(Last Updated: 2003/11/11)
トマス・アクィナス

『カトリック信仰の真理について 不信仰者の誤謬を論駁する書』

(『対異教徒大全』)


第1巻 神の完全性、名称、善性、一性、無限性(第28章-第43章)



Direct Jump(n.259-371)
(全体の目次へ)





第 28 章

神の完全性について

  1. (Latin)

    さて、存在しかつ生きているものの方がただ存在しているものよりも完全であるにしても、自身の存在以外のなにものでもない神は普遍的な仕方で完全な存在者である。そして私が普遍的な仕方で完全であるものと言うのは、どんな類の高貴さも欠けていないもののことである。

  2. (Latin)

    というのも、それぞれの事物の高貴さはすべて、そのものにそのものの存在に即して属している。実際、人間にその知恵にもとづいて属する高貴さのすべては、人間が知恵によって知恵ある者であるからでしかないし、他の点でも同じである。だからこのように、高貴さの点での様態は事物が存在を有する様態に即しているのである。というのは、事物がより高貴であるとかより高貴でないとか語られるのは、その存在が高貴さの何らかの特種な様態へと限定されるその様態がより大きいか小さいかによるからである。それゆえ、もし存在の力の全体が適合するものが何かあるとすると、そのものには何らかの事物に適合するどんな高貴さも欠けていることはできない。ところが、自己の存在である事物には、存在が存在の力全体に即して適合している。たとえば、仮に何らかの分離した白さといったものが存在するとすると、そのものには白さの力のどれも欠けていることはできないであろう。だが実際には、ある特定の白いものには白さの力のいくらかが、白さを受け取っている事物の欠陥のために、欠けている。その受け取っている事物は白さを自己の様態に応じて受け取るのであって、白さの可能性全体に即して受け取るのではないであろうからである。それゆえ、先に証明されているように、神は自己の存在であるから、その存在を存在そのものの力の全体に即して有しているのである。したがって、神は何らかの事物に適合するどんな高貴さも欠くことはできないのである。

  3. (Latin)

    ところで、あらゆる高貴さと完全性が事物に属するのはその事物が存在することに即してであるが、それと同じようにあらゆる欠陥が事物に属するのはその事物が何らかの仕方で存在しないことに即してである。ところが、神は全体的な仕方で存在を有しているが、それと同じように非存在は全体的な仕方で神から切り離されている。なぜなら、何かが存在を有する様態によって、それは非存在を欠くからである。それゆえ、すべての欠陥が神からは切り離されている。したがって、神は普遍的なしかたで完全なのである。

  4. (Latin)

    だが、ただ存在するだけのものどもは、その切り離された存在の不完全性のために不完全であるのではない。というのは、それらのものは自己の可能性の全体に即して存在を持っているのではなく、何らかの個別的で最も不完全な様態によって存在を分有しているからなのである。

  5. (Latin)

    同じく、すべての不完全なものは何らかの完全なものから出てきていることが必然である。例えば、種子は動物あるいは植物に由来するのである。それゆえ、第一の存在者は最も完全でなければならない。ところが、神が第一の存在者であることは既に示されている。したがって、神は最も完全なのである。

  6. (Latin)

    さらには、それぞれのものは現実態にある限りで完全であり、現実態の欠如をともなって可能態にある限りで不完全である。それゆえ、いかなる意味においても可能態になく純粋現実態であるものは、最も完全でなければならない。ところが、神とはそのようなものである。したがって、神は最も完全である。

  7. (Latin)

    さらに、どんなものも現実態にある限りでしか作用しない。だから、作用は作用者のうちにある現実態の様態に随伴するのである。それゆえ、作用によって引き出される結果が、作用者の現実態よりもより高貴な現実態にあることは不可能である。だが、結果の現実態が作用原因の現実態よりも不完全であることは可能であるが、それは作用はそれがそこへと終局するものの側で弱めれらることが可能だからである。ところで、作出因の類における第一原因への還元が生じる。そして上述のことから明らかなように、その第一原因が神と言われるのであり、すべての事物はそれに由来することは以下で示されることになる。それゆえ、あらゆる他の事物おいてある現実態のどれもが、神においてその事物におけるよりもずっと卓越した仕方で見いだされるのであって、逆ではない。したがって、神は最も完全なのである。

  8. (Latin)

    同じく、それぞれの類に関して、その類において最も完全なものが存在し、その類に属するものすべてはその最も完全なものに即して測られるのである。なぜなら、それぞれのものがより完全とかより不完全であると示されるのは、そのものの類の尺度に近づく程度によってだからである。例えば、すべての色において白が尺度であると言われるし、すべての人間のうちに徳のある人が尺度であると言われるのである。ところが、すべての存在者の尺度であるものは、自己の存在である神以外にはありえない。したがって、何らかの事物に適合するような完全性のどれも神には欠けていないのである。もし欠けているとすれば、神は万物の共通的尺度ではないことになってしまうからである。

  9. (Latin)

    a)だから、モーゼが神の「み顔」あるいは「栄光」を見ようとしたときに、主は彼に「私があなたにすべての善を示そう」と答えたと『出エジプト記』33章19節にあるのであって、これによって神のうちにすべての善性の充満があることを理解させようとなさったのである。

    b)また、ディオニシウスは『神名論』第5章で「神はある特定の仕方で実存するのではなく、自己のうちに存在の全体を端的で限られない仕方で受け取っているし、前もって受け取っている」と言っているのである。

  10. (Latin)

    だが知っておかねばならないことであるが、完全性という名称の意味表示がその起源に注目されるならば、神に完全性を帰することは適当ではあり得ない。むしろ、生成していないものは、完全であるとも言われ得ないと思われるからである。ところが、生成するものはすべて、生成したときに可能態から現実態へと、非存在から存在へと引き出されているのであるから、完全であるということが全体として生成したとして正しく語られるのは、可能態が全体として現実態に引き出されて非存在の何も保持せず十全な存在を有しているときなのである。それゆえ、生成して十全の現実態に達しているものだけでなく、何の生成もなしに十全の現実態にあるものをも完全であると語るのは、名称のある種の意味拡張によってのことなのである。このようにして、われわれは神が完全であると語るのは、『マタイによる福音書』5章48節で「あなたがたは、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」と言わているのような意味においてなのである。





第 29 章

被造物のもつ類似性について

  1. (Latin)

    以上から、諸事物において神への類似性がどのようにして見いだされ得るのか、見いだされ得ないのかを考察することができるようになる。

  2. (Latin)

    というのも、その原因から欠落したところのある結果というものは、名称と概念とにおいて原因と適合しないが、それでも両者の間には何らかの類似性が見いだされることが必然である。なぜなら、それぞれのものは現実態においてある限りにおいて作用するのであるから、作用者は自己に類似したことを作用するということが、作用の本性に属しているからである。だから、結果の形相はそれを越えた原因のうちに何らかの仕方で見いだされるのであるが、両者の様態と概念とは異なっているのであり、この理由のために原因は同名異義的と言われるのである。たとえば、太陽は現実態にある限りで作用をすることで、月下の物体における熱の原因となっている。だから、太陽から生み出された熱は太陽の作用力への何らかの類似を獲得する。その太陽の作用力によって月下の事物における熱が原因され、その理由で太陽は熱いと語られるのであるが、それでも一つの概念で熱いのではないのである。こうして、太陽がそこにおいて自己の結果を有効にもたらすようなすべてのものに対して、太陽はそれらと類似していると語られる。とはいえ、これらの結果が熱や同様の太陽のうちに見いだされるものを所有している様態は太陽とは同じではないという限りでは、それらすべてと太陽とは非類似なのである。この例と同様に、神もすべての完全性を事物に配しており、そのことを通じてすべてのものとの類似性と非類似性とを同時に有しているのである。

  3. (Latin)

    以上のことから、聖書では時には神と被造物との間の類似性に注意が喚起されている。例えば、『創世記』1章26節において、「人間をわれわれの似姿と類似性へ向けて造ろう」と言われている。だが時には、類似性は否定されることもある。例えば、『イザヤ書』40章18節では「あなたがたは神を誰に類似したものとし、どのような似像を造るのか」とあり、『詩篇』では「神よ、だれがいったい貴女に類似しているのでしょう」とあるのである。

  4. (Latin)

