(Last Updated: 2003/11/11)
トマス・アクィナス

『カトリック信仰の真理について 不信仰者の誤謬を論駁する書』

(『対異教徒大全』)


第1巻 神の知性認識(第44章-第71章)



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第 44 章

神が知性認識するものであること

  1. (Latin)

    さて、以上のことから神が知性認識するものであることが示されうる。

  2. (Latin)

    というのも、動かすものと動かされるものの系列において無限遡行することは不可能であって、動かされうるものどもののすべてが自己を動かす第一の動かすものに還元されなければならないということが蓋然的であると、先に示されている。ところで、自己を動かすものは欲求と認知的把握とを通じて自己を動かしている。というのも、そこで動かされることと動かされないことの両方が見いだされるようなものにおいてのみ、自己を動かすということがみとめられるからである。それゆえ、第一の自己を動かしているものにおける動かしている部分は、欲求し認知的把握をしているものでもなければならない。それに対して、欲求と認知的把握によって存在している動かされているものにおいては、欲求し認知的把握をしているものは動かされて動かすものであり、逆に欲求され認知的把握をされるものは動かされずに動かすものなのである。それゆえ、われわれが神と呼んでいる万物にとっての第一動者であるものはまったく動かされることなく動かすものであるから、それと自己を動かしているものの部分である動者との関係は、欲求されるものと欲求するものとの関係なのである。ところで、これは感覚能力にとって欲求されうるものが欲求されるようなあり方をしているのではない。というのも、可感的なものの欲求は端的な意味での善ではなく、感覚の認知的把握の方も個別的なものにしか関わらないのと同様に、この個別化された善に関わるからである。それに対して、端的な意味での善と欲求されうるものは、今ここにあるものとしての善と欲求されうるものよりも先なるものである。それゆえ、第一動者が欲求され得るものであるのは、知性認識されたものとしてでなければならにのである。こうして、その第一動者を欲求する動者は知性認識するものでなければならないことになる。それゆえなおさらのこと、その第一の欲求されうるものも知性認識しているものであることになろう。なぜなら、それを欲求しているものは、可知的なものとしてしてのその動者に合一することによって、現実態において知性認識するものとなるからである。それゆえ、哲学者たちがそのように言おうとしたように、第一に動かされているものは自己を動かしているという仮定がなされるならば、神が知性認識しているのでなければならないのである。

  3. (Latin)

    さらに、動かされうるものは何か自己を動かしている第一のものに還元されるのではなく、まったく動かされ得ないで動かすものに還元されるとしても、先と同じことが帰結するのである。というのは、第一の動者は運動の普遍的原理であり、動かすものは動かす場合に意図している何らかの形相を通じて動かすのである以上、第一動者がそれによって動かしている形相は普遍的な形相であり普遍的善でなければならない。ところで、形相が普遍的な仕方で見いだされるのは知性においてのみである。したがって、神である第一動者は知性認識するものでなければならないのである。

  4. (Latin)

    さらに、動かすものどもの秩序においては、知性を通じて動かすものが知性を欠いて動かしているものの道具であるというのではなく、その逆のことが見いだされる。ところで、世界のうちに存在するすべての動かすものは神である第一動者に対する関係は、道具の主要作用者との関係である。それゆえ、世界のうちには知性を通じて動かしている多くのものが見いだされるのであるから、第一動者が知性を欠きながら動かしているということは不可能である。したがって、神が知性認識するものであることが必然なのである。

  5. (Latin)

    同じく、ある事物が知性認識するものであるのは、それが質料を欠いていることによる。形相が現実態において知性認識されたものとなるのは質料からの抽象によるということがその徴である。それゆえまた、知性は普遍的なものどものに関わるのであって、個別的なものに関わるのではないことになる。なぜなら、質料が個体化の原理だからである。ところで、現実態において知性認識された形相は現実態において知性認識している知性と一つになる。それゆえ、質料なしに存在するということから形相が現実態において知性認識されたものとなるのであるならば、どんな事物も質料を欠いて存在するということからそれは知性認識するものであるのでなければならない。ところが、神がまったく非質料的であることが先に示されている。したがって、神は知性認識するものなのである。

  6. (Latin)

    さらに、先に示されているように、存在者の何らかの類において見いだされる完全性のどれも神に欠落しているということはない。また、このことから神のうちに何らかの複合が帰結するわけでもないことも、先述のことがらから明らかである。ところで、諸事物の完全性のうちでもっとも強力な完全性は、あるものが知性認識する能力を持つということである。というのは、それによってその事物自身がある意味では万物であり、自己のうちに万物の完全性を所有しているからである。したがって、神は知性認識するものなのである。

  7. (Latin)

    同じく、何らかの目的へと確定的な仕方で向かうものはすべて、それ自身が自己に対してその目的をあらかじめ設定しているか、あるいは他のものによってそれにとっての目的があらかじめ設定されているかのいずれかである。というのも、そうでないとするとそれがあの目的ではよりもこの目的へと向かっているということにならないからである。ところで、自然物は確定された目的へと向かっている。というのも、偶然からは自然本性的な有益性は帰結しないからである。実際、自然物は常にあるいは多くの場合に存在するのであって、まれに存在するのではないが、この後者のようなものに偶然が属しているのである。それゆえ、自然物が自己に対して目的をあらかじめ設定していないのであって、それは目的の特質を認識していないからだからであるが、そうだとすると、自然物にとっての目的は他のもの、つまり自然の設定者によってあらかじめ設定されているのでなければならないことになる。そして、この自然の設定者が万物に存在を与えるものであり、それ自身によって存在することが必然であるものであり、これをわれわれは神と言っているということは前述のことから明らかである。ところが、自然の目的をあらかじめ設定するということは、知性認識しているのでないならば不可能である。したがって、神は知性認識するものである。

  8. (Latin)

    さらに、すべて不完全なものは何らかの完全なものから派生している。というのは、完全なものは不完全なものより先であって、それは現実態が可能態より先であるのと同様である。ところが、個別的事物において実存している形相は不完全である。なぜなら、形相の特質の共通性に即してではなく部分的に存在しているからである。それゆえ、そのような形相は何らかの完全で部分的でない形相から派生しているのでなければならない。ところが、このような形相とは知性認識されていなければ存在し得ない。というのも、どんな形相もその普遍性において見いだされるのは、知性においてでしかないからである。したがって、そのような形相は、もし自存するのであるならば、知性認識しているのでなければならないことになる。というのも、そのように自存している場合にだけ、働きをなして存在しうるからである。それゆえ、自存する第一現実態であり、他のすべてのものがそこから派生してくる神は、知性認識するのでなければならないのである。

  9. (Latin)

    カトリックの信仰もこの真理を告白している。すなわち、神について『ヨブ記』9章4節では「心において知恵があり、力において強い」と、12章16節では「彼のもとには力と知恵とがある」と語られている。また、『詩篇』では「私にとってあなたの知識は驚くべきものとされた」とあり、また『ローマ書』11章33節では「神の知恵と知識のなんと高き豊かさよ」とあるのである。

  10. (Latin)

    ところで、この信仰の真理が人々の間で非常な力を持っていたのだが、そのために人々が神という名称を知性認識する働きから制定しているのである。つまり、ギリシア語で神を意味する「テオス」は、考察することあるいは見ることを意味する「テアステー」という語から言われているのである。





