのである。ところが、第一の運動が連続的で規則的であることが『自然学』第8巻において証明されている。それゆえ、第一の動かされる動者は物体ではないのである。
同じく、運動が向かっている目的が可能態から現実態へと出て行くような目的である場合には、その運動が永続的であることはできない。というのも、そのような運動が現実態への到達してしまったときには、それは静止していることになるからである。それゆえ、第一の運動が永続的であるならば、その運動が向かう目的は常に存在しあらゆる様態において現実態にある目的でなければならない。このようなものは物体ではないし、物体のうちにある力でもない。なぜなら、このようなものはすべて、自体的にであれ付帯的にであれ、動かされうるものだからである。それゆえ、第一の運動の目的は物体でも物体内の力でもない。ところで、第一の運動の目的は第一の動者であり、これは欲求されるものとして動かすものである。だが、これが神なのである。それゆえ、神は物体でも物体内の力でもないのである。
だが、われわれの信仰によれば、後に明らかにされるように、天の運動は永続的であるということは偽である。しかしながら、その運動が動者の不能によっても動かされる実体の消滅によっても欠陥がないということは真である。なぜなら、天の運動が長い時間を経ることで遅くなっているようには思われないからである。それゆえ、上述の諸論証はその効力を失うことはないのである。
この論証された真理と神の権威とは調和している。実際、『ヨハネ福音書』4章24節では「神は霊であり、神を崇める者は霊と真理とにおいて崇めなければならない」とあり、『ティモテへの第一の手紙』1章17節では「世々の、不死にして、不可視にして唯一の神に」とある。また、『ローマ人への手紙』1章20節では「神の不可視のことがらは作られたものによって理解され捉えられる」とあるが、その見られるのではなく理解されて捉えられるものとは非物体的なものなのである。
ここからまた、初期の自然哲学者たちの誤謬が打ち砕かれる。すなわち、彼らは火や水やそのような質料的原因しか措定しなかったので、事物の第一原理を物体であると語り、それらを神々と呼んでいたのである。
また、彼らの中には友愛と憎しみとが動因であると措定した者もいる。彼らもまた前述の論拠によって論駁される。なぜなら、彼らによれば物体のうちに憎しみと友愛とが存在するのであるが故に、動かしている第一原理は物体内の力であることになるからである。
彼らはまた、神は四元素と友愛とから複合されていると措定していた。このことで、彼らが神とは天体であると措定していたということが理解されることになる。
だが、初期の自然哲学者たちのうちでは、アナクサゴラスだけが真理に近づいていたのであるが、それは彼が知性が万物を動かしていると措定していたからである。
またこの真理によって、世界の諸元素や、太陽、月、地、水などといったその内に存在する力とを、前述の哲学者たちの誤謬を機縁として、神々であると考えた異教徒たちは論駁されるのである。
さらに、神を物体的な表象によって思い描いた単純なユダヤ教徒たち、テルトゥリアヌス、ヴァディアヌス派すなわち人間主義的異端の笑止千万は、前述の論拠によって排除されるのである。また、無限の空間に広がっている光の何らかの無限の実体が神であると見なしたマニ教徒も同様である。
そして、これらの誤謬の機縁となったのは、彼らが神的なことがらについて考えるときに、想像力に引きずられていたからである。想像力によっては物体の類似性しか捉えられ得ないのである。だから、非物体的なものを省察するにあたっては、想像力を排除しなければならないのである。
第 21 章
神はその本質であること
さて、以上のことから神とはその本質、何性、あるいは本性であるということが得られる。
というのは、それ自身が自己の本質あるいは何性でないようなものはすべて、そのうちに何らかの複合がなければならない。実際、それぞれのものにはそれの本質があるが、もし何らかのものにおいてその本質の外に何もないのであれば、当の事物の全体がそれの本質であることになろう。そうだとすると、そのもの自体がそれの本質であることになる。それゆえ、もし何かがそれの本質ではないとしたら、その内にその本質の外に何かがあるのでなければならない。だとすると、その内には複合があるのでなければならない。それゆえまた、複合したものにおける本質は、人間における人間性がそうであるように、部分の様態で意味表示されることになる。ところが、神においては何の複合もないことが既に示されている。それゆえ、神はそれの本質なのである。
さらに、事物の本質あるいは何性の外にあるものとは、その事物の定義に入ってこないものだけであると思われる。というのも、定義とは事物の何であるかを意味表示するものだからである。ところで、事物の定義に入らないのは付帯性だけであると思われる。それゆえ、或る事物においてその本質の外にあるのは、付帯性だけである。ところが、既に示されているように、神においてはどんな付帯性もないのである。それゆえ、神においては、神の本質の外には何もないのである。従って、神自身がそれの本質なのである。