    さて、以上の論拠には、『神名論』9章で次のように語るディオニシウスが調和している。すなわち、「同じものどもが神に類似し、かつ類似していない」。そして、類似しているというのは、「完全には模倣可能ではないものを、それらのうちで生じうるかぎりにおいて、模倣していることに即して」であり、また、類似していないというのは、原因よりも「それに原因されたものの有するものはより少ないということに即して」なのである。

  5. (Latin)

    ところで、この類似性に関しては、被造物が神に類似しているとい語る方が、神が被造物に類似していると語るよりも適当である。というのも、或るものに類似しているものとは、その或るものの性質あるいは形相を所有しているもののことである。それゆえ、神のうちに完全な仕方で存在しているものは、他の事物においては何らかの欠陥を持った分有を通して見いだされるのである以上、それは類似が認められることに即する限り、端的には神に属するのであって、被造物に属するのではないのである。このような仕方で被造物は神に属するものを持っているのであり、だからまた神に類似していると語られるのも正当なのである。それに対して、被造物に属するものを神が持っていると言うことは正当ではあり得ない。だから、神が被造物に類似していると語ることも適当ではないのである。人間の似像がその人間に類似していると述べられるのは正当ではあるにしても、われわれは人間がそれの似像に類似しているとは語らないのと同じことなのである。

  6. (Latin)

    ましてや、神が被造物に類似したものとなるなどと固有な意味では語られない。というのも、類似化とは類似性への運動のことであり、それゆえに類似しているものとなるものを他のものから受け取っているものに類似化は適合するからである。ところが、被造物こそが神からそれによって神に類似したものとなるものを受け取るのであって、その逆ではないのである。したがって、神が被造物に似たものとなるのではなく、むしろ逆なのである。





第 30 章

神に述語されうる名称とは何か

  1. (Latin)

    以上のことからさらに、神について語られ得ることあるいは語られ得ないこととは何であるか、また、かみついてのみ語られることは何であり神と他の事物とに同時に語られることは何であるのか、ということを考察することができる。

  2. (Latin)

    a)被造物の持つ完全性はすべて神のうちに見いだされるが、より卓越した別の様態において見いだされる。だから、欠陥なしに絶対的な仕方で完全性を指示する名称はどれでも、神と他の事物とに述語される。たとえば、善性、知恵、存在、他の同様のものである。

    b)それに対して、このような完全性を被造物に固有な様態とともに表現している名称はどれでも、それが神について語られる場合には、類似性と比喩を通してでしかあり得ない。(比喩とは、一つの事物に属することがらが他のものにそれによって適用されるのが常となっているものである。例えば、ある人はその知性の堅さのために石と言われる場合がそうである。)ところで、人間や石といった被造物の種を指示するために制定されている名称はすべてこのようなものである。というのも、どの種であっても、完全性と存在の固有の様態がそれに帰されるからである。また、種に固有の諸原理を原因とするような事物の固有性を指示する名称もどれでも同様である。だから、それらの名称は神については比喩的にしか語られ得ないのである。

    c)さらにまた、このような完全性を神に適合するような極めて卓越した様態において表現する名称は、神についてのみ語られる。例えば、最高善、第一存在者、他の同様のものがそうである。

  3. (Latin)

    さて、私がいくらかの述語となる名称は欠陥のない完全性を含意していると言ったのだが、それはその名称がそれを意味表示するために制定されたものに関してなのである。というのは、表示様態に関しては、すべての名称は欠陥を持つからである。つまり、われわれは事物をわれわれが知性において捉える様態にしたがって名称によって表現している。だが、われわれの知性は認識作用の端緒を感覚から得ているから、可感的事物のうちに見いだされる様態を越え出ることはない。そして、その可感的事物においては形相と質料の複合のために、形相と形相を持つものととは別のものである。ところが、その事物のうちにある形相は確かに単純なものであるが、自存しないものとして不完全であるのに対し、形相を持つものの方は確かに自存するのであるが単純ではなくむしろ具体性を持つものなのである。だから、われわれの知性は自存するものとして意味表示するものをなんでも具体性において意味表示し、単純なものとして意味表示するものを在るものとしてではなく、それによって在るものとして意味表示するのである。この意味で、われわれの語る名称のすべてにおいて、その表示様態に関する限り不完全性が見いだされるのであって、このことは神には適合しない。とはいえ、意味表示された事物の方は何らかの卓越した仕方で神に適合するのである。例えば、善性と善なるものという名称においてこのことは明らかである。というのも、善性はその事物を自存しないものとして意味表示し、善なるものの方は具体的なものとして意味表示するのである。この点に関する限り、神にはどんな名称もふさわしくないのであり、ふさわしいのは名称がそれを意味表示するために制定されている当のものに関してだけなのである。このことゆえに、ディオニシウスが教えているように、このような名称は神に関して肯定もされるし否定もされるのである。実際、それが肯定されるのは名称の概念のためであり、否定されるのは表示様態のためなのである。

  4. (Latin)

    ところで、上述の完全性が神おいて見いだされるのは極めて卓越した様態においてなのであるが、その様態がわれわれの制定している名称によって意味表示されうるのは、否定による(例えば、神は永遠であるとか無限であるとかわれわれが語る場合がそうである)か、あるいは、神と他のものとの関係にもよる(例えば、神が第一原因であるとか最高善であるか語られる場合がそうである)かのいずれかである。というのは、上述のことから明らかなように、われわれは神が何であるかではなく何でないのかということ、そして他のものが神とどのような関係にあるかを捉え得るだけだからである。





第 31 章

神の完全性と神の名称の複数性は神の単純性と矛盾しないこと

  1. (Latin)

    上述のことからさらに、神の完全性と神について語られる複数の名称は神自身の単純性と矛盾しないということを見て取ることができる。

  2. (Latin)

    神以外の諸事物において見いだされるすべての完全性について、それが神に帰属されるのは、結果がその結果の同名異義的原因において見いだされるような仕方においてである、とわれわれは述べておいた。そして、この結果は原因のうちでは潜在力において存在している。例えば、太陽のうちの熱がそうである。だが、このような力が熱の類に属するのはある限定した様態においてでしかないから、その力によって作用している太陽は自分に類似していないものを生み出すのである。それゆえ、この力の故に太陽は熱いと語られるが、それは太陽が熱を生じさせるからだけではなく、こういったことをなす力が何か熱と同形のものだからである。だが、太陽な熱を生じさせるのと同じ力によって、乾燥のような熱以外の多くの結果をも月下の物体において生じさせる。このようにして、熱と乾燥は、火においては異なった性質なのであるが、太陽には両者が一つの力をつうじて帰属させられるのである。これと同じように、神以外の諸事物においては異なった形相に即して適合している万物の諸形相が、神においては神の一つの力に即して帰属していることが必然なのである。そして、この力は神の本質とべつのものではない。既に証明されているように、神には何かが付帯するということはあり得ないからである。それゆえ、神は知者であると語られるが、それは神が知恵を作り出していることに即してだけでなく、われわれ人間が知者であることに即して、われわれを知者にしている神の力をわれわれがある程度まで模倣しているからでもある。とはいえ、神は石を所持させたのであるけれども、神が石であると語られることはない。それは、石という名称においては、それに即して石が神と区別されるような存在の限定されたあり方が理解されているからである。だが、石はその存在、その善性、その他同様のものに即した原因として神を模倣しているのであり、他の被造物も同じなのである。

  3. (Latin)

    さて、これと似たことが人間の認識能力と働く力とにおいて見いだされうる。というのも、感覚的部分が異なった能力によって把握しているすべてのことや他の多くのことも、知性は一つの力によって認識している。また、知性というものはそれがより高次の知性であればあるほど、いっそう多くのものを何らかの一つの力によって認識しうるのであり、下位の知性はその多くのものを認識するに至るには多くのものを経なければならないのである。また、王の権力というものは、王のもとにある様々の権力がそれに命令を出すようなものすべてに及んでいるのである。それゆえ、このようにして神は一つの単純な自分の存在を通じてあらゆる完全性を所有しているのであり、他の事物はその完全性を、というよりそれよりずっと小さい完全性を何らかの異なったものを通じて獲得しているのである。