第 45 章

神の知性認識は神の本質であること

  1. (Latin)

    さて、神が知性認識するものであることから、神の知性認識は神の本質であることが帰結する。

  2. (Latin)

    というのも、知性認識とは知性認識するものの、そのもの自身において実存する現実態であって、熱くすることが熱くされるものへと映ってゆくような仕方で、何か別の外的なものへと映ってゆく現実態ではない。実際、何かが知性認識される場合に、そのことによってその可知的なものが何か働きをこうむるということはないのであって、知性認識するものが完成されるのである。ところで、神のうちにあるものはなんでも神的本質である。それゆえ、神の知性認識は神的本質であり、神の存在であり、神そのものである。神は自身の本質であり自身の存在だからである。

  3. (Latin)

    さらに、知性認識と知性との関係は存在と本質の関係である。ところが、神的存在は神の本質であることは先に証明されている。それゆえまた、神的知性認識は神の知性なのである。ところで、神的知性は神の本質である。もしそうでないなら、神にとって知性は付帯性であることになってしまうからである。したがって、神的知性認識は神の本質でなければならないのである。

  4. (Latin)

    さらには、第二現実態は第一現実態よりも完全である。例えば、考察していることは知識よりも完全なのである。ところで、もし神が知性認識しているなら、神の知識あるいは知性は神の本質そのものであることは既に示されている。というのも、神に適合する完全性はどれも分有的にではなく、本質的に適合するということは先述のことから明らかだからである。それゆえ、もし神が考察していることが神の本質ではないとしたら、神の本質よりも高貴で完全な何かが存在することになってしまうであろう。そうして、神は完全性と善性の究極にあるのではないことになるであろう。そうなると、神は第一のものではないことになってしまうであろう。

  5. (Latin)

    さらに、知性認識は知性認識するものの現実態である。それゆえ、もし知性認識している神が自己の知性認識ではないとすると、神と知性認識との関係は可能態と現実態との関係でなければならないことになる。そうして、神のうちに可能態と現実態とが存在することになってしまうが、これは不可能であることが先に証明されているのである。

  6. (Latin)

    同じく、すべての実体は自己の働きのためにある。それゆえ、神の働きがもし神の実体とは別のものであるとすると、その働きの目的は神自身とは別の何かであることになるであろう。そうしると、神は自身の善性ではないことになるであろう。というのも、どのようなものにとっても、それの善がそれの目的だからである。

  7. (Latin)

    さて、神的知性認識が神の存在であるとすると、神の知性認識は単純、永遠、普遍であり、ただ現実態において実存しており、さらに神的存在について証明されているすべてのものであることが必然である。それゆえ、神は可能態において知性認識しているものではないし、新たに何かを知性認識し始めるということもないし、知性認識作用においてどんな変化も複合もないことになるのである。





第 46 章

神は自己の本質を通じてのみ知性認識すること

  1. (Latin)

    さて、先に示されたことがらから、神的知性は自己の本質以外の別の可知的形象によって知性認識するのではないということが明証的に明らかである。

  2. (Latin)

    というのも、可知的形象は知性的はたらきの形相的原理である。それは、どのような作用者にとっても、その固有の働きの原理が形相であるのと同じである。ところで、神的な知性的はたらきは神の本質であることが先に示されている。それゆえ、もし神的知性が自己の本質以外の可知的形象によって知性認識するとすれば、神的本質以外の何かが原理であり原因であることになってしまうであろう。これは先に示されていることに矛盾しているのである。

  3. (Latin)

    さらに、知性は可知的形象を通じて現実態において知性認識しているものとなる。それは感覚が可感的形象を通じて現実態において感覚しているものとなるのと同じである。それゆえ、可知的形象と知性との関係は、現実態と可能態の関係である。それゆえ、もし神的知性が自己自身以外の他の可知的形象によって知性認識するのであれば、神的知性は何らかのものに対して可能態にあることになってしまうであろう。こんなことはあり得ないことが先に示されている。

  4. (Latin)

    さらに、可知的形象が知性の本質の外にあるものとして知性のうちに実存する場合には、その形象は付帯的存在を持っていることになる。実際、この根拠のためにわれわれの知識は付帯性のうちに数えられるのである。ところが、神においてどんな付帯的存在もあり得ないことが先に示されている。それゆえ、神の知性のうちには神的本質それじたいの外の何らかの形象が存在することはないのである。

  5. (Latin)

    さらに、可知的形象は何か知性認識されたものの類似である。それゆえ、神的知性において神の本質の外に何らかの可知的形象があるとしたら、それは何か知性認識されたものの類似であることになるであろう。

    a)そうするとそれは、神的本質の類似であるか、あるいは他の事物の類似であるかのいずれかである。神的本質そのものの類似であることはあり得ない。なぜなら、そうだとすると神的本質はそれ自体によって可知的ではなく、その形象が神的本質を可知的なものにもたらしているということになってしまうからである。

    b)また、神的知性のうちに神の本質の外にある他の形象があって、それが別の事物の類似であるということも不可能である。というのも、その類似が何らかのものによって神に刻印されるということになってしまうからである。だが、その何らかのものが神自身であることはない。なぜなら、そうだとすると作用者と受動者が同じものになってしまい、受容者に対して自己の類似性ではなく他のものの類似性を導き入れるような何らかの作用者が存在することになってしまうからである。そうだとすると、すべての作用者が自己に類似した作用をなすのではないことになってしまう。さらに、他のものから刻印されることもない。というのは、そうだとすれば神よりも先なる何らかの作用者が存在することになってしまうからである。

    c)したがって、神において神の本質の外に何らかの可知的形象が存在することは不可能なのである。

  6. (Latin)

    さらに、神の知性認識は神の存在であることが先に示されている。それゆえ、もし神が自己の本質ではない何らかの形象を通じて知性認識するとすれば、神の知性認識が神の本質以外の何かによって存在することになっていますが、これは不可能である。それゆえ、神は自己の本質ではないような何らかの形象によって知性認識するのではないのである。





第 47 章

神が知性認識するものであること

  1. (Latin)

    さてさらに、このことから神は自身を完全に知性認識するということが明らかである。

  2. (Latin)

    というのは、知性は可知的形象を通じて知性認識される事物へともたらされるのであるから、知性的はたらきの完全性は次の二つのものに依存していることになる。すなわち、一つは可知的形象が知性認識される事物に完全に同形化されていることである。もう一つは、可知的形象が知性に完全に結合していることであって、このことは知性が知性認識するときにより大きな効力を持てば持つほどよりよく実現されることである。ところで、神の知性がそれによって知性認識する可知的形象とは神の本質それ自体であって、その本質は神自身とまったく同じである。そしてまた、本質は神の知性そのものともまったく同じである。したがって、神は自己自身をもっとも完全に認識するのである。

  3. (Latin)

    さらに、質料的事物が可知的なものとされるのは、その事物が質料と質料的条件とから分離されることによってである。それゆえ、それ自身の本性によってあらゆる質料と質料的条件とから分離されているものについては、それはその本性に即して可知的である。ところで、すべての可知的なものは知性認識するものと現実的に一つとなることに応じて知性認識される。ところで、神が知性認識するものであることは先に証明されている。したがって、神はまったく非質料的であり、自己自身と最高度に一つであるから、神は最高度に自己自身を知性認識するのである。