さらには、自存する事物(普遍的に理解されても、個別的に理解されてもいずれにしても)に述語されない形相というものは、それ自体で個体化されて自体的な仕方では個別的に自存しない形相である。実際、ソクラテス、人間、あるいは動物が白さであるとは述べられないが、それは白さが自体的な仕方で個別的に自存するものではなく、自存している基体によって個体化されているからである。同様に、自然的形相も自体的な仕方で個別的に自存するのではなく、それ固有の質料において個体化されている。だから、この火や火がそれの形相であるとは語らないのである。また、類や種の本質あるいは何性それ自体も、その何性が形相と質料一般を含んでいるにしても、これやあれやの個体において指定される質料によって個体化されている。だから、ソクラテスや人間が人間性であるとは語られないのである。ところが、神の本質は自体的な仕方で個別的に存在し、また、それ自体で個体化されている。というのは、既に示されたように、神の本質はどんな質料のうちにもないからである。それゆえ、神の本質は神について述語され、「神はその本質である」と語られるのである。
さらに、事物の本質は事物そのものであるか、あるいは事物に対して何らかの仕方で原因としてあるかのいずれかである。というのは、事物はそれの本質によって種を得ることになるからである。ところが、いかなる意味においても、何かが神の原因であるということはあり得ない。なぜなら、既に示されたように、神は第一存在者だからである。それゆえ、神はそれの本質である。
同じく、自身の本質ではないようなものは、そのものの或る点に即して、その本質に対して、可能態が現実態に対するような関係にある。だから、例えば人間性のように、本質は形相の様態によっても意味表示されるのである。ところが、先に示されたように、神にはどんな可能態性もない。それゆえ、神は自身の本質でなければならない。
第 22 章
神において存在と本質は同じであること
さて、先に示されたことがらから、さらに神においては本質あるいは何性は神の存在と別ではないということが証明されうる。
というのは、存在することがそれ自体で必然的である何かがあり、それが神であることが先に示された。さて、この必然的である存在が、その存在そのものではない何らかの何性に属するのであるとすると、(1)その存在はこの何性と不調和あるいは背反的であるか(白さという何性にとってそれ自体で実存することがそうであるように)、あるいは(2)その何性に調和的あるいは親和的である(白さにとって他のもののうちに存在することがそうであるように)のいずれかである。もし最初の方であるとすると、先述の何性にはそれ自体で必然的である存在は適合しない(白さにはそれ自体で実存することが適合しないようにである)。それに対して第二の方であるとすると、(2-a)そのような存在が本質に依存するか、(2-b)存在と本質の両方がそれ以外の原因に依存するか、(2-c)本質が存在に依存するか、のいずれかである。だが、最初の二つは存在することがそれ自体で必然的であるものの概念に反している。なぜなら、そのような存在が他のものに依存するとすると、それはもはや存在することが必然的ではないからである。それに対して、第三の場合からは、その何性は存在することがそれ自体で必然的である事物に対して、付帯的に到来するものであることになる。なぜなら、事物の存在に随伴するものはすべて、その事物にとって付帯的だからである。このようにして、その事物はそれの何性ではないことになるであろう。それゆえ、神は自己の存在ではないような本質を持ってはいないのである。
しかし、これに反対して次のように言われるかもしれない。すなわち、その存在は絶対的な意味でかの本質に依存し、その本質がなければまったくないわけではないとしても、存在が本質に結合しているその結合関係に関しては依存しているのである。だからその意味で、この存在は自体的に必然的であるが、それが結合されるということは、自体的には必然的ではないのだ、と。
だが、このような解答は前述の不都合なことがらを抹消しはしない。
というのは、もしその存在がかの本質なしに理解されうるとすれば、その本質は存在に対して付帯的な仕方で関係していることになる。ところが、存在することが自体的に必然であるものであるのは、その存在である。それゆえ、かの本質は存在することが自体的に必然であるものに対して付帯的な仕方で関係している。それゆえ、後者はそれの何性ではない。とkろおが、その存在することが自体的に必然であるものとは神である。したがって、かの本質は神の本質ではなく、何か神よりaとなる本質であることになる。
それに対して、かの存在がかの本質なしに理解され得ないとするならば、その場合にはかの存在はその存在のかの本質への結合がそれに依存しているものに、絶対的に依存していることになる。そうすると、前と同じことに帰するのである。
同じく、それぞれのものは自己の存在によってある。それゆえ、自己の存在でないものは存在することが自体的に必然なものではない。ところが、神は存在することが自体的に必然なものである。それゆえ、神は自己の存在である。