  4. (Latin)

    a) 以上から、神には複数の名称が与えられという必然性が明らかである。というのも、自然本性的にはわれわれが神を認識できるのは、諸結果から神へと到達することによってだけである以上、神の完全性をそれによって意味表示する名称は様々でなければならないのである。それは、諸事物のうちに見いだされる完全性が様々であることに対応している。

    b)だが、もし仮にわれわれが神の本質それ自体をあるがままに知性認識し、それに固有な名称を与えることができるとしたら、その本質をわれわれはたった一つの名称によって表現することになるであろう。この事態は神をその本質を通じて見ることになる者たちに約束されている。『ザカリア書』末尾で「その日には主は唯一となり、その名は一つとなるであろう」とあるようにである。





第 32 章

神と他の事物とに同名同義的に述語されるものは何もないこと

  1. (Latin)

    さて、以上から神と他の事物に同名同義的に述語されうることは何もないことが明らかである。

  2. (Latin)

    というのは、作用者がそれによって作用している形相をその結果がそれに類似した種に即して受け取らない場合には、その結果は作用者の形相から付けられた名称を、同名同義的述語に即して受け取ることができない。例えば、太陽から生み出された火の熱さと太陽とは同名同義的には語られないのである。ところで、神がその原因となっている諸事物の形相は、神の力の種に到達することはない。なぜなら、神においては単純で普遍的な仕方で見いだされるものを、諸事物は分割し個別的に受け取っているからである。したがって、神と他の事物とについて同名同義的に語られるものは一つもあり得ないのである。

  3. (Latin)

    さらに、もし何らかの結果が原因の種に達するとすれば、結果が種的に同じ形相を同じ存在の様態に即して受け取る場合に限って、名称の述語は同名異義的に帰結することになる。例えば、技術知の中にある家と質料のうちにある家とは同名同義的に語られないが、それは両方の場合に家の形相が持っている存在が類似していないからである。ところで、神以外の諸事物は、たとえ全く類似した形相をもたらすとしても、それを同じ存在の様態においてもたらすわけではない。というのも、先に述べられたことから明らかなように、神においては神の存在そのものでないようなものは何もないが、こんなことは他の事物においては生じないからである。したがって、神と他の事物とについて何かが同名同義的に述語されることは不可能なのである。

  4. (Latin)

    さらに、多くのものに同名同義的に述語されるものはみな、類、種、種差、付帯性、固有性のうちのいずれかである。ところが、既に示されているように、神についてはどんなこともそれを類や種差として述語されることはない。そうだから定義として述語されることもないし、類と種差とから構成される種として述語されることもないのである。また、先に論証されたように、神に何かが付帯することもありえない。だから、神について付帯性として、あるいは固有性として述語されることは何もないのである。(固有性については、それは付帯性の類に含まれるからである。)したがって、神と他の事物について同名同義的に述語されることは何もないのである。

  5. (Latin)

    同じく、多くのものに同名同義的に述語されるものは、少なくとも理解に即しては、それらのどれよりもより単純である。ところが、実在に即しても理解に即しても、何かが神よりも単純であるということはあり得ない。したがって、神と他の事物について同名同義的に述語されることは何もないのである。

  6. (Latin)

    さらには、多くのものに同名同義的に述語されるものはすべて、その述語がそれに述語されているもののそれぞれに、分有に即して適合する。実際、種は類を、個物は種を分有すると語られるからである。ところが、神については何も分有によって語られることはない。分有されるものはすべて分有するものの様態に即して限定を受け、部分的な仕方で得られるのであって、あらゆる完全性の様態に即して得られないからである。したがって、神と他の事物について同名同義的に述語されることは何もないのである。

  7. (Latin)

    さらに、何かに先後関係をともなって述語されるものが同名同義的に述語されないということは確かである。というのは、先なるものは後なるものと定義に含まれるからである。例えば、実体はそれが存在者であることに即して、付帯性の定義のうちに含まれるのである。それゆえ、もし実体と付帯性とについて存在者が同名同義的に語られるのであるとしたら、実体について述語されるかぎりでの存在者の定義の中に実体も措定されるのでなければならないことになるであろう。これが不可能であることは明らかである。ところが、神と他の事物については、同じ秩序で述語されることはなにもないのであって、先後関係をともなって述語されるのである。実際、神についてはすべてのことが本質的に述語されるのであり(というのも、神は本質そのものとしての存在者、善性そものとしての善なるものと語られるからである)、他方他のものどもについての述語は分有によって生じるからである(たとえば、ソクラテスは人間であると言われるが、それはソクラテスが人間性そのものであるからではなく、人間性を持っているものだからである)。したがって、神と他の事物について何かが同名同義的に語られるということは不可能なのである。





第 33 章

神と被造物について語られる名称のすべてが純粋に同名異義的ではないこと

  1. (Latin)

    上述のことからまた、神と他の事物に述語されることがどれでも純粋な同名異義によって語られるのではないことが明らかである。例えば、偶然に同名異義的なことがらがそうである。

  2. (Latin)

    というのも、偶然に同名異義的なことがらにおいては、その一方から他方への秩序あるいは関係は少しも見いだされないのであり、一つの名称が異なった事物に帰されるのはまったくの偶然にすぎないのである。その一方のために制定されている名称が、それが他方への秩序を持っているということを意味表示しないからである。ところが、神と被造物とについて語られる諸名称については、このようにはなっていない。というのは、先に述べられたことから明らかなように、このような諸名称においては共通に原因と原因されたものという秩序が考察されるからである。したがって、神と他の事物とに何かが述語されるのは、純粋な同名異義によってではないのである。

  3. (Latin)

    さらに、純粋な同名異義のあるところには、事物における類似性は何も認められず、ただ名称の一性だけが認められる。ところが、諸事物には神に対して何らかの様態の類似性があることは、前述のことがらから明らかである。したがって、それらが純粋な同名異義によって神について語られるのではないことになるのである。

  4. (Latin)

    同じく、多くのものについて一つのことが純粋な同名異義によって述語される場合には、それの一方から他方のものについての認識をわれわれは導き出すことができない。というのも、事物の認識は名称の音声に出はなく、その概念に依存しているからである。ところが、神以外の事物において見いだされことがらから、われわれは神的なことがらの認識へと至るということは、成就のことから明らかである。したがって、このようなことがらが神と他の事物とに純粋な同名異義によって語られるのではないのである。

  5. (Latin)

    さらに、名称の同名異義によって議論の進行は妨げられる。それゆえ、もし神と被造物とについては純粋に同名異義的にしか何も語られないとすれば、被造物から神へと進む議論といったものは何も生じ得ないことになるであろう。だが、この反対のことが神につい語っているすべての人々によって明らかである。

  6. (Latin)

    さらに、あるものに何らかの名称が述語されている場合に、その名称を通じてそのものに関して何らかのことをわれわれが知性認識するのでなければ、述語することは無駄なことである。ところが、もし神と被造物について、諸名称がまったく同名異義的に語られるのであるとすると、その名称を通じてわれわれは神について何も知性認識していないことになる。というのも、それら神の諸名称の意味がわれわれに知られるのは、その名称が被造物について語られることに即してだけだからである。したがって、神についてそれが存在者である、善である、あるいは他の同様なことが語られるあるいは証明されるということは、無駄なことになってしまうであろう。

  7. (Latin)

    だが、このような名称を通じてわれわれは神について何でないのかだけを認識するのである(例えば、神が生きていると語られるのは、神が魂を持たないものの類に属さないからであるし、他の点でも同様である)と反論されるとしても、少なくとも神と被造物とについて語られる生きているという名称は、魂を持たないものの否定という点では一致ししているのでなければならないであろう。この意味で、それは純粋に同名異義的なものではないのである。





第 34 章

神と被造物とについて語られることがらは類比的に語られること

  1. (Latin)

    したがって、上記のことからすると、神と他の事物について語られることがらは同名同義的にも同名異義的にも述語されるのではなく、類比的に述語されるということになる。つまり、何か一つのものへの秩序あるいは関係にしたがって述語されるということである。だが、このことには二つのあり方がある。

    a)第一のあり方は、多くのものが何か一つのものへの関係を有することによってである。たとえば、健康という一つのことへの関係によって、健康の主体としての動物が健康であると語られたり、健康をもたらすものとしての薬が健康であると語られたり、健康を保持するものとしての食物が健康であると語られたり、健康の徴としての尿が健康であると語られたりするのである。

    b)もう一つのあり方は、二つのものの間に何かそれ以外のものへの秩序あるいは関係が見いだされるのではなく、その二つのうちの一方への秩序あるいは関係が見いだされることによってである。たとえば、存在者が実体と付帯性とについて語られるのは、付帯性が実体への関係を有することによってであって、実体と付帯性が何か第三のものに関係づけられることによってではないのである。