  4. (Latin)

    同じく、何かが現実態において知性認識されるのは、現実態における知性と現実態における知性認識されるものとが一つであることによる。ところで、神的知性は常に現実態にある知性である。というのは、神においては何も可能態になく、不完全でもないからである。とkろおが、神の本質は、先述のことから明らかなように、それ自体に即して完全に可知的である。それゆえ、神的知性と神的本質とは一つであるから、先述のことから、神が自己自身を完全に知性認識するということが明らかである。実際、神とは自己の知性であり自己の本質だからである。

  5. (Latin)

    さらに、或るもののうちに可知的様態において存在するすべてのものは、そのものによって知性認識されている。ところが、神的本質は神のうちに可知的様態において存在している。なぜなら、神の存在は神の知性認識である以上、神にとっての自然本性的存在と可知的存在とは同一だからである。それゆえ、神は自己の本質を知性認識している。したがって、自己自身を知性認識している。というのは、神とは神の本質だからである。

  6. (Latin)

    さらには、魂の他の能力と同じように、知性の現実態はその対象に即して区別される。それゆえ、可知的な対象がより完全であればあるほど、知性の働きは完全である。ところが、最高度に完全な可知的なものとは神的本質である。なぜなら、それは最高度に完全な現実態であり第一真理だからである。ところが、神的知性の働きはまた最高度に高貴である。なぜなら、既に示されているように、それは神の存在そのものだからである。したがって、神は自己自身を知性認識する。

  7. (Latin)

    さらに、すべての事物の完全性が神においては最高度に見いだされる。ところで、被造的事物において見いだされる他の完全のの中で、最高度の完全性は神を知性認識することである。なぜなら、知性的本性は他の本性よりも卓越したものであり、その本性の完全性が知性認識であるが、その[知性認識の対象である]可知的なもののうちで最も高貴なものは神だからである。したがって、神は最高度に自己自身を知性認識している。

  8. (Latin)

    このことは神的権威によって確証されている。すなわち、使徒は『コリント人への第一書簡』2章10節で「神の霊は神の深さをも究めます」と語っている。





第 48 章

神は第一に、自体的には自己自身のみを認識する

  1. (Latin)

    さて、前述のことから神は第一に、自体的には自己自身のみを認識することが明らかである。

  2. (Latin)

    というのも、知性が第一に自体的に認識する事物とは、知性がその事物の形象によって知性認識する事物だけである。なぜなら、はたらきは働きの原理である形相と比例しているからである。ところで、神が知性認識しているものとは自己の本質以外のものではないことが証明されている。したがって、神が第一に自体的に知性認識するものとは、神自身以外のなにものでもないのである。

  3. (Latin)

    さらに、多くのものを同時に、第一に自体的に知性認識することは不可能である。というのは、一つの働きが同時に多くのものにおいて終極するということはできないからである。ところで、神が自己自身を知性認識する場合があるということが証明されている。したがって、もし神が何か他のものを第一に自体的に知性認識されたものとして知性認識するのであれば、神の知性が自己を考察することからその他のものを考察することへと変化するのでなければならない。だが、その他のものは神よりも認識され得る程度が低いものである。そうすると神的知性がより悪しきものへと変化することになるが、これは不可能なのである。

  4. (Latin)

    さらに、知性のはたらきは対象に即して区別される。それゆえ、もし神が自己と自己以外の他のものの両方を主要対象として知性認識するとしたら、複数の知性的はたらきを神は持つことになるであろう。そうだとすると、神の本質が複数のものに分割されることになるか、あるいは自己の実体ではないような何らかの知性的はたらきを持つことになるかのいずれかである。だが、この両方ともが不可能であることが示されている。それゆえ、神が第一に自体的に知性認識されたものとして認識するのは神の本質以外にはないということになるのである。

  5. (Latin)

    同じく、知性は自己が知性認識したものと相違している限りにおいて、そのものとの関係において可能態にある。それゆえ、何か他のものが神によって第一に自体的に知性認識されているとすると、神はその他のものとの関係において可能態にあることになるが、これが不可能であることは先述のことから明らかなのである。

  6. (Latin)

    さらに、知性認識されたものは知性認識するものの完全性である。というのは、知性は現実態において知性認識することに即して完全だからであるが、このことは知性が知性認識されているものと一つであることによるからである。それゆえ、何か神以外の他のものが神によって第一に知性認識されたものであるとすると、その何か他のものが神にとっての完全性であり、神よりも高貴であることになるが、これは不可能である。

  7. (Latin)

    さらに、知性認識するものの知識は多くの知性認識されたものから統合されている。それゆえ、もし神が多くのことの知識を主要に自体的に認識されたものとして持っているとすると、神の知識は多くのものから複合されていることになる。そうすると、神的本質が複合されたものになるか、あるいは神にとって知識が付帯性となるかのいずれかであることになる。だた、この両方が不可能であることは前述のことから明白である。それゆえ、神によって第一に自体的に知性認識されるものとは神の実体以外のものではないことになるのである。

  8. (Latin)

    さらに、知性的はたらきにとって、それの種と高貴さとはそれ自体で第一に致死認識されるものに即している。そのようなものがそのはたらきの対象だからである。それゆえ、もし神が自己以外のものを自体的に第一に知性認識されたものとして知性認識するとすれば、神の知性的はたらきはそのはたらきの種と高貴さを神以外の他のものに即して持っていることになる。だが、これは不可能であるが、それは神のはたらきが神の本質であるとすでに示されているからである。それゆえ、神のよって第一に自体的に知性認識されるものが神自身以外のものであることは不可能なのである。





第 49 章

神は自己以外のものを認識すること

  1. (Latin)

    さて、神が第一に自体的に自己自身を認識するということから、神が自己以外のものを自己において認識していると措定しなければならないのである。

  2. (Latin)

    というのも、結果の認識はその原因の認識によって十分な仕方で得られる。だから、われわれは原因を認識手いるときにそれぞれのものの知識を持っているといわれるのである。ところで、神自身は自己の本質を通じて他のものの存在の原因である。それゆえ、神が自己の本質を最も明らかな仕方で認識しているが故に、他のものをも認識していると措定しなければならないのである。

  3. (Latin)

    すべての結果について、それの類似性が何らかの仕方でその原因のうちに先在している。すべての作用者は自己に似たものを作用するからである。ところで、何らかのもの(A)のうち存在するもの(B)はすべて、そのもの(B)がそこで存在しているもの(A)の様態を通じて存在する。それゆえ、神が何らかの事物の原因であるとすると、神自身はその本性に即して知性的であるから、神が原因となっているもののもつ類似性は、神において可知的な仕方で存在するであろう。ところで、或るものにおいて可知的な仕方で存在するものは、そのあるものによって知性認識されている。したがって、神は自己以外の他の事物を自己において知性認識している。

  4. (Latin)

    さらに、ある事物を完全に認識しているものは、その事物について真に語られうることと、その事物にその本0性に即して適合することのすべてを認識している。ところで、神には他のものどもの原因であるということが、神のの本性に即して適合する。それゆえ、神は自己自身を完全に認識しているのであるから、自己が原因であることを認識している。このことは自己が原因となっているものを何らかの仕方で認識していないならば不可能である。そして、この神が原因となっているものは神とは別のものである。なぜなら、自己自身の原因であるものは何もないからである。したがって、神は自己以外のものを認識している。