さらに、神の存在が自己の本質ではないとしてみよう。だが、既に示されたように、神の本質は単純である以上神の存在が神の部分であることはできないのであるから、このような存在は神の本質の外の何かでなければならないことになる。ところが、或るものに適合しながらそれの本質に属さないものはすべて、何らかの原因によってそのものに適合している。それゆえ、存在はかの何性に何らかの原因によって適合しているのである。そうだとすると、それはその事物の本質に属する何かか本質そのものによって適合しているか、あるいは、何か他のものによって適合しているかのいずれかであることになる。もし第一の場合で、しかも本質はかの存在によってあるのだとすれば、何かが自己自身にとっての存在の原因であることになる。だが、これは不可能である。なぜなら、原因であるということの方が結果であるよりも、理解においては先だからである。それゆえ、もし何かが自己自身にとっての存在の原因であるとすると、それは存在を持つよりも前に存在すると理解されることになってしまうであろう。だが、これが不可能なのである。(ただし、何かが自己自身にとっての存在の原因であるということが、或る点での存在である付帯的存在に即して理解されている場合は別である。その場合には不可能ではない。というのは、何らかの付帯的存在者はその基体の諸原理から原因されたものとして見いだされるが、それより前に基体の実体的存在があるということが理解されるからである。だが、今われわれが述べているのは付帯的存在ではなく、実体的存在についてなのである。)さて反対に、存在がかの何性に[本質以外の]何か別の原因によって適合しているとしてみよう。だが、存在を別の原因から獲得しているものはすべて原因されたものであって、第一原因ではない。ところが、既に論証されているように、神は原因を持たない第一原因である。それゆえ、この存在を別のところから獲得している何性とは、神の何性ではない。したがって、神の存在は自己の何性であることが必然なのである。
さらに、存在とは何らかの現実態を名指ししている。というのも、何かが存在すると語られるのは、それが可能態においてあることによるのではなく、現実態においてあることによるからである。ところが、ある現実態が適合しているが、その現実態とは異なるものとして存在しているものはみな、その現実態に対して可能態として関係している。実際、現実態と可能態とは相互関係的に語られるからである。それゆえ、もし神の本質が自己の存在とは別であるとすると、本質と存在の間の関係は可能態と現実態の間の関係であることになる。ところが、神においてはいかなる可能態もなく、神は純粋現実態であるということがすでに示されている。従って、神の本質は自己の本質と別ではないのである。
同じく、多くのものが協力しなければ存在し得ないものはすべて、複合されたものである。ところが、本質と存在とが別であるような事物のどれも、多くのものすなわち本質と存在とが協力しなければ存在し得ない。それゆえ、本質と存在とが別であるような事物はすべて複合された事物である。ところが、既に示されているように、神は複合しているものではない。したがって、神の存在は自己の本質なのである。
さらに、すべての事物は存在を持つことによってある。それゆえ、その本質が自己の存在ではない事物のどれも、自己の本質によってあるのではなく、何らかのものの分有、すなわち存在そのものの分有によってある。ところが、何らかのものの分有によってあるものは第一存在者ではあり得ない。なぜなら、何かが存在するために分有している当のものは、その何かよりも先だからである。ところで、神はそれより先なるものが何もない第一存在者である。したがって、神の本質は自己の存在なのである。
さて、この崇高な真理をモーセは主によって教えられたのである。モーセは主に尋ねて『出エジプト記』3章13節で「イスラエルの子らが私に、彼の名前は何だと言ったとしたら、彼らに何と言うべきでしょう」と言うと、主は「わたしは在りて在るものである。イスラエルの子らに「在る者が私をあなたがたのもとに遣わした」と言いなさい」と答えたのである。そうすることで、神自身の固有の名前とは「在る者」であることを示したのである。だが、どんな名前であっても、それはある事物の本性あるいは本質を意味表示するために制定されている。だから、神の存在そのものがそれ自身の本質ないし本性であるという帰結になるのである。
また、カトリックの教師たちもこの真理を告白している。
a)実際、ヒラリウスは『三位一体論』において「神にとって存在は付帯性ではなく、自存する真理、止まる原因、そして類の本性的固有性である」と言っている。
b)また、ボエティウスも『三位一体論』において、「神の実体とは存在それ自体であり、その実体に存在は由来する」と述べているのである。
第 23 章
神には付帯性はないこと
また、この真理から神にはその本質のうえに何も付け加わることもなく、その本質に何かが付帯的に内属することもないということが、必然的に帰結する。
というのは、在るものは何か他のものを分有できるとしても、存在そのものはそれの本質に属さない何かを分有することができない。というのも、存在よりもより形相的あるいはより単純なものは何もないからである。その意味で存在そのものは何ものをも分有し得ない。ところが、神の実体は存在そのものである。それゆえ、それは自己の実体に属さないものを何ももっていない。従って、神にはいかなる付帯性も内属し得ないのである。