    それゆえ、神と他の事物とについて語られるような名称は、第一の仕方で類比的に語られるのではない。というのは、何かを措定する場合には神に先に措定しなければならないからである。だから、第二の仕方で類比的に語られるのである。

  2. (Latin)

    さて、このような類比的述語づけにおいては、名称と事物のおいて同じ秩序が見いだされる場合もあるし、同じ秩序が見いだされない場合もある。というのは、名称の秩序は認識の秩序に従うからである。なぜなら、名称は可知的概念の記号だからである。

    a) それゆえ、事物において先なるものが認識においても先であることが見いだされる時には、同じものが名称の概念においても事物の本性においても先であることが見いだされる。たとえば、実体は付帯性よりも先であるが、それが本性において先なのは実体が付帯性の原因だからであり、認識において先なのは付帯性の定義のうちに実体が措定されるからである。それゆえ、存在者ということは付帯性よりも実体について先に語られるのであるが、それは事物の本性と名称の概念の両方においてなのである。

    b) それに対して、本性においては先であるものが認識においては後である時には、類比的なもどもにおいて事物と名称の概念とにおいて同じ秩序が見いだされることはない。例えば、健康にするもののうちにある健康にする力は、原因として動物のうちにある結果である健康よりも本性において先であるが、この力をわれわれは結果を通じて認識しているので、名称を与えるのもこの結果からなのである。以上から、健康にするものの方が事物の秩序においては先であるが、名称の概念によれば動物の方がより先に健康であると語られるのである。

    c) それゆえ、われわれは他の事物から神の認識へと達するのであるから、神と他の事物とについて語られる名称のさす事物は神において、神の様態に応じて、先にあるが、名称の概念の方はより後なのである。それゆえ、神は神の結果から名付けられるとも言われるのである。





第 35 章

神について語られる多くの名称は同名同義ではないこと

  1. (Latin)

    さらに、上述のことから示されることは、神について語られて諸名称は同じ事物を意味表示するのではあるけれども、それらが同名同義ではないということである。というのは、それらの名称は同じ概念を意味表示しないからである。

  2. (Latin)

    というのも、神という一つの単純な事物へと、様々に異なった事物が様々に異なった形相を通じて似たものとされている。それと同じように、われわれの知性は様々に異なった概念を通じて神に似たものとされるのであるが、それは様々に異なった被造物についての概念を通じて神を認識することへと導かれる限りにおいてである。それゆえ、われわれの知性は一つのものについて多くのことを捉えているのであるが、それが偽であるわけでも空しいわけでもない。なぜなら、先に示されているように、この単純な神の存在とは何らかのことが多なる形相にしたがってそれに似たものとされるようなものだからである。ところで、知性は様々に異なった概念に即して様々に異なった名称を見いだしゆき、それを神に帰属させるのである。このようにして、それらの名称は同じ概念に即して帰属させられているわけではないので、まったく一つの事物を意味表示しているのではあるにしても、それらの名称が同名同義ではないことは確かなのである。実際、名称の意味は同じではないのであり、それは名称というものは知性認識された事物を意味表示するよりも先に知性のもつ概念を意味表示するものだからである。





第 36 章

神に関する命題をわれわれの知性はどのようにして形成するのか

  1. (Latin)

    以上のことからさらには、われわれの知性が単純な神に関して命題を複合・分割しながら形成するのであるが、神はまったく単純であるにしてもこのことが無駄になっているわけではないということが明らかである。

  2. (Latin)

    というのは、上述のように、われわれの知性は様々に異なった概念を通じて神の認識へと達するのであるけれども、それらすべての概念に対応しているものがまったくもって一であることも知性認識している。というのは、知性は自身が知性認識している様態を知性認識されている事物に帰属させるのではないからである。たとえば、知性は石を非質料的な様態で認識しているけれども、石に非質料性を帰属させてはいないのである。それゆえ、知性は事物の一性を言語上の複合を通して提示しているのであって、「神は善あるいは善性である」と語るときにその複合が同一性を示すものなのである。こうして、何か異他性が複合のうちにあるとしたら、それは知性の側に関係づけられ、一性は知性認識された事物の方に関係づけられるのである。そして、この理由からわれわれの知性は時には、神についての命題を異他性を示すものとともに形成するのであり、それは「善性が神においてある」と言われる場合のように前置詞を挟むことによるのである。というのは、この場合でも知性に亭号する何らかの異他性と、事物に関係づけられるべき何らかの一性とが指示されているからである。





第 37 章

神は善であること

  1. (Latin)

    さて、われわれの示した神の完全性から、神の善性が結論され得る。

  2. (Latin)

    というのは、それぞれのものがそれによって善と言われるものとはそのもの固有の力である。「力とはそれぞれのものを善にし、その業を善へともたらすもの」だからである。ところで、『自然学』第7巻において明らかなように、力とは「何らかの完全性である。というのは、それぞれのものをわれわれが善であると語るのはそれが固有の力に達しているときだから」である。したがって、それぞれのものが善であるのはそれが完全であることによるのである。だからこそ、それぞれのものは自己の完全性を固有の善として欲求するのである。ところで、神が完全であるということが示されている。したがって、神は善である。

  3. (Latin)

    同じく、先に示されているように、何か第一の不動の動者が存在し、それが神なのである。ところで、それはまったく動かされずに動かすものとして動かしている。これは欲求されるものとして動かすということである。それゆえ、神は第一の不動の動者であるから、第一に欲求されるものである。ところが、何かが欲求されるのには二つの様態がある。すなわち、それが善であるからであるか、あるいは、善であると見えるからであるかのいずれかである。そして、前者の場合にそれは善なのである。というのは、善と見えるものが動かすのはそれ自体によってではなく、それが何らかの善の形象を持っているからだからである。だが、善はそれ自体によって動かすのである。したがって、第一に欲求されるものである神は、真の意味で善なのである。

  4. (Latin)

    さらに、哲学者が『倫理学』第1巻でその最も適切な表現として導入しているように、「善とは万物が欲するものである」。ところで、万物はそれの様態に応じて現実態において存在することを欲している。これは、それぞれのものがその本性によって消滅することに抵抗していることから明らかである。それゆえ、現実態において存在することが善の概念を構成している。だからまた、現実態の欠如を通じて、善に対立物である悪は可能態から帰結するのである。このことは哲学者の『形而上学』第9巻から明らかである。ところが、神が現実態にある存在者であって、可能態にないことはさきに示されている。したがって、神は真の意味で善なのである。

  5. (Latin)

    さらに、存在と善性を伝達するということは善性から来ることである。そしてこのことは、善なるものの本性そのものと、その概念との両方から明らかである。実際まず、本性上、それぞれのものの善とは現実態でありその完全性である。ところが、それぞれのものが作用を行うのはそれが現実態にあることによってである。ところで、作用を行うことでそれぞれのものは存在と善性とを他のものに流布させる。だからまた、哲学者の『気象学』で明らかなように、類似したものを産出し得るということが何らかの完全性の徴なのである。それに対して、善なるものの概念の方では、欲求され得るものであるということに由来している。そして、この欲求され得るものとは目的であり、それはまた作用者を作用するように動かしているものである。以上のことのために善は自己と存在を流布させるものであると言われるのである。ところが、この流布ということは神に適合している。というのも、先に示されているように、神はそれ自体で必然的に存在する存在者として、他のものにとっての存在の原因だからである。したがって、神は真の意味で善である。

  6. (Latin)

    だからこそ『詩篇』73篇1節では「神はイスラエルの心の正しい人々にとって、なんと善であるのか」と語られているし、『哀歌』3章25節では「主は彼を乞い求める者たちに、彼を尋ね求める魂にとって善である」と語られているのである。





第 38 章

神は善性そのものであること

  1. (Latin)

    以上から、神が自己の善性そのものであるということが得られる。

  2. (Latin)

    というのも、それぞれのものにおいて現実態に存在することがそのものの善である。ところが、神は現実態にある存在者であるだけではなく、自己の存在そのものであることが先に示されている。したがって、神は単に善であるだけではなく、自身の善性そのものなのである。

  3. (Latin)

    さらに、それぞれのものの完全性がそれの善性であることが示されている。ところで、神の存在の完全性はそれに付加された何かにもとづいて気づかれるのではなく、神の存在がそれ自体で完全だからであることも先に示されている。したがって、神の善性は神の実体に付加された何かではなく、その実体がそれの善性なのである。