  5. (Latin)

    さて、この二つの結論を結びつけると、神が自己自身を第一の自体的に知られたものとして認識しているのに対して、他のものを自己の本質において見られたものとして認識していることが明らかとなる。

  6. (Latin)

    そしてこの真理をディオニシウスは明白に伝え、『神名論』第7章で「個々のものの直視に即して自己を送るのではなく、原因の一つの包含に即して万物を知る」と言っている。また、その後では「神的知恵は自己自身を認識しつつ、他のものを知る」とある。

  7. (Latin)

    この見解に聖書の権威も証言を与えていると思われる。というのも、『詩篇』では神について「自己のいと高い聖なる所から見渡した」と言われているが、それはいと高い自己自身から他のものを見ているということなのである。





第 50 章

神は万物についてそれ固有の認識を持っていること

  1. (Latin)

    さて、神は他の事物については普遍的な認識しか有していない、つまり、自己自身の認識を通じて存在することの本性を認識していることによっては、他の事物を存在者である限りにおいて認識しているだけである、と語った人がいる。だから、そうではなく神は他のすべての事物を、それらが相互に区別され、神とは区別されている限りにおいて認識しているということ、すなわち、事物をその事物固有の特質に即して認識するということを示すことが残されている。

  2. (Latin)

    さて、このことを示すには、神がすべての存在者の原因であることが前提されることになる。そして、このことは上述のことがらからも一定程度は明らかであるし、以下でより十分に示されることになる。そうすると、どんな事物においても、間接的であれ直接的であれ、神が原因ではないようなものは何もないことになる。ところで、原因が認識されるとその結果が認識される。それゆえ、どのような事物のうちにあるどのようなものも、神が認識され、神と事物の間にある中間的諸原因のすべてが認識されることによって、認識されうるのである。ところが、神は自己自身と、あらゆる事物と自己との間にあるすべての中間的原因を認識している。というのも、神が自己自身を完全に認識するということがすでに示されているからである。ところで、神は自己自身を認識すると、自己に直接に由来するものを認識している。そして、その直接由来するものが認識されると、こんどはそれに直接に由来するものを認識するのであって、こうして最後の結果に至るまでのすべての中間原因について認識することになる。それゆえ、神は事物のうちにあるどんなものでも認識しているのである。ところが、事物のうちに存在する共通的なものと固有なもののすべてを認識することが、その事物についての固有で十全な認識を持つと言うことである。それゆえ、神は事物について、それらが相互に区別されている限りにおける固有の認識を持っているのである。

  3. (Latin)

    さらに、知性によって作用するものはすべて、自分が作用をなしている事物について、作られたものとしての固有の特質に即した認識を持っている。なぜなら、ものを作る者のもつ認識が作られたものにとってその形相を限定するからである。ところで、神は知性によって諸事物の原因である。というのは、神の存在は自身の知性認識であり、それぞれのものはそれが現実態にある限りにおいて作用をするからである。したがって、神は自分が原因となっているものを、それが他のものと区別されている限りにおいて、固有な仕方で認識している。

  4. (Latin)

    さらには、諸事物の間の区別は偶然によることは出来ない。というのは、その区別には確定した秩序があるからである。それゆえ、諸事物のうちの区別は何らかの原因の意図によるのでなければならない。だがそれは何らかの原因の意図によるといっても、作用者の本性の必然性を通じたものではない。なぜなら、本性は一つに限定されているのであって、いかなる事物についても、作用者の本性の必然性を通じた意図は区別されている限りでの多くのものに向かうことが出来ないからである。それゆえ、諸事物のうちの区別は認識を持つ何らかの原因の意図に由来するということになる。ところが、事物の間の区別を考察することが知性にお固有のことであると思われる。だからこそアナクサゴラスも区別の原理は知性であると言ったのである。ところで、諸事物の間の区別の全体が第二諸原因のどれかの意図によることはあり得ない。なぜなら、このような原因はすべて、原因を持って区別されているもの全体に含まれているからである。それゆえ、すべての事物の間の区別を意図するということは、他のすべてからそれ自体によって区別されている第一原因にぞくすることなのである。したがって、神は諸事物を区別されたものとして認識している。

  5. (Latin)

    同じく、神が認識しているものはどんなものでもそれを最も完全に認識している。なぜなら、すべての完全性が端的に完全なものとしての神において存在することが先に示されているからである。ところで、共通的にだけ認識されているものは完全に認識されてはいない。実際その時には、その事物に特有のことがら、つなわち、その事物に固有の存在がそれによって完成される究極の完全性は知られていないのであって、このような認識では事物は現実態においてというより可能態において認識されていることになるからである。それゆえ、もし神が自己の本質を認識しながら万物を普遍的に認識しているのであるからには、諸事物についての固有の認識をも持っていなくてはならないのである。

  6. (Latin)

    さらに、何らかの本性を認識しているものはどれでも、その本性に自体的に付帯することがらをも認識している。ところで、存在者である限りでの存在者に自体的に付帯することがらとは、『形而上学』第4巻で証明されているように、一と多である。それゆえ、神が自己の本質を認識しながら存在者の本性を普遍的に認識しているのであれば、多性を認識しているということになる。ところで、多性は区別と言うことなしには理解され得ない。したがって、神は諸事物を、それらが相互に区別されている限りにおいて知性認識しているのである。

  7. (Latin)

    さらには、何らかの普遍的本性を完全に認識しているものはどれでも、その本性がどのような様態で所有されうるのかを認識している。たとえば、白さを認識しているものは、それが程度を受け入れるものだということを知っているのである。ところで、存在することの様態が多様であることによって、存在者の程度が様々に構成される。それゆえ、神は自己を認識しながら存在者の普遍的本性を認識しているが、それは不完全に認識しているのではない。なぜなら、先に証明されているように、あらゆる不完全性は神から遠いからである。そうである以上、神は存在者のあらゆる程度を認識しているのでなければならない。こうして、神は自己以外の事物について固有の認識を有することになるのである。

  8. (Latin)

    さらに、何かを完全に認識しているものはどれでも、その何かのうちにあるものをすべて認識している。とkろで、神は自己自身を完全に認識している。それゆえ、自己のうちに能動的能力に即して存在しているもののすべてを神は認識しているのである。ところが、万物はそれの固有形相に関して、神のうちに能動的能力に即して存在している。神自身がすべての存在者の原理だからである。したがって、神自身がすべての事物の固有の認識を有してる。

  9. (Latin)

    さらに、何らかの本性を知っているものはどれも、その本性が共有可能なものであるかどうかを知っている。たとえば、動物の本性が多くのものに共有可能であるということを知らないものは、その本性を完全に知っていることにはならないのである。ところで、神的本性は類似性を通じて共有可能なものである。それゆえ、神は自己の本質に何かがどれほどの様態で類似しているのかを知っている。ところが、諸形相の多様性は神的本質を事物が様々な仕方で模倣することによって存在している。それゆえ、哲学者は自然本性的形相を何か進呈なものと名付けているのである。したがって、神は諸事物について、それら固有の形相に即した認識を持っているのである。

  10. (Latin)