さらに、或るものに付帯的に内属するものには、何故内属するのかの原因がある。というのは、そのようなものはそれが内属している当のものの本質の外にあるからである。それゆえ、もし神において何かが付帯的に在るとしたら、このことが何らかの原因によるのでなければならない。そうだとすると、付帯性の原因は神の実体そのものであるか、あるいは何か他のものであるかのいずれかであることになる。そして、もし他の何かであるとすると、それが神の実体に働きかけているのでなければならないことになる。というのは、実体的形相であれ付帯的形相であれ、何らかの形相を何らかの受容者のうちにもたらすには、その受容者へと何らかの仕方で働きかけることに寄らねばならないからである。それは、働きかけるということは何かを現実態にするということであり、これは形相によるからである。それゆえこの場合には、神は他の作用者によって働きを受け動かされることになるが、これは先に確定していることに反しているのである。
それに対して、もし神の実体それ自体がそれに内属する付帯性の原因であるとしたどうであろうか。だが、その実体が付帯性の受容者である限りにおいてそれの原因であるということは不可能である。というのも、そうだとすれば、同じものが同じ観点で自己を現実態にすることになってしまうからである。したがって、もし神において何らかの付帯性が在るとすれば、その付帯性を受容するのとそれの原因となるということは別の観点においてでなければならない。(それは、物体的なものがそれ固有の付帯性を受容するのは質料の本性を通じてであるのに対して、その付帯性の原因となるのは形相を通じてであるのと同じことである。)そうだとすると、神は複合したものとなってしまうのであるが、これとは反対のことが先に証明されているのである。
同じく、付帯性にとってのあらゆる基体とその付帯性との関係は、可能態と現実態との関係である。付帯性とはある種の形相であって、形相的存在に即して現実態にするものだからである。ところが、神においてはいかなる可能態性もないことは先に証明されている。したがって、神においてはいかなる付帯性もないのである。
さらに、何かが付帯的に内属している当のものはどんなものでも、その本性に即して何らかの仕方で可変的である。というのは、付帯性というのはそれ自体の本性からして、内属することも内属しないことのいずれもあるものだからである。それゆえ、もし神に付帯的に適合しているような何かを神が持っているとしたら、神は可変的であるいうことになるが、この反対が先に論証されているのである。
さらに、何らかの付帯性が内属しているものはどれでも、それが自己のうちにもっているもののどれでもあるというわけではない。なぜなら、付帯性は基体の本質には属していないからである。ところが、神は神自身のうちに持っているもののどれでもある。したがって、神においては何の付帯性もない。
上記の小前提は次のようにして証明される。どんなものであっても結果においてよりも原因においての方がより高貴な仕方で見いだされる。ところが、神は万物の原因である。それゆえ、神のうちにあるものはどんなものでも、神のうちにおいて最も高貴な仕方で見いだされることになる。ところが、何かが何かに最も完全に適合しているというのは、それがそれ自体であることである。実際、このあり方は、形相が質料に合一しているように、或るものが他のものに実体的に合一している場合よりもより完全に一であるし、この実体的合一は何かが付帯的に内属している場合よりもより完全な合一なのである。したがって、神は神の有しているどれでもあるということにならざるを得ないのである。
同じく、付帯性は実体に依存しているけれども、実体は付帯性に依存しない。ところで、何らかのものに依存していないものは、その何らかのものなしに時として見いだされることがあり得る。それゆえ、何らかの実体は付帯性なしに見いだされ得る。だが、このことがとりわけ適合すると思われるのは、最も単純な実体においてであり、神の実体とはそのようなものである。したがって、神の実体に付帯性が内属するということは決してないのである。
この見解の点で、カトリックの論者たちは一致している。だから、アウグスティヌスは『三位一体論』で「神においては何の付帯性もない」と述べている。
この真理が示されたことで、イスラム教の何人かの「弁証神学者たち」による、「神の本質に何らかの志向が付加されていると措定している」という誤謬は論駁されることになるのである。
第 24 章
神の存在は何らかの実体的差異を付加することによって指示され得ないこと
また、上述のことから、神の存在そのものには、類が種差によって指示されるような仕方で、本質的指示によって指示するような何かが付加され得ないということが示され得る。
というのは、実体的存在がそれによって指示されるようなすべてのものが実存しているのでなければ、何かが現実態においてあることは不可能である。例えば、動物が現実態において存在するには、それが理性的動物であるかあるいは非理性的動物であるかのいずれかでなければならないのである。それゆえ、プラトン主義者であっても、イデアを措定しているにしても、自体的に存在するイデアとしては、種の存在との関係で本質的差異によって指示される類というもののイデアを措定することはできず、指示するためには本質的差異を必要としない種についてだけ自体的に存在するイデアを措定できたのである。それゆえ、もし神の存在が本質的指示という仕方で何か他の付加されたものによって指示されるのであるとすると、その存在はその付加されたものが実存しない限り現実態において存在しないことになってしまうであろう。ところが、神の存在そのものが神の実体であることは、先に示されている。それゆえに、神の実体が何かが付け加わるのでなければ現実態において存在し得ないことになるであろう。だが、ここから結論されることというのは、それが存在することが自体的に必然ではないものであるということであって、この反対が先に示されているのである。