  4. (Latin)

    同じく、それぞれの善は、それが自己の善性でない善であるなら、それが善であると語られるのは分有的にである。ところが、分有を通じて語られることはそれに先立つ何かを前提し、その先立つものから善性の特質を受け取っているのである。ところが、この系列は無限に背進することは不可能である。なぜなら、目的因の系列において無限に進むということはなく、それは無限なるものは目的と矛盾するからである。ところが、善は目的の特質を持っている。それゆえ、何か第一の善に至るのでなければならない。そして、それは何か他のものへの秩序を通じて分有的に善であるのではなく、自己の本質によって善であることになるのである。だが、このようなものとは神である。したがって、神は自身の善性なのである。

  5. (Latin)

    おなじく、存在するものは何かを分有することができるが、存在そのものは何も分有できない。というのも、分有するものとは可能態においてあるものであるが、存在は現実態だからである。ところが、神が存在そのものであることは証明されている。したがって、神は分有的に善なのではなく、本質的に善なのである。

  6. (Latin)

    さらに、単純なものはすべて自己の存在とそれがそれであるものとを一つのものとして有している。なぜなら、もし両者が別であるとすると、すでにそれの単純性が除去されていることになるからである。ところで、神はまったく単純であることがすでに示されている。それゆえ、神の善であることは神自身とはべつではないのである。したがって、神は自己の善性である。

  7. (Latin)

    同じ根拠によって、神以外のどんな善も神自身の善性ではないことが明らかである。このこと故に、『マタイ福音書』19章17節で「ただ神以外は誰も善ではない」と言われているのである。





第 39 章

悪は神のうちにはあり得ないこと

  1. (Latin)

    さて、以上から神のうちには悪はあり得ないことが明らかである。

  2. (Latin)

    というのも、存在や善性やすべての本質的に語られることがらは、自己自身の外に混じり合っているものを何も持っていない。それに対して、善であるものは存在は善性の外に何か持つことがある。というのも、或る完全性の基体となっているものが他の完全性の基体となっても何の支障もないからである。例えば、物体であるものが白いものであったり、甘いものであったりできるのである。それに対して、それぞれの本性はそれの概念の限界のうちに閉じられており、それの内部に外在的なものを何も含むことができないのである。ところで、神は善であるだけではなく善性であることは既に示されている。したがって、神のうちに何か善性でないものが存在することは不可能なのである。こうして、神のうちには悪はまったく存在し得ない。

  3. (Latin)

    さらに、何らかの事物がそのまま変わらない間は、その事物に対立するものはその事物と完全に適合することはできない。例えば、人間が人間であることをやめない限りは、非理性性や非感覚性が人間に適合することはあり得ないのである。とkろが、神の本質は善性そのものであることが示されている。それゆえ、善に対立する悪が神において居場所はあり得ないのである。ただし、神が神でなくなるとすれば別であるが、示されたように、神は永遠である以上そんなことは不可能なのである。

  4. (Latin)

    さらに、神は自身の存在であるから、先に出された根拠から明らかなように、神について分有的に語られ得ることは何もない。それゆえ、もし神について悪ということが語られるとすれば、分有的にではなく本質的に語られることになるであろう。ところが、悪はどんなものについても、何らかのものの本質であるというようには語られ得ない。というのも、その何らかのものにとって存在が欠けていることになるのであるが、既に示されているように、その存在は善だからである。ところで、悪性のうちには、善性においてと同様に、何か外的な混じり合ったものがあるということは不可能である。したがって、神について悪は語られ得ないのである。

  5. (Latin)

    同じく、悪は善と対立している。ところが、善の特質は完全性において成立する。それゆえ、悪の特質は不完全性において成立する。ところがで、欠陥あるいは不完全性というものが、普遍的に完全である神においてはあり得ないことは、先に示された。したがって、神において悪はあり得ないのである。

  6. (Latin)

    さらに、何かが完全であるのは、それが現実態においてあることに応じてである。それゆえ、それが不完全であるのは、現実態から欠落していることに応じてである。それゆえ、悪あるいは欠如は、すくなくとも欠如を含んでいる。ところで、欠如の主体は可能態である。だが、可能態は神においてはあり得ない。それゆえ、悪も神においてはあり得ない。

  7. (Latin)

    さらに、もし善が万物によって欲求されるものであるとするなら、それぞれの本性は悪を悪である限りにおいて忌避する。ところで、何らかのものの自然本性的欲求の運動に反してそのものに内在しているものは、強制されたものであり、自然本性の外にあるものである。それゆえ、それぞれにものにおいて悪とは、そのものにとって悪である限りでは、強制されたものであり自然本性の外にあるものである(ただ、複合的事物においては、その事物のある点に則せばそれにとって自然本性的であることは可能である)。ところで、神は複合したものではなく、また神のうちに何か強制されたことや自然本性の外にあることが存在し得ないことは先に示されている。したがって、神のうちに悪は存在し得ないのである。

  8. (Latin)

    聖書もこのことを確証している。実際、『ヨハネ第一書簡』では「神は光であり、神のうちに何の闇もない」と言われており、また、『ヨブ記』34章10節では「不信仰は神から去り、万能なる者からは不正は去る」とある。





第 40 章

神はすべての善にとっての善であること

  1. (Latin)

    また、前述のことから神がすべての善にとっての善であることが示される。

  2. (Latin)

    というのも、それぞれのものにとって善性はそれの完全性であることがすでに述べられた。ところが、神は端的に完全であるために、自己の完全性において諸事物のすべての完全性を包含しているということもすでに示されている。したがって、神の善性はすべての善性を包含している。このような意味で神はすべての善にとっての善なのである。

  3. (Latin)

    同じく、分有によってあるあり方をしていると語られるものについて、それがそのようなあり方をしていると語られるのは、本質によってそのあり方をしていると語られるものの何らかの類似性を持つ限りのことである。たとえば、鉄が火的であると語られるのは、それが火の何らかの類似性を分有している限りのことなのである。ところが、神は本質によって善であり、他のすべてのものは分有によって善であるということは既に示されている。それゆえ、どんなものも、神の善性の何らかの類似性を持っているのでないならば、善であると語られないのである。したがって、神自身がすべての善にとっての善なのである。

  4. (Latin)

    さらには、それぞれのものが欲求され得るものであるのは目的のためである。ところで、欲求され得るものであるという点に善の特質がある。それゆえ、それぞれのものが善であると語られるのは、それが目的であるか、あるいは目的へと秩序づけられているかのいずれかである。それゆえ、万物が善の特質をそれから得ているものが究極目的である。ところが、この究極目的とは神であることは、以下で証明されるであろう。したがって、神はすべての善にとっての善なのである。

  5. (Latin)

    このことから、『出エジプト記』33章19節で、主はモーセに自分の直視を約束しながら、「私があなたにすべての善を示そう」と語っているのである。また、『知恵の書』8章では、神の知恵について「知恵といっしょに、すべての善がわたくしを訪れた」と語られているのである。





第 41 章

神は最高善であること

  1. (Latin)

    さて、このことから神が最高善であることが示される。

  2. (Latin)

    というのは、普遍的善は個別的な善のそれぞれに益となる。例えば、種族にとっての善は一人一人の人の善よりもより善いようにである。というのは、全体の善性と完全性がそれの部分の善性と完全性に益となるからである。ところで、神の善性と他のすべてのものとの関係は、普遍的善と個別的善の関係である。神がすべての善にとっての善であることが示されているからである。したがって、神自身が最高善なのである。

  3. (Latin)

    さらに、本質によってそうであると語られる者は分有によって語られるものよりもより真なる意味でそうであると語られる。ところで、神は自身の本質によって善であり、他のものは分有によって善であるということが既に示されている。したがって、神自身が最高善なのである。

  4. (Latin)

    同じく、それぞれの類において最高度にそうであるものは、その類のうちにある他のものの原因である。原因は結果よりもより力あるものだからである。ところで、万物が善の特質を神から得ていることが既に示されている。したがって、神自身が最高善なのである。

  5. (Latin)

    さらに、黒と混じり合っている程度が少ないものほどより白いように、悪と混じり合っている程度が少ないものほどより善いのである。ところが、神は悪と混じり合っている程度が最も低い。なぜなら、現実態においても可能態においても悪は神のうちに存在し得ず、このことが神にはその本性から適合することがすでに示されているからである。したがって、神自身が最高善なのである。