    さらに、人間や他の認識するものにおいては、諸事物の認識はそれらが多数性において相互に区別されている限りでの認識である。それゆえ、神が諸事物のそれらの区別において認識しないとしたら、神はもっとも愚かなるものであることになるであろう。それは哲学者が『魂について』第1巻と『形而上学』第3巻において不都合であるとしているように、すべての人が認識している「憎」というものを神が認識していないと主張した人々にとってそうだったようにである。

  11. (Latin)

    このことを聖書正典の権威もわれわれに教えている。実際、『創世記』1章31節では、「神は自分の造ったものすべてを見た。それらはまことに善かった」と語られている。また、『ヘブライ人への手紙』4章13節では「彼の眺望においては見えない被造物は一つもなく、すべては彼の目にはあらわで明らかである」とある。





第 51 章

知性認識されたものの多数性が神的知性のうちにどのような仕方で存在するのかを探究すべき根拠

  1. (Latin)

    だが、知性認識されたものが多数であることによって神的知性のうちに複合性が導き入れられることのないように、どのような意味で知性認識されたものが多数であるのかを探究すべきである。

  2. (Latin)

    さて、この多数性は、神のうちで多数の知性認識されたものが区別された存在を持つというように理解されることは出来ない。というのは、この知性認識されていることがらは神的本質と同じであるか、あるいは神的本質に付加されたものであることになってしまうからである。だが、前者の場合には、神の本質のうちに何らかの多数性が措定されることになってしまい、このことは先に多くの仕方で排除されているのである。また、後者の場合には、神のうちに何らかの付帯性が存在することになるが、これも先に不可能であるとわれわれは示したのである。

  3. (Latin)

    さらに、このような形相が自体的に可知的なものとして実存すると措定することも出来ない。プラトンはイデアを導入して、先述の不都合を避けようとして、このような主張をしたと思われる。だが、自然的事物の形相は質料なしには実存し得ないが、それは質料なしには理解されることもないからである。

  4. (Latin)

    だが、たとえこの主張がその通りだとしても、それで神が多数のものを知性認識していると主張するには十分ではない。というのは、前述の形相は神の本質の外に存在するのであるから、もしその形相なしに神が多数の事物を知性認識出来ないとすれば(神の知性の完全性のためには出来ることが必要なのであるが)、知性認識作用における神の完全性が頼母のに依存することになってしまうからである。したがってまた、神の存在は自身の知性認識である以上、存在することにおいても他のものに依存することになってしまうであろう。だが、これと反対のことが先に示されているのである。

  5. (Latin)

    同じく、以下で示されることになるように、神の本質の外にあるすべてのものは神を原因としているのであるから、前述の形相が神の外に存在するとすれば、その形相は神を原因としているのでなければならない。ところで、神自身が知性を通じて諸事物の原因であることが、以下で示されることになる。したがって、このような可知的なものが存在するためには、本性の秩序からして、神がそのような可知的なものを知性認識しているということがあらかじめ要求される。したがって、多くの可知的なことが神の外に実存するということを根拠となって、神が多くのものを知性認識しているというわけではないのである。

  6. (Latin)

    さらに、現実態にある可知的なものは現実態にある知性である。可感的なものについても、現実態にある可感的なものが現実態にある感覚であるのと同様である。逆に、可知的なものが知性と区別される限りにおいて、両者は可能態にある。これも感覚において明らかである。たとえば、視力が現実態において見ているものとなるのは、また、可視的なものが現実的見られているのは、視力が可視的なものの形象によって形相化されている場合だけであって、そのときには視力と可視的なものとが一つになっているのである。それゆえ、もし神のもつ可知的なことがらが神の知性の外にあるとすると、神の知性は可能態にあるし、同様に神のもつ可知的なことがらも可能態にあることになる。そうすると、それらを現実態にもたらすような何かを神は必要とすることになるであろうが、その何かが神よりも先なるものとなるのであるから、これは不可能である。

  7. (Latin)

    さらに、知性認識されたものは知性認識するもののうちに存在しなければならない。それゆえ、神が多数の事物を知性認識するということのためには、それ自体で実存する事物の形相を神的知性の外に措定するのでは不十分であり、それらの形相が神的知性それ自体のうちに存在していなければならないのである。





第 52 章

前章のつづき

  1. (Latin)

    また、同じ諸根拠から、前述の多数の可知的なものが神的知性以外の何か別の知性(魂であれ、天使であれ、知性実体であれ)のうちに存在すると主張することは出来ないことが明らかである。

  2. (Latin)

    なぜなら、もしそうだとすると、神的知性がその何らかのはたらきに関して、何らかの後なる知性に依存することになるが、これは不可能だからである。

  3. (Latin)

    また、それ自体で自存する諸事物も神に由来するように、事物に内在するものも神に由来する。それゆえ、先述の可知的なことがらが神より後なる何らかの知性のうちに存在するためにも、神がそのことの原因となっている神的知性認識があらかじめ必要とされるのである。

  4. (Latin)

    また、そうだとすると神的知性が可能態にあることになってしまう。というのは、神にとっての可知的なことがらが神と結合していないことになるからである。

  5. (Latin)

    また、固有の存在はそれぞれのものに属しているのと同じように、固有のはたらきもそれぞれのものに属している。それゆえ、ある知性がはたらきへと状態づけられていることを通じて、別の知性が知性的はたらきを遂行するといったことは出来ないのであって、状態づけがそこに見いだされる知性そのものがはたらきを遂行するのである。それは、それぞれのものは自己の本質によって存在するのであって、他のものの本質によって存在するのではないのと同じである。それゆえ、何か二次的な知性のもとに多数の可知的なものが存在するということによっては、第一知性が多数のものを認識するといったことは出来ないであろう。





第 53 章

前掲の疑問の解決

  1. (Latin)

    さて、前掲の疑問は、知性認識された事物が知性のうちに実存するのはどのようにしてなのかということを丁寧に吟味するならば、容易に解決されうるのである。

  2. (Latin)

    われわれは自分たちの知性から出発して、可能な限り神的知性の認識へと進もうとしている。だから、われわれが知性認識している外的事物がわれわれの知性のうちに実存するのは、その事物固有の本性に即してではなく、われわれの知性のうちに存在するのはその事物の形象であり、それによって知性は現実態になるということを考えてみなければならない。ところで、このような形象を固有の形相として、その形象によって現実態において実存しているものは、その事物そのものを知性認識している。だがその知性認識は、熱化作用が熱化されたものへと転移するのとはちがって、知性認識されたものへと転移するような作用ではない。そうではなく、知性認識は知性認識するもののうちに止まるのである。しかし、知性認識のはたらきは、それにとっての形相としての原理である前述の形象が事物の類似性であることを通じて、知性認識されているその事物との関係を有しているのである。

  3. (Latin)

    だが、さらに考えておくべきことは次のことである。すなわち、知性は事物の形象によって形成されて知性認識しているときに、自己のうちに知性認識された事物の何らかの概念(intentio)を形成し、定義がその概念を意味表示している。これが必然的であるのはつぎにことによる。つまり、知性は事物が不在であるか現前しているかに無差別に知性認識をすることによる。この点では想像作用と知性とは一致している。しかし、それに加えて知性は、事物がそれなしには実在の世界では事物が実存しないような質料的条件から分離されたものとして事物を知性認識するのである。これは知性が前述の概念を自己に対して形成するということがなければあり得ないのである。