同じく、存在することができるために何か付加されるものを必要とするものはすべて、その付加されるものに対して可能態にある。ところが、神の実体はいかなる意味においても可能態にないことは、先に示されている。ところで、神の実体とは神の存在である。それゆえ、神の存在は、何らかの実体的指示という仕方において、それに何かが付加されることによって指示されることはできないのである。
さらには、事物がそれによって現実態における存在を随伴し、それによって存在が事物に内的なものとなるものとはすべて、事物の本質全体であるか、あるいは本質の部分であるかのいずれかである。ところで、本質的指示という仕方で何かを指示するものは、事物を現実態において存在させ、指示された事物にとって内的なものである。というのは、もしそうでなければ、事物はそれによって実体亭に指示され得ないからである。それゆえに、それは事物の本質そのものであるか、あるいは、本質の部分であるかのいずれかなのである。ところが、神の存在に何かが付加されるとしたら、その何かは神の本質全体ではあり得ない。なぜなら、神の存在とそれの本質とは別ではないということが既に示されているからである。従って、それは神の本質の部分であることになる。しかし、そうだとすると神は本質的に諸部分から複合されていることになるであろうが、これとは反対のことが先に示されたのである。
同じく、或るものを指定するのにその或るものに本質的指定という仕方で加えられるものは、そのものの概念を構成するのではなく、現実態における存在ということだけを構成する。例えば、理性的ということが動物に加えられるが、その理性的ということは動物にとっての現実態における存在を獲得するのであって、動物である限りでの動物の概念を構成することはないのである。それは、種差は類の定義には入らないからである。ところで、神に何かが加えられて、それによって神が本質的指定という仕方で指定されるとしたら、その何かは加えられるものにとっての固有の何性あるいは本性の概念を構成するのでなければならない。というのも、このような仕方で加えられているものは、事物の現実態における存在を獲得するからである。だが、これ、すなわち現実態における存在は神の本質そのものであることが先に示されている。したがって、種差が類を指示するような仕方で、神の存在を本質的指示によって指示するようなものは神の存在には加えられ得ないということになるのである。
第 25 章
神はどんな類のうちにもないこと
また、このことから神はどんな類のうちにもないことが必然的に結論される。
というのも、何らかの類のうちにあるものはすべて、そのうちに種との関係で類の本性がそれによって指示されるようなものを自己のうちに有している。実際、類のうちにあるものはどれもその類の何らかの種のうちにあるからである。ところが、このようなことは神においては不可能であることが示されている。それゆえ、神が何らかの類のうちにあるということは不可能なのである。
さらに、もし神が類のうちにあるとすると、付帯性の類にあるか実体の類にあるかのいずれかである。だが、神は付帯性の類のうちにはない。というのは、付帯性は第一の存在者や第一原因であることはできないからである。また、神は実体の類のうちにあることもできない。なぜなら、類という実体は存在そのものではないからである。というのも、もしそうでないとすると、すべての実体が自己の存在であるということになり、そうするとすべての実体が他者を原因として持つのではないということになる。だが、これが不可能であることは上述のことから明らかなのである。だが、神は存在そのものである。従って、神はどんな類のうちにもないのである。
同じく、類のうちにあるものは何であっても、同じ類のうちにある他のものから存在に即して異なっている。というのも、もしそうでなければ、類は多くのものに述語されないことになってしまうからである。ところが、同じ類のうちにあるものはすべて、類の何性において一致している。なぜなら、類はあらゆるものについて「何であるのかという点で」述語されるからである。それゆえ、類のうちに実存しているどんなものにとっても、その存在は類の何性の外にあることになる。ところが、このことが神においては不可能である。したがって、神は類のうちにあることはないのである。
さらに、それぞれのものはその何性の特質を通じて類に配置される。類は「何であるのか」という点で述語されるものだからである。ところが、神の何性とは神の存在そのものである。だが、存在に即して何かが類に配置されることはない。というのも、そうだとすれば存在者とは類であり、それが存在そのものを意味表示することになってしまうからである。したがって、神は類のうちにないということになるのである。