  6. (Latin)

    それゆえ、『サムエル記上』2章2節で「主のように聖なるものはない」と言われているのである。





第 42 章

神は一つであること

  1. (Latin)

    さて、このことが示されると、神は一つでしかないことが示される。

  2. (Latin)

    というのは、最高度に善なるものが二つあることは不可能だからである。というのは、横溢によって語られるものはただ一つのものにしか見いだされないからである。ところで、神が最高善であることがすでに示されている。したがって、神は一つなのである。

  3. (Latin)

    さらに、神が最も完全であり、神には何の完全性も欠けていないことがすでに示されている。それゆえ、もし複数の神々が存在するとしたら、このように完全なものが複数存在するのでなければならない。だが、これは不可能である。というのは、もしそれら複数のもののどれにもどんな完全性も欠けておらず、またそれに何の不完全性も混じり合っていないとすると(あるものが端的に完全であるためにはこのことが必要であるのだが)、それら複数のものにはそれによって相互に区別されるものがなくなってしまうであろう。それゆえ、複数の神々を措定することは不可能なのである。

  4. (Latin)

    同じく、一つのものが措定されるだけで生じるの十分なことがらについては、それが多くのことを通じて生じるよりも一つのものを通じて生じる方がより善い。ところが、諸事物の秩序というものは、より善いものであり得るものとして存在している。というのは、第一作用者の能力は、諸事物のうちにある完全性のための能力を欠いているものではないからである。ところで、万物は一つの原理へと還元することで、十分な仕方で包括されている。したがって、複数の原理を措定する必要はないのである。

  5. (Latin)

    さらに、一つの連続的で規則的な運動が複数の動者によることは不可能である。というのは、もし複数の動者が同時に動かしているとしたら、それらのどれも完全な動者なのではなく、それらのすべてが[全体として]完全な一つの動者の代わりをしていることになるからである。だが、このことが第一動者には適合しないのであって、それは完全なものは不完全なものよりも先なるものだからである。それに対し、複数の動者が同時に動かしているのではないとしたら、それらのどれもが時には動かし、時には動かしていないことになるが、このことからは運動が連続的でも規則的でもないということが帰結することになる。というのも、連続的で一つの運動は一つの動者に由来するものであり、また常に動かしていないような動者は不規則的にうごかしているということが認められるからである(たとえば、月下の動者において明らかである。その動者においては、最初に強制された運動が意図され、最後にはそれが除去されるのであるが、自然本性的運動はその逆なのである)。ところが、第一の運動は一つであり連続的であることが、哲学者たちによって証明されている。したがって、その第一の運動の第一の動者は一つでなければならないのである。

  6. (Latin)

    さらに、物体的実体は霊的実体を自己の目的として秩序づけられている。というのは、物体的実体は霊的実体に類似したものとなることを意図しているのであって、その霊的実体において善性はより明らかだからである。なぜなら、存在するものはすべて可能な限り最善のものを欲求するからである。ところで、物体適否贓物の運動のすべては一つの第一の運動に還元されるのがみとめられ、その他にはその運動に決して還元されないような別の第一の運動は存在しない。それゆえ、第一の運動の目的である霊的実体の他には、それに還元されないような別の実体は存在しない。ところが、これをわれわれは神という名称で理解しているのである。したがって、一つの神しか存在しないのである。

  7. (Latin)

    さらには、相互に秩序づけられているさまざまなものすべてについて、それら相互の間の秩序は何か一つのものへの秩序のためにある。例えば、軍隊の諸部分相互の秩序は軍隊全体の指揮官への秩序のためにあるのである。さて、様々に異なっているものどもが何らかの関係において一つになっているとしたら、それはそれらが異なっている限りにおけるそれら固有の本性にもとづくことはできない。それによればむしろ異なったものどもは切り離されるからである。また、秩序づけるものが様々であることもできない。なぜなら、その異なった秩序づけるものどもが、異なっている限りにおいて自己自身から一つの秩序を意図することはできないからである。そうしてみると、多くのものども相互の秩序は、偶然によるか、あるいは何か一つの第一に秩序づけているものへと還元され、それが他のすべてが意図している目的へと秩序づけているのでなければならない。ところで、この世界の諸部分のすべては、或るものが他のものによって助けられている限りにおいて、相互に秩序づけられているのがみとめられる。例えば月下の物体は上位の物体によって動かされ、その上位の物体は非物体的実体によって助けられているのであって、そのことは先に述べられたことから明らかである。だが、この世界の秩序が偶然によるのでもない。それは常にある、あるいは大部分においてあるからである。それゆえ、この世界全体は秩序づけるものと支配するものを一つだけしか持っていないのである。だが、この世界の外に別の世界はない。したがって、万物の支配者は一つしかないのであって、これをわれわれは神と呼んでいるのである。

  8. (Latin)

    さらに、その両方が存在することが必然であるような二つのものがあるとすると、存在の必然性の意図において両者は一致するのでなければならない。それゆえ、それらが区別されるのはその一方だけに、あるいは両方に付加されている何かによってでなければならない。そうしてみると、他方があるいは両方が複合したものでなければならないことになる。だが、複合したもののどれもそれ自体によって存在することが必然であるものではないことは、先に示されている。それゆえ、それのいずれもが存在することが必然であるような複数のものが存在することは不可能である。だから、複数の神々が存在することも不可能である。

  9. (Latin)

    さらに、その二つのものが存在することの必然性において一致していると措定されているのであるから、それらがその点で相違しているものというのは、何らかの仕方でその存在することの必然性の補完のために必要とされているのか、あるいはそうでないのかのいずれかである。そして、もしそれが必要とされていないのであるが、その場合にはその異なっている点は何か付帯的なものである。というのは、事物に到来しておりながらその事物の存在に対して何もしないものはすべて付帯性だからである。それゆえ、この付帯性は原因を持っていることになる。

    a)そうすると、その原因は存在することが必然的であるものの本質であるか、あるいは何か他のものであるかのいずれかである。もしそれの本質であるとするなら、上記のことから明らかなように、存在することの必然性そのものがそれの本質であるから、存在することの必然性が二つの両方に見いだされることになる。それゆえ、両方がその付帯性を持つことになるであろう。そうだとすると、その付帯性にもとづいて両者が区別されないことになるのである。

    b)それに対して、もしその付帯性の原因が本質以外の何か他のものである場合には、その他のものが存在しないならば、この付帯性も存在しないであろう。そして、もしこの付帯性が存在しないのであれば、前述の区別も存在しないことになる。それゆえ、その他のものが存在するのでないならば、存在することが必然であると措定されていた二つのものは、二つではなくて一つであることになるであろう。それゆえ、それら両者に固有の存在は他のものに依存していることになる。そうだとすると、そのどちらも存在することがそれ自体によって必然であるようなものではないことになるのである。

    c)さて、その点で両者が区別されるものが存在の必然性を補完するのに必要なものである場合には、存在の必然性の概念のうちにその区別される点が含まれているからであるか(動物の定義のうちに魂を持つものということが含まれているのと同様に)、あるいは存在することの必然性がその点によって特種化される(理性的ということによって動物が充足されるのと同様に)からであるかのいずれかである。

    d)もし第一の場合であれば、存在の必然性のあるところではどこにでも、その概念のうちに含まれているものがなければならない。例えば、動物ということが適合するもののどれにも、魂を持つものということが適合するのである。こうして、存在の必然性は前述の両方に帰されているのであるから、それにしたがって区別され得ないことになるのである。

    e)それに対して第二の場合であっても、やはりこれもあり得ないのである。というのは、類を特種化する種差は類の概念を充足させることはなく、類にとっての現実態における存在がその種差によって獲得されるのである。例えば、理性的という種差が付加されるより前に動物の概念は充足しているのであるが、動物は理性的であるか非理性的であるかのいずれかでなければ現実態において存在し得ないのである。それゆえ、存在の必然性を何かが充足するというのは、現実態における存在に関してであって、存在の必然性の概念に関してではないのである。

    f)だが、このことは二つの点で不可能である。第一には、存在することが必然であるものの何性それ自体がそれの存在であることが先に証明されているからである。第二には、このような存在することが必然であるものが何か他のものを通じて存在を獲得することになってしまうのであるが、それは不可能だからである。

    g)以上から、それどれもが存在することがそれ自体によって必然であるような複数のものを措定することは、可能ではないのである。

  10. (Latin)