  4. (Latin)

    ところで、この知性認識された概念は、いわば可知的なはたらきの終極であるから、知性を現実態にもたらし、可知的はたらきの始まりであると考えねばならない可知的形象とは別のものである。ただし、両者ともに知性認識された事物の類似性ではある。というのは、知性の形相であり知性認識の始まりである可知的形象が外的事物の類似性であるということから、知性はその事物に類似した概念を形成するということが生じるからである。なぜなら、それぞれのものはそれがどのように存在するかに応じて、はたらきをなすからである。そして、知性認識された概念がある事物に類似しているということから、知性はこのような概念を形成するときにその事物を知性認識していることになるのである。

  5. (Latin)

    だが、神的知性は自分の本質とは別の形象によって知性認識するのではないことは先に示されている。ところが、神の本質はすべての事物の類似性である。それゆえ、このことからは自己を知性認識している限りでの神的知性の懐念、すなわち神的知性の言葉は、たんに神の知性そのものの類似であるだけでなく、神的本質がそれの類似性であるようなすべてのものの類似なのである。したがって、神的本質という一つの可知的形象を通じて、また神的言葉という知性認識された一つの概念を通じて、多くのことが神によって知性認識され得るのである。





第 54 章

神的本質は一で単純でありながら、すべての可知的なものどもの固有な類似性であるのはどのようにしてなのか

  1. (Latin)

    だが、人によっては、神的本質のように一にして単純であるものと同じものが、様々なものの固有の根拠あるいは類似性であるということは、理解困難あるいは不可能であると思われるかもしれない。

  2. (Latin)

    そう思われるのは、様々な事物の間の区別はそれらに固有の形相を根拠としているのである以上、或るものにそれに固有の形相に即して類似しているものは、別のものにとっては非類似であるとされるのが必然であるからである。だが、様々なものが何か共通のものを持っている点では、それらが一つの類似性を持っていても何の差し支えもない。たとえば、人間とロバとが両所ともに動物である限りでは類似性を持っているようにである。このことからは、神が諸事物についてのそれ固有の認識を持っているのではなく、共通的な認識を持っているということが帰結する。なぜなら、認識のはたらきは認識されたものの類似性が認識者のうちに存在する様態から帰結するからである(熱化というものが熱の様態に即しているのと同じことである)。というのも、認識者における認識されたものの類似性は、それによって認識者が作用をなす形相としてあるからである。したがって、もし神が多くのものについての固有の認識を持っているとしたら、神自身が個別的なものどもの固有の根拠でなければならないのである。そして、このことがどのようにしてなのかが探究されなければならないのである。

  3. (Latin)

    というのも、哲学者が『形而上学』第8巻においていっているように、諸事物の形相とそれを意味表示している定義とは数に似たものである。つまり、数おいては、一つの単位が加えたり差し引かれたりすると数の種類は変化する。二や三において明らかなようにである。定義においても同様なのである。というのは、一つの種差が加えられたり差し引かれたりすると種が変化するからである。たとえば、可感的実体が「理性的」という種差を欠いている場合と、それに「理性的」が付加されている場合とでは、種において異なることになるのである。

  4. (Latin)

    しかしながら、自分のうちに多くのものを含んでいるものにおいては、知性は自然本性のようなあり方をしていない。というのは、なんらかの事物の存在に必要とされるものはその事物の本性においては、分割されるといった事態を受け入れることはない。たとえば、魂が身体から差し引かれるならば動物の本性はそのままに止まることはないのである。それに対して、知性については、存在において結合しているものどもを、それらの一つが別のものの特質に入っていないときには、時として区別された仕方で受け取ることができるのである。だから、知性は三の中で二だけを考察することが出来るのである。そして、理性的動物において感覚的なものだけを考察することもできるのである。それゆえ、知性は複数のものを包括しているものをその複数のものの固有な特質として受け取り、そのうちの或るものを他のものなしに把握することができるのである。実際、十を、単位一つが差し引かれたものとしての九の固有な特質として受け取ることができるし、同様に十をそれ以下の含んでいる個々の数の固有な特質として受け取ることができるのである。それと同様に、知性は人間において非理性的である限りでの非理性的動物の固有な範型を受け取ることもできるし、何か積極的な種差を付加しているものでない限りで、人間が含む個々の種に固有な範型を受け取ることもできるのである。

  5. (Latin)

    だから、クレメンスというなの或る哲学者は「存在者においてより高貴なものどもは」より高貴でないものの「範型」であると言ったのである。

  6. (Latin)

    さて、神的本質は自己のうちにすべての存在者の高貴さを包括しており、それも複合という仕方でではなく完全性という仕方で包括しているということは、先に示されている。ところで、固有な形相であれ共通的な形相であれすべての形相は、それが何かを措定しているかぎりにおいて何らかの完全性であり、真なる存在から欠けるところがある限りにおいてだけ不完全性を含んでいる。それゆえ、神的知性はそれぞれのものに固有なものを自己の本質のうちに包括することができるが、それはそれぞれのものが神の本質をどの点で模倣し、どの点で神の完全性から欠けるところがあるのかということを知性認識することによってである。たとえば、神が自己の本質を生命の側面では模倣可能であるが認識という点では模倣可能ではないものとして知性認識する場合には植物に固有の形相を捉えているのであるし、認識の側面では模倣可能であるが知性という側面では模倣可能ではないものとして自己の本質を知性認識している場合には動物に固有の形相を捉えているのであり、以下同様である。このようにして、神的本質が絶対的に完全である限りにおいて、個々のものの固有な特質として捉えられ得るということが明らかなのである。したがって、神は自己の本質を通じて、すべてのものについてその固有な認識を有し得るのである。

  7. (Latin)

    さて、一つのものの固有な特質は別のものの固有な特質とは区別されるのであるし、また区別は多数性の原理である。それゆえ、神的知性において知性認識された特質の何らかの区別と多数性とを、神的知性のうちにあるもが様々なものの固有な特質である限りにおいて、考察しなければならない。そしてこれは、それぞれの被造物が神に対してもっている類似化という固有な関係を神が知性認識しているということであるから、神的知性の中にある諸事物の特質が多数あるいは区別されているということは、諸事物が多数で様々な様態で神に類似化可能であるということを認識している限りのことだということになる。

  8. (Latin)

    このことに即してアウグスティヌスは、神は人間と馬を別の根拠によって造ったと言い、諸事物の根拠は神的精神においては複数の仕方で存在すると言っているのである。

  9. (Latin)

    またこの点では、イデアを措定するプラトンの立場もある意味ではすくい上げられる。つまり、質料的事物において実存しているものすべてがそのイデアに即して形成されているからである。





第 55 章

神は万物を同時に知性認識していること

  1. (Latin)

    また、このことからさらに、神が万物を同時に認識していることが露わになる。

  2. (Latin)