存在者は類ではないというこのことは、哲学者によって次のような仕方で証明されている。すなわち、もし存在者が類であるとすると、その類がそれを通じて種へと限定されるような何らかの種差が見いだされるのでなければならなくなる。ところが、どんな種差についても、それが類を分有するということ、つまり類が種差の概念のうちに含まれるような仕方で分有するということはない。なぜなら、もしそうだとすると、種の定義のうちには類が二度措定されてしまうからである。だからそうではなく、種差は類の概念において理解されていることの外になければならないのである。ところが、存在者ということがそれが述語されるものの理解内容に含まれている以上、存在者ということによって理解されていることの外には何もあり得ない。だからこの意味で存在者はいかなる種差によっても限定され得ないのである。従って、存在者は類ではないということになる。だからこのことから必然的に、神は類のうちにないということが結論されるのである。
このことからまた、神が定義され得ないということも明らかである。なぜなら、定義はすべて類と種差からなるからである。
さらにまた、神については結果による以外には論証がなされ得ないことも明らかである。なぜなら、論証の原理とは、それについて論証がなされるものの定義だからである。
しかし、次のように考える人がいるかもしれない。つまり、神はたしかに付帯性の基になっているものではないから「実体」という名称は神には固有には適合し得ない。とはいえ、その名称によって意味表示されている事物は神に適合しているのであって、神は実体の類のうちにあるのである。というのも、実体とはそれ自体による存在者であって、このことが神に適合するということは、神は付帯性ではないということが証明されていることから確かなのである。
a)しかし、この反論に対しては既に述べられたことにもとづいて、それ自体による存在者ということは実体の定義のうちにはない、と言うべきである。というのも、実体が「存在者」と語られていることからして、それは類ではあり得ないであろう。というのは、存在者は類の特質を持っていないことが既に証明されているからである。
b)また、「それ自体による」と語られていることからしても同様である。というのは、このことはただ否定だけを含意していると思われるからである。というのは、「それ自体による存在者」とは「他のうちにない」ということからそう言われるのであるが、それは純粋な否定だからである。そして否定は類の概念を構成し得ない。なぜなら、もし構成するとすると、類は事物の何であるのかの述べるのではなく、何でないのかを述べることになってしまうからである。
c)それゆえ、実体の概念とは、「実体とは基体のうちにない存在ということが適合する事物である」というように理解しなければならない。ところが、存在者という名称が存在から付されるように、事物の名称は何性から付される。だから、実体の概念においては、他のもののうちにない存在が適合する何性を持つということが理解されるのである。だが、このことは神には適合しない。というのは、神は自己の存在以外の何性を持っていないからである。だから、神はいかなる意味においても実体の類にあるわけでもないことになる。こうしてまた、神は付帯性の類においてないことが示されている異常、神はいかなる類においてもないことになる。
第 26 章
神は万物の形相的存在ではないこと
以上のことから、神とはそれぞれの事物の形相的存在以外のなにものでもないと語った人々の誤謬が排される。
というのは、この形相的存在は実体的存在と付帯的存在とに区分される。だが、神の存在は実体の存在でも付帯性の存在でもないことが証明されている。したがって、それぞれの事物がそれによって形相的にあるとされるその存在が神であることは不可能なのである。
同じく、諸事物が相互に区別されるのは存在を持っていることによるのではない。この点ではすべてのものが一致しているからである。それゆえ、もし事物が相互に区別されているとすれば、存在そのものが付加された何らかの差異によって特種化され、種に即して異なった存在が異なった事物に属することになるか、あるいは諸事物は存在そのものが種に即して異なっている本性に適合することによって異なっているか、のいずれかである。ところが、このうちの第一の場合は不可能である。というのは、既に述べられたように、類に種差が付加されるような仕方で存在者に何らかの付加が生じることはあり得ないからである。それゆえ、諸事物が異なっているのは異なった本性を持つことによるのであり、その本性によって存在は異なった仕方で獲得されるのだということになる。ところが、すでに示されたように、神の存在は別の本性に対して到来するのではなくて、それが本性そのものである。したがって、もし神の存在が万物の形相的存在であるとすると、万物は端的に一であるのでなければならないことになってしまうのである。
さらに、原理は本性からして原理によるものよりも先である。ところが、何らかの事物においては存在は何かを原理として持っている。例えば、形相は存在の原理であると言われるし、何らかのものを現実態にもたらす作用者も同様である。それゆえ、もし神の存在がそれぞれの事物の存在であるとすると、自己の存在である神には何か原因があることになる。そうだとすると神は存在することが必然であるものではなくなってしまうのであるが、その反対のことが先に示されているのである。