    さらに、もし二つの神がが存在するとすると、この「神」という名称はその両者について同名同義的に述語されているか、あるいは同名異義的に述語されているかのいずれかである。

    a)もし同名異義的であるとすると、現在の論述の意図からははずれていることになる。というのも、どのような事物についても、それがどのような名称で同名異義的に名付けられるとしても、語る者の慣用が許すならば、何の問題もないからである。

    b)それに対して、もし同名同義的に語られているのだとすると、二つの神の両方について一つの概念にもとづいて述語されていることになる。そうすると、その両方において概念上一つの本性があるのでなければならない。それゆえ、この本性は両者において一つの存在に即してあるのか、あるいは両方が別々の存在に即してあるのかのいずれかであることになる。もし一つの存在に即しているのであれば、二つのものが存在するのではなくただ一つのものが存在することにあるであろう。というのも、二つのものが実体的に区別されているのであれば、それらに一つの存在が属することはないからである。それに対して、両者において別々の存在に即しているのであるとすれば、そのどちらにとっても自己の何性が自己の存在ではないことになるであろう。ところが、神においてはそうでなければならないことは既に証明されている。それゆえ、その二つのもののどちらもわれわれが「神」という名称によって理解しているものではないのである。したがって、二つの神を措定することは不可能なのである。

  11. (Latin)

    a)さらには、この指示対象に対して、それがこの指示対象である限りにおいて適合することのどれも、他のことに適合することは可能ではない。なぜなら、何らかの事物の個別性はこの個別的なものの外の他のものには属さないからである。[小前提]ところが、存在することが必然であるものにとって、それの存在することの必然性はそれがこの指示対象である限りにおいて適合する。それゆえ、それが何か他のものに適合することは不可能である。この意味で、そのいずれものが存在することが必然であるような複数のものが存在することは不可能なのである。したがって、複数の神々が存在することは不可能である。

    b)小前提の証明。もし存在することが必然的であるものが、そのようなものである限りにおいてこの指示対象ではないとしたら、それの存在の指示はそれ自体に即して必然的ではなく、他のものに依存するのでなければならない。ところが、それぞれのものは現実態にある限りにおいて他のすべてのものから区別されているのであって、このことがこの指示対象であるということなのである。それゆえ、存在することが必然的であるものは、それが現実態において存在するということに関して、他のものに依存することになる。とkろおが、これは存在することが必然的であるものの概念に反している。したがって、存在することが必然的であるものは、この指示対象であることに即して、存在することが必然的なのである。

  12. (Latin)

    さらに、「神」というこの名称によって意味表示されている本性は、この神においてそれ自体によって個体化されているか、あるいは何か他のものによって個体化されているかのいずれかである。もし他のものによるのであれば、そこには複合があるのでなければならない。また、もしそれ自体によって個体化されているのであれば、他のものに適合することは不可能であるが、それは個体化の原理であるものは複数のものに共通であることはできないからである。したがって、複数の神々が存在することは不可能である。

  13. (Latin)

    さらに、もし複数の神々が存在するのであれば、神性という本性はそれらにおいて数的に一ではない。それゆえ、この神とあの神とで神的本性を区別している何かが存在するのでなければならないが、これは不可能である。なぜなら、先に示されているように、神的本性は付加を受け入れることもないし、本質的差異や付帯的差異を受け入れることもないからである。また、神的本性は何らかの質料の形相として、質料の分割に即して分割されるようなものでもない。したがって、複数の神々が存在することは不可能である。

  14. (Latin)

    同じく、それぞれの事物に固有の存在はただ一つである。ところが、神はそれ自身が自己の存在であることが先に示されている。したがって、一つの神しか存在し得ないのである。

  15. (Latin)

    さらに、事物が存在を有する様態はそれが一性を所有する様態に即している。それゆえ、それぞれのものは可能な限りにおいて自分が分割されることに抵抗し、そうすることで非存在へ向かわないようなっているのである。ところが、神的本性は存在を最も強力な仕方で有しているものである。それゆえ、その本性には最高度の一性がある。したがって、いかなる意味においても複数のものへと区分されることはないのである。

  16. (Latin)

    さらに、われわれはそれぞれの類においてその多数性が何らかの一性から出て来ていることが分かる。だからこそ、どのような類においても第一のものが一つあり、それがその類において見いだされるすべてのものの尺度なのである。それゆえ、ある一つの類において一致が見いだされることがらは、何か一つの原理に依存しているのでなければならない。ところが、万物は存在の点で一致している。それゆえ、すべての事物の原理であるただ一つのものが存在しなければならないのであり、これが神である。

  17. (Latin)

    同じく、どのような政体においても支配をする者は一性を欲求している。だから、諸政体のうちで最も強力なのは君主制あるいは王政なのである。さらには、多くの四肢からなるものには一つの頭があるのであって、この明証的な徴によって、首座というものが適合するものに一性が帰されるのだということが明らかなのである。それゆえ、すべてのものの原因である神も端的に一であると告白しなければならないのである。

  18. (Latin)

    さて、神の一性へのこの告白を聖なる言葉からもわれわれは得ることができる。実際、『申命記』6章4節では「イスラエルよ、私は聞いた。あなたの主なる神は一つの神である」とあり、『出エジプト記』20章3節では「あなたにとって私の他に別の神々は存在しない」とあり、さらに『エフェソ人への手紙』4章5節では「主は一人、信仰は一つ」などとあるのである。

  19. (Latin)

    さて、この真理によって複数の神々を告白している異教徒たちは撃退されることになる。

    a)もっとも、彼らの多くが最高の神は一つであると言っており、また彼らが神々と名付けていた他の多くのものがその最高の神を原因として存在するということを肯定していた。そうして、すべての永続的な実体に神性の名称を付与し、それもとりわけ知恵と幸福と諸事物の支配の観点で付与していたのである。

    b)そして実際、聖書においてもこの語り方の習慣が見いだされるのであって、聖なる天使たち、あるいあ人間や裁判官でさえも「神々」と名付けられているのである。たとえば、「主よ、神々のうちには」あなたに「似ているものはありません」という『詩篇』85篇8節のことばや、別の箇所の「あなたがたは神々になるであろうと、私は言った」という言葉がある。さらに同様の多くの言葉が聖書の様々の箇所に見いだされるのである。

  20. (Latin)

    それゆえ、上記の真理にいっそう対立しているのはマニ教徒であると思われる。一方が他方の原因ではないような二つの第一原理を彼らは措定しているからである。

  21. (Latin)

    さらにアリウス派も自分たちの誤謬にこの真理を矛盾させている。つまり、彼らは御父と御子とは一つではなく二つの神々であると告白しているが、他方で彼らは御子が聖書の権威によって真なる神であると信じるように強いられてもいるのである。





第 43 章

神は無限であること

  1. (Latin)

    さて、哲学者たちが言い伝えてきているように、無限なものは量に従うのであるから、多数性という観点で無限性を神に帰することはできない。神はただ一つであるということや神において諸部分の複合や付帯性との複合といったものはなにもないことがすでに示されているからである。さらに、連続量に即しても神は無限であるとは言い得ない。神が非物体的であることがすでに示されているからである。したがって、霊的大きさに即して無限であることが神に適合するのかどうかを探究することが残されていることになるのである。

  2. (Latin)

    さて、この霊的大きさということは二つのものに即して見いだされる。すなわち、一つは能力に関してであり、もう一つは固有の本性の善性すなわち充足性に関してである。たとえば、あるものがより白いとかより白くないとか語られるのは、そのうちにある白さが充足される様態に応じてなのである。また、力の大きさも作用あるいは作られたものの大きさによって測られる。ところが、これら二つの大きさについて、その後者は前者に随伴している。というのも、何かが作用をなし得るものとなるのは、それが現実態において存在すること自体によるのであって、だから、それの力の大きさの様態というものはその現実態における充足の様態にしたがっているのである。こうしてみると、霊的事物の大きさは、それの充足の様態に応じて語られるということになるのである。実際、アウグスティヌスも「物体的量において大きいのではないものどもにおいては、より大きいということとより善いということとは同じである」と述べているのである。

  3. (Latin)