    というのは、われわれの知性は同時に多くのことを知性認識することができない。なぜなら、現実態にある知性とは現実態にある知性認識されたものであるから、多くのものを同時に現実態において知性認識するとすると、一つの知性が同時に一つの類にある複数のものであるということになるが、これは不可能である。(いま「一つに類にある」と述べたのは、同じ物体が形を持つとともに色を持つことがあるように、同じ基体がさまざまな類のさまざまな形相によって形相化されていることには何の問題もないからである。)ところで、知性は可知的形象によって形相化されることによって現実態において知性認識されたものとなるのであるが、その可知的形象のすべては一つの類に属している。というのは、可知的形象がそれの形象である事物の方は存在の一つの特質において一致しているのではないにしても、可知的形象は可知的存在という存在の一つの特質を有しているからである。それゆえ、魂の外に存在している事物に対立性があっても、対立した形象がその対立性によって知性の中に存在することがないのである。このことゆえに、ある多数のものが何らかの仕方で一つとなったものとして捉えられるときには、それらは同時に知性認識されていることになる。というのは、連続した全体を知性認識しているのであって、その部分を順番に知性認識しているのではないからである。また命題を同時に知性認識するのも同様であって、最初に主語を次に述語を知性認識するのではないのである。なぜなら、全体の持つ一つの種に即してすべての部分を認識しているからである。

  3. (Latin)

    それゆえこのことから、一つの種において認識される複数のものはどんなものでも同時に知性認識され得るということをわれわれは理解することができる。ところが、神が認識しているもののすべてを、神は自身の本質という一つの種において認識している。それゆえ、神は万物を同時に知性認識できるのである。

  4. (Latin)

    同じく、認識力が何かを現実態において認識するのは、意図がそこにある場合だけである。だから、表象像は身体器官のなかに保存されているのに、われわれは時にはそれを現実態において想像しないことがあるのであって、それは意図がそれに向かっていないからなのである。というのは、意志を通じて作用するものにおいては、欲求がそれ以外の諸能力を現実態へと動かすからである。それゆえ、意図が多数のものに同時に向かっていない場合には、われわれはその多数のものを同時に見て取ることはない。それに対して、一つの意図のもとに入らねばならないものは、同時に知性認識されていなければならないのである。たとえば、二つのものの比較を考えている人は、両方に対して意図を向け、両方を同時に見て取っているのである。

  5. (Latin)

    さて、神的知識のうちにあるものはすべて一つの意図のものに入ることが必然である。というのは、神は自己の本質を完全に見ることを意図しているからである。これは自己の本質を自己の力の全体に即して見ることであり、その力のもとに万物は含まれているのである。したがって、神は自己の本質を見ることによって、万物を同時に見て取っているのである。

  6. (Latin)

    さらには、知性が多数のものを継起的に考察しているときには、その知性に一つのはたらきだけが属することは不可能である。というのは、はたらきは対象に即して異なっているのであるから、最初のものが考察される知性のはたらきと次のものが考察される知性のはたらきとは異なっていなければならないからである。ところが、神的知性には自身の本質である一つのはたらきしか属していないことは、先に証明された。したがって、神的知性は自己の認識するすべてを継起的にではなく、同時に考察しているのである。

  7. (Latin)

    さらに、継起は時間なしには理解され得ないし、時間は運動なしには理解され得ない。時間とは先後に即した運動の数だからである。ところが、神には何の運動もあり得ないことは、前述のことがらから得られ得る。それゆえ、神的考察においては何の継起もないのである。このようにして、認識するすべてのものを神は同時に考察しているのである。

  8. (Latin)

    同じく、神の知性認識は自身の存在そのものであることは、上述のことから明らかである。ところで、神的存在には先後関係はなく全体同時であることも、先に示されている。しがたって、神の考察が先後関係をもつことはなく、万物を同時に知性認識しているのである。

  9. (Latin)

    さらに、ある一つを知性認識しその後に別のものを知性認識しているような知性はすべて、可能態において知性認識しているときと現実態において知性認識しているときとがある。というのも、最初のものを知性認識している間は、二番目のものを可能態において知性認識しているからである。ところで、神的知性は決して可能態にあることはなく、常に現実態において知性認識しているものである。したがって、諸事物を継起的に知性認識することはなく、万物を同時に知性認識しているのである。

  10. (Latin)

    さて、この真理に聖書は証言を与えている。というのは、『ヤコブ書』1章17節で、神の「もとには、移り変わりもなく、変転の陰もない」と語られているのである。





第 56 章

神の認識は習態的ではないこと

  1. (Latin)

    またこのことから、神のうちに習態的な認識がないことが露わとなる。

  2. (Latin)

    というのは、その中に習態的な認識があるものにおいては、すべてのものが同時に認識されているわけではなく、或るものが現実態において認識されている間には、他のものは習態的に認識されているのである。ところが、神がすべてのものを同時に現実態において知性認識するということは、すでに証明されている。したがって、神のうちに習態的認識はないのである。

  3. (Latin)

    さらに、習態をもちながら実際に考察をなしていないものは、或る意味で可能態にある。(可能態にあるといっても、初めて知性認識する前とは別の意味においてではあるが。)ところが、神的知性がいかなる様態においても可能態にないことはすでに示されている。したがって、神のうちにいかなる様態においても習態的認識はないのである。

  4. (Latin)

    さらに、何かを習態的に認識しているすべての知性にとって、実際に考察することである自己の知性的はたらきととそれの本質とは別のものである。というのは、習態的に認識している知性にはそれのはたらきが欠けているのに対して、その本質がその知性に欠けているということはあり得ないからである。ところが、神においてはその本質がはたらきであることは先に示されている。したがって、神の知性には習態的認識はないのである。

  5. (Latin)

    同じく、習態的にのみ認識している知性というのは、自己の究極の完全性にはない。だから最善のものである幸福も習態に即してではなく現実態に即して措定されるのである。それゆえ、もし神が自己の実体を通じて習態的に認識しているのだとすると、自身の実体に即して考察された神は普遍的な意味で完全ではなくなるであろう。だが、これとは反対のことがさきに示されているのである。

  6. (Latin)

    さらに、先に示されたように、神は自己の本質を通じて知性認識するものであって、その本質に付加されたような何らかの可知的形象を通じて知性認識するものではない。ところが、習態にある知性はすべて何らかの形象を通じて知性認識する。というのは、習態とは、知性がそれによって現実態において知性認識するものとなる可知的形象を受け取るために持っている何らかの容易さだからである。あるいは習態とは、十全な現実態としてではなく、可能態と現実態の中間的なあり方として知性のうちに実存している諸形象の秩序づけられた合成態のことだからである。したがって、神のうちに習態的知識はないのである。

  7. (Latin)

    さらに、習態はある種の性質である。ところが、神には性質や何らかの付帯性が付帯することはあり得ないことが先に証明されている。したがって、神には習態的認識は適合しないのである。

  8. (Latin)

    a)さて、考察をすること、意志すること、あるいは作用することにおいてただ習態的にそれをなしている状態は寝ている人の状態に似ているとされるのであるために、ダヴィデは神から習態的状態を取り除くために「見よ、イスラエルを見守る方はまどろむことがなかったし、眠っていもいない」と言っているのである。

    b)ここからまた、『集会の書』23章28節[19節]では「主の目は太陽にもましてずっと光り輝いている」と語られているが、これは太陽が常に現実態において光っているからなのである。





第 57 章

神の認識は推移的でないこと

  1. (Latin)

    さて、ここからさらに神のなす考察は推論的あるいは推移的ではないということが得られる。

  2. (Latin)

    というのは、われわれの考察が推論的であるのは、一つのものを考察して別のものへとわれわれが移行するときである。たとえば、原理から結論へと三段論法を形成している場合がそうである。というのは、人が推論あるいは推移することになるのは、結論が前提からどのようにして帰結するのかを、両方を同時に考察することによって洞察することによってではないからである。実際、このことは議論をしている最中に生じることではなく、議論されたことを判断しているときに生じることなのである。それはちょうど、質料的なものについての認識であっても、それによって質料的なことがらを判断されていることによってそれが認識となるわけではないのと同様なのである。ところで、神が一つのものの後に別のものをといったように継起的に考察するのではなく、すべてを同時に考察すると言うことがすでに示されている。それゆえ、神の認識は[被造物のうちの]あらゆる推移と推論とを認識しているにしても、それ自体は推論的あるいは推移的ではないのである。

  3. (Latin)

    同じく、推論をしているものはすべて原理と結論とを別の考察において見て取っている。というのは、原理が考察されるということ自体から結論もまた考察されることになるのであれば、原理が考察されてから結論へと進むといったことは必要がなくなるからである。ところで、神は自己の本質という一つのはたらきによって万物を認識しているということが、先に証明されている。したがって、神の認識は推論的ではないのである。

  4. (Latin)

    さらに、推論的な認識はすべて幾分かの可能態と幾分かの現実態を有している。というのは、結論は原理のうちに可能態において存在しているからである。ところで、神的知性に可能態の占める場所がないということが、先に示されている。したがって、神の知性は推移的ではないのである。

  5. (Latin)

    さらに、すべての推移的知識においては原因をもつ何かがなければならない。というのは、原理は或る意味で結論の作出因だからである。それゆえ、論証も知識を持つということをつくりだす三段論法と言われるのである。ところで、神的知識においては原因を持つものは何もあり得ない。その知識が神自身であることが上述のことから明らかだからである。それゆえ、神の知識は推移的ではあり得ないのである。

  6. (Latin)

    さらに、自然本性的に認識されることがらは、われわれのにとっては推論なしにしられている。たとえば、第一基本原理について明らかである。ところで、神においては自然本性的な、というよりも本質的な認識しかあり得ない。なぜなら、神の知識が神の本質であることが先に証明されているからである。したがって、神の認識は推論的ではない。

  7. (Latin)

    さらに、動かされているものはすべて第一の動者に還元されることが必然であり、その第一の動者は動かされることなくただ動かしているものなのである。それゆえ、運動の第一の起源がそれに由来するものは、まったく動かされることなく動かすものでなければならない。そして、これが神的知性であることは先に示されている。それゆえ、神的知性はまったく動かされることなく動かすものでなければならない。ところで、推論とは一つのことから別のことへと移行してゆく知性のある種の運動である。したがって、神的知性は推論的ではないのである。

  8. (Latin)

    同じく、われわれにおいて最高のものは、神においてあるものよりも下位である。というのは、下位のものが上位のものに触れるのは、下位のものの最高の所においてでしかないからである。ところで、われわれの認識における最高のものは理性ではなく知性であり、知性は理性の起源なのである。それゆえ、神の認識は推論的ではなく、ただ知性的[直知的]なのである。

  9. (Latin)

    さらに、神からはあらゆる欠陥が除去されるべきであるが、それは神自身が端的な意味で完全であるからであることが先に示されているからである。ところで、推論的認識は知性的本性の不完全性から出てくるものである。というのは、他のものを通じて認識されるものはそれ自体によって認識されるものよりも知られている程度が低いのであり、また、他のものを通じて知られるものにとっては、それを通じてそれが知られるようになるものがなければ、認識するものの本性では十分ではないからである。ところで、推論的認識においてあることが知られるようになるのは他のものを通じてである。それに対して、知性的[直知的]に認識されるものはそれ自体によって知られるのであり、それを認識するには外的媒介がなくても認識者の本性で十分なのである。それゆえ、理性が知性のある種欠落したものであることは明白である。したがって、神的知識は推論的ではないのである。

  10. (Latin)

    さらに、その形象が認識するもののうちにあるものどもは理性の推移なしに把握される。たとえば、視覚は視覚の中にその類似性がある石を認識するのに推移をすることはないのである。ところで、神的本質が万物の類似であることは先に証明されている。したがって、神においては理性の推移を通じて何かを認識するように事態が進むことはないのである。

  11. (Latin)

    また、神的知識の中に推移を持ち込もうとしているように見える人々への解答も明らかである。

    a)そのような人々の根拠は、一つには神が自己の本質を通じて他のものを知っているのだということである。だが、このことが推移的に生じるのではないことがすでに示されている。なぜなら、神の本質と他のものとの関係は、原理と結論との関係のようなものではなく、形象と認識された事物との関係だからである。

    b)また一つの根拠は、神が三段論法を作り得ないとしたら、そのことがおそらく人によっては不都合だと見えるということである。だが、神は三段論法によるべき知識を、いわば[全体として直知的に]判断しながら有しているのであって、実際に三段論法を形成して推移しながら有しているわけではないのである。

  12. (Latin)

    さて、理性的根拠によって証明されたこの真理に対して、聖書も証言を与えている。というのは、『ヘブライ人への手紙』4章13節で「彼の目にはすべてが露わで明らかである」と言われている。だが、われわれが推論することによって知っていることがらは、それ自体でわれわれに露わで明らかなのではなく、理性によって明らかとされ露わとされるのである。





第 58 章

神は複合・分割することによって知性認識しないこと

  1. (Latin)

    また、同じ根拠を通じて、神的知性が複合し分割する知性の様態によって知性認識するのではないことが示され得る。

  2. (Latin)

    というのは、神は自己の本質を認識することによって万物を認識している。だが、自己の本質を複合し分割しながら認識しているわけではない。なぜなら、自己を自己が存在するように認識しているのであるが、その神自身の中には何の複合も存在しないからである。したがって、神は複合し分割する知性の様態によって知性認識しているのではない。

  3. (Latin)

    さらに、知性によって複合され分割されることがらは、その本性上相互に切り離して考察される。というのも、或るものについてそれが何であるのかが把握されること自体で、それに何が内属するかや何が内属しないかが分かるとすれば、複合や分割は必要ではなくなってしまうからである。それゆえ、もし神が複合し分割する知性という様態で知性認識するとすれば、万物を一つの直観で考察しているのではなく、万物のそれぞれを切り離して考察しているというとが帰結することになるであろう。だが、これとは反対のことが先に示されたのである。

  4. (Latin)

    さらに、神のうちには先後関係は存在し得ない。ところが、複合と分割は、それの原理である「何であるかということ」の考察よりも後なるものである。それゆえ、神的知性のはたらきには複合と分割はあり得ないのである。

  5. (Latin)

    同じく、知性の固有対象は何であるかということである。だから、この点に関しては知性は付帯的にしか欺かれることがない。それに対して、複合と分割とに関しては欺かれるのである。それは感覚も同じであって、固有対象については常に新であるが、他の点においては誤るのである。ところで、神的知性においては何かが付帯的存在するということはなく、それ自体よって存在するものだけがある。したがって、神的知性には複合と分割とはなく、ただ事物の単純な把握だけがあるのである。

  6. (Latin)

    さらに