さらに、多くのものに共通であるものがその多くのものの外なる何かであるのは、ただ概念上のことである。たとえば、動物がソクラテスやプラトンや他の動物の外なる何かであるのは、動物の形相というものをそれを個体化し特種化しているものからそぎ落として把握している理解においてだけなのである。実際、人間は真に動物であるものなのであり、そうでないとすれば、ソクラテスやプラトンのうちに複数の動物が、つまり共通する動物そのもの、共通的な人間、それにプラトンそのものがあることになってしまうであろう。それゆえ、共通的な存在についてはましてのこと、それが実存する万物の外なる何かであるのはただ理解においてだけなのである。それゆえ、もし神が共通的存在であるとすると、神が或る事物であるというのは、その事物がただ理解においてある事物であるということになるであろう。だが、神が何かとして存在するというのはただ理解においてのみではなく、実在においてであることがさきに示されている。したがって、神は万物の共通的な存在ではないのである。
同じく、それ自体で言うと、生成とは存在への途上であり、消滅とは非存在への途上である。実際、生成の終局が形相であり消滅の終局が欠如であるのは、まさに形相が存在をもたらし欠如が非存在をもたらすからである。というのも、何らかの形相が存在をもたらすのでないとしたら、そのような形相を受け取るものが生成するとは語られないことになるからである。それゆえ、もし神がすべての事物の形相的存在であるとすると、神は生成の終局であることになる。だが、先に示されているように、神は永遠であるからこれは偽なのである。
さらに、[この見解からは]それぞれの事物の存在は永遠からあったことになってしまう。そうだとすると、生成や消滅は存在し得ないことになる。というのも、もし生成消滅があるとすれば、先在する存在があってそれが或る事物にとって新たに獲得されるのでなければならないが、その場合に(a)その事物が何か先に実存するものであるか、あるいは(b)いかなる意味でも先に実存するものではないか、のいずれかであることになる。
a)もし第一の場合であるとすると、前述の立場に従えばすべての実存するものの存在は一なる存在なのであるから、生成すると語られる事物が受け取っているのは新たな存在ではなく、新たな存在の様態なのである。これによってはなされていることは質的変化であって、生成ではないのである。
b)それに対して、もしいかなる意味においても先に事物が実存しなかったとすれば、その事物は無から生じたことになる。これは生成の概念に反している。それゆえ、この立場は生成消滅をまったく破壊していることになるのである。したがって、その立場が不可能であることは明らかである。
a)聖なる教えもこの誤謬を反駁している。『イザヤ書』6章1節で語られているように、神は「いと高く上げられている」のであり、『ローマ書』9章5節にあるように「神は万物を越えて在る」と告白されているからである。実際、もし神が万物の存在であるとすると、神は万物に属するものであって、万物を越えているのではなくなるであろう。
b)また、この誤謬を犯す人々は偶像崇拝者たちと同じ考えまで進むことになる。つまり、偶像崇拝者たちは、『知恵の書』14章21節にあるように、「共通的なものとならない名前」つまり神の名前を「木や石に与えた」のである。実際、もし神が万物の存在であるとすると、「石が存在者である」と語る方が「石は神である」と語るよりもより真実を語っているということにはならなくなってしまうのである。
さて、この誤謬にはそれ鼓舞することになったと思われる四つのことがあったのである。
その第一は、いくつかの権威が転倒して理解されたことである。
a)ディオニシウスの『天上位階論』4章に「万物の存在」は超本質的な「神性である」という言葉が見いだされる。ここから彼らはすべての事物の形相的存在そのものが神であると理解しようとしたのである。しかし、このような理解がその言葉そのものに調和し得ないということは考察していないのである。というのも、もし神性が万物の形相的存在であるとすると、それは万物を越えているのではなく万物の間にある、というよりむしろ万物に属する何かであることになるであろう。それゆえ、ディオニシウスは神性は万物を越えていると語った時には、神はその本性に即して万物から区別され、万物を越えたものとして位置づけられていることを示している。それに対して、神性は万物の存在であると語ったことによって、万物のうちには神による神の存在の何らかの類似性が見いだされるということを示しているのである。
b)また、ディオニシウスは彼らのこの転倒した理解を、別のところでより明らかに排除して、『神名論』2章では、点が線に対する、あるいは印章の形の臘に対するようには、神自身の他の事物に対する「接触はなく、何の混合もない」と語ったのである。
彼らをこの誤謬へと進ませたことの二番目のこととは、論拠の欠陥である。
a)というのは、共通的なものが特種化あるいは個体化されるのは付加によるということから、何の付加も生じない神の存在は何か固有の存在ではなく、万物に共通の存在であると彼らは見なしたのである。だが、彼らは共通的なものあるいは普遍は付加なしで存在し得ないが、付加なしで考察されるということを考えなかったのである。実際、動物は理性的という種差なしで存在し得ないが、この種差なしで考えられるのである。また、普遍は付加なしで考えられるとしても、それでも付加を受け入れる可能性を欠いては考えられない。というのも、もし動物に何の種差も付加され得ないとしたら、それは類ではなくなるであろう。他のすべての名称についても同様なのである。
b)ところが、神の存在は思考においてだけでなく、実在においても付加なしに在る。それも、ただ付加なしというだけではなく、付加を受け入れる可能性もなしにである。だから、付加を受けれてもいないし受け入れることもできないというこのこと自体から、神は共通的存在ではなく固有の存在であるということがいっそう結論され得る。また、神の存在は他のすべてのものから区別されているということ自体からは、それに何も付加され得ないということが結論されるのである。
c)だから、注釈家は『原因論』において、第一原因はその善性の純粋さそれ自体から他のものから区別され、在る意味で個別化されている、と言っているのである。
彼らをこの誤謬に導き入れた第三のこととは、神の単純性についての考察である。というのも、神は単純性の極にあるということから、神が存在するということはわれわれのもとにあることがらを分解した究極に、最も単純なこととしてあると見なしたのである(実際、われわれのもとにあることがらの複合性において、無限に進行することはないからである。)だが、ここでもまた彼らの論拠は欠陥があるのである。というのも、われわれのもとで見いだされる最も単純なものとは、十全な事物であるというよりは事物に属する何かであるということに彼らは注意を払っていないからである。だが、神に単純性が帰属するが、それは何か自存する完全な事物としての神に帰属するのである。
また、彼らをこのようなことに導き得た第四のこととは、<神は万物においてある>と語るわれわれの語り方である。神が事物においてあるのは、事物に属する何かとしてではなく、いかなる仕方においても結果から離れることのないような事物の原因としてなのだということを、彼らは理解していないのである。実際、われわれはこれと同じように、<形相は物体においてある>とか、<水夫は船においてある>とか語るのである。
第 27 章
神はどんな物体の形相でもないこと
神が万物の存在ではないということが示されたから、同様にして神はどんな事物の形相でもないということが示され得る。
というのも、すでに示されたように、神の存在がそれ自身の存在ではないような何らかの何性に属することはあり得ない。ところが、神の存在それ自体であるものとは、神以外のなにものでもない。したがって、神が何か他のものの形相であることは不可能なのである。
さらに、物体の形相は存在そのものではなく、存在の原理である。ところが、神は存在そのものである。従って、神は物体の形相ではない。
同じく、形相と質料の合一から何らかの複合体が帰結するが、それは質料と形相との関係では全体である。とkろが、部分というのは全体に対して可能態にある。ところが、神においてはいかなる可能態性もない。したがって、神が何らかの事物と合一した形相であることは不可能である。
さらに、それ自体で存在を有するものは他のものにおいて存在を有するものよりもより高貴である。ところが、何らかの物体の形相はすべて他のもののうちに存在を有している。したがって、神は存在の第一原因として最も高貴な存在者である以上、何らかのものの形相では在り得ない。
それにくわえて、同じことが運動の永遠性から次のようにして示され得る。もし神が何らかの動きうるものの形相であるとすると、神自身は第一の動者であるから、複合体が自己を動かしていることになるであろう。ところが、自己を動かしているものは動かされることも動かされないことも可能である。それゆえ、神においてその両方があることになる。ところが、このようなものは自分から運動の欠陥を持つことはない。それゆえ、自己を動かしているものの上に、別の第一動者を措定し、それが運動の永続性をそれに与えているのでなければならない。こうして、第一動者である神は自己を動かしている物体の形相ではないのである。
ところで、この議論進行は運動が永遠であると措定している人にとって有益である。というのも、そうであると措定しないとしても、天の運動の規則性から同じ結論が得られ得るからである。実際、自己を動かしているものは静止することも動くこともできるのと同じように、より早く動くこともより遅く動くこともできる。それゆえ、天の運動の斉一性のもつ必然性は全く動かされ得ない上位の何らかの原理に依存しており、それは自己を動かしている物体の何らかの形相としての部分ではないのである。
さて、この真理に聖書の権威は一致している。実際、『詩篇』8篇2節では「神よ、あなたの偉大さは天を越えて高い」と語られている。また、『ヨブ記』11章8-9節では「彼は天よりも高い。何をしようというのか。彼の尺度は地よりも長く、海よりも深い」とある。」
a)こうして、神は天の魂であるとか全世界の魂であるとか語った異教徒たちの誤謬は空しくされる。
b)また、この誤謬にもとづいて、物体の観点で出はなく魂の観点で(ちょうど人間が物体の観点ではなく魂の観点で知者であると言われるように)全世界が神であると語って、偶像崇拝者を弁護した異教徒も同じである。このような前提のもとに、世界とその諸部分に神的な崇拝が捧げられることは為してはならないわけではないという見解を持ったのである。
c)さらに注釈家は『形而上学』11巻で、「この場所でザビウス族の」すなわち偶像崇拝者の「知者たちの堕落があった」と語っているが、それは彼らが神とは天の形相であると主張したからである。