    それゆえ、大きさのこの様態に即して神が無限であることが示されなければならないことになる。

    a)だが、次元的量や数的量においては無限は欠如として理解されるのであるが、神の場合にはそうではない。というのは、このような量は本性的に終わりを持っており、本性的に持っているものを減じることによって、無限であると語られるのであって、このためにそのような量において無限は不完全性を指し示すからである。

    b)そうではなくて、神において無限は否定的にのみ理解される。というのは、神の完全性には何の終局あるいは終わりはないのであって、神は最高の意味で完全だからである。だから、このようにして神に無限が帰属させられるべきなのである。

  4. (Latin)

    というのも、自己の本性によって有限であるものはすべて、何らかの類の特質へと限定される。ところが、神がいかなる類のうちにもなく、その完全性がすべての類の完全性を含んでいることが先に示されている。したがって、神は無限である。

  5. (Latin)

    さらには、すべての現実態は、それが他のものに内属している場合には、それに内属しているものから限界性を受け取ることになる。なぜなら、他のもののうちにあるものはその他のもののうちに受け取るものの様態に応じて存在するからである。それゆえ、現実態がいかなるものうちにも実存しているのでない場合には、いかなるものによっても限界づけられることはないのである。たとえば、仮に白さがそれ自体で実存するとすると、そのうちにある白さの完全性は限界づけられておらず、白さの完全性に関わって所有され得るものを何でも所有することになるであろう。ところで、神がいかなる様態においても他のもののうちに実存する現実態ではない。なぜなら、神が質料のうちにある形相ではないことが証明されているし、神は自身が自己の存在であるがゆえに、神の存在がどんな形相あるいは本性に内属することがないこともさきに示されているからである。したがって、神は無限であるということになるのである。

  6. (Latin)

    さらに、諸事物のなかには、第一質料のようにただ可能態にだけあるものも見いだされるし、既に神がそうであることが示されているように、ただ現実態においてあるものも見いだされるし、両者以外の他のもののように現実態と可能態の両方においてあるものも見いだされる。ところで、可能態は現実態との関係において語られるのである以上、それぞれのものにおいても端的な意味においても、可能態は現実態を越え出ることはできない。それゆえ、第一質料がその可能態性において無限であるから、純粋現実態である神はその現実態性において無限であることになる。

  7. (Latin)

    同じく、何らかの現実態は可能態と混合する程度が低いほどより完全である。それゆえ、可能態が混合している現実態はすべて、その完全性の終局を持っており、反対に何の可能態も混合していない現実態には完全性の終局がないことになる。ところで、神がすべての可能態を欠いた純粋現実態であることが先に示されている。したがって、神は無限である。

  8. (Latin)

    さらに、絶対的に考察された存在そのものは無限である。なぜなら、それは無限なものどもと無限な諸様態とによって分有されることが可能だからである。それゆえ、何らかのものの存在が有限であるとすると、その存在は、その存在にとって何らかの意味での原因である何か他のものによって限定されているのでなければならない。ところが、神の存在に何か原因があるということはあり得ない。なぜなら、その存在はそれ自体によって必然だからである。したがって、神の存在は無限であり、神自身が無限である。

  9. (Latin)

    さらに、何らかの完全性を持っているものは、その完全性をより十全に分有しているほどより完全である。ところが、その本質によって完全でありその本質が自己の善性であるようなものによる以上に十全な様態で、何らかの完全性を持つような様態というものは存在し得ないし、またそのような様態を考えることもできない。ところが、神とはそのようなものである。それゆえ、いかなる様態においても、神よりより善くより完全であるものが考えられ得ないのである。したがって、神はその善性において無限である。

  10. (Latin)

    さらに、われわれの知性は知性認識するときに無限へと伸びてゆく。実際、どんな有限の量でもそれが与えられると、われわれの知性はそれより大きなものを考え出すことができるということがその証拠である。ところで、このような知性の無限への秩序づけというものは、何か無限な可知的事物が存在しないとしたら無益な秩序づけであることになるであろう。それゆえ、何か無限の可知的事物が存在しなければならず、それは諸事物の中で最大のものであり、この事物をわれわれは神と言うのである。したがって、神は無限である。

  11. (Latin)

    同じく、結果というものはその原因を越えて広がることはできない。ところで、われわれの知性は万物の第一原因である神によらなければ存在し得ない。だから、われわれの知性は神より大きな何かを考えることが出来ないのである。それゆえ、もしあらゆる有限なものより大きな何かをわれわれの知性が考えることができないとすれば、神は有限ではないということになるのである。

  12. (Latin)

    さらには、無限の力が有限な本質の中に存在することは出来ない。なぜなら、それぞれのものは自分の形相によって作用するのであるが、その形相とはそのものの本質であるかあるいは本質の部分である。ところが、力とは作用の原理の名称でなのである。さて、神が有限な能動的力を持っていない。というのも、神は無限の時間において動かしており、このことが無限の力によらねばありえないことが先に示されたのである。したがって、神の本質は無限であることになる。

  13. (Latin)

    a)ところで、この上記の根拠は世界が永遠であると主張する人に基づいたものである。だが、そうでないと措定された場合には神の力の無限性についての見解はいっそう確証を得ることになる。というのは、それぞれの作用者はその作用において、現実態からより離れた能力を現実態にもたらすほど、いっそう力あるものである。例えば、水を熱するには空気を熱するよりもより大きな力が必要なのである。ところが、いかなる意味においても存在しないものは、現実態から無限に隔たっているし、また何らかの意味において可能態にあるということもない。それゆえ、もし以前にまったく存在しなかった状態のあとに世界が作られたのだとすると、それを作ったものの力は無限でなければならないのである。

    b)だが、この根拠は世界の永遠性を主張する人々にとっても、神の力の無限性を証明するのに妥当である。というのは、そのような主張をする人々は、それが世界の中の実体が永続的であると考えているにしても、そのような実体の原因は神であると告白し、次のように言っているのである。すなわち、神が永続的な世界の原因として実存するのは、ちょうど塵につけられた足跡が永遠から存在していたとしたら、足がその足跡の原因として永遠から存在していたのと同じなのである、と言っているのである。だが、この立場を取った場合にも、前述の論拠に従えば、神の力は無限であることが帰結する。というのも、神が世界を産出したのであるが、それがわれわれのように時間から産出したとしても、あるいは彼らの言うように永遠から産出したとしても、事物のうちには神が産出したのではないようないかなるものも存在し得ない。神は存在の普遍的原理だからである。だから、質料や可能態といったものがなにも前提されることなく、神は産出したのである。ところで、能動的力は受動適地からと比例して捉えねばならない。というのも、より大きな受動的力が先在している、あるいはあらかじめ理解されていればいるほど、それはより大きな能動的ちからによって充足されるからである。それゆえ、有限な力は質料の能力を前提しながら何らかの結果を産出するものであるから、何の能力をも前提しない神の力は有限ではなく無限なのであり、同じように神の本質は無限なのである。

  14. (Latin)

    さらに、それぞれの事物はそれの存在の原因が強力であればほど、いっそう持続的である。それゆえ、その持続性が無限であるようなものは、無限の強力さをもった原因を通じてその存在を持っているのでなければならない。ところが、神の持続性は永遠である。というのは、神が永遠であることが先に示されているからである。それゆえ、神は自己以外に自己の存在の原因を持っていないのであるから、神は永遠でなければならない。

  15. (Latin)

    さて、この真理に対して聖書の権威は証言を示している。実際、詩篇作者は「主は大きく、測りがたく補宜記である。また、彼の大きさには終わりがない」と言っているのである。

  16. (Latin)

    さらに、この真理に最も古代の哲学者たちの言葉も証言をしている。実際彼らのすべてが、真理そのものに突き動かされるように、無限なものが事物の第一原因であると主張しているのである。

    a)実際、彼らは適切な言葉を知らなかったので、第一原理の無限性を具体的な量の様態に即して評価している。たとえば、デモクリトスは諸事物の原理を無限の数の原子であると主張したし、アナクサゴラスは諸事物の原理を無限な数の相互に類似した部分であると主張したのである。あるいは、何らかの元素あるいは何らかの混濁した無限の物体が万物の第一原理であると主張した人々によれば、無限性を連続量の様態で評価したのである。

    b)だが、彼らに後続する哲学者たちの研究によって、無限な物体といったものは存在しないことが示された。そして、このことに何らかの仕方で無限な第一原理が存在しなければならないということが結びついているので、第一原理である無限なものとは物体でも物体の内なる力でもないと結論されるのである。


Shinsuke Kawazoe
平成15年9月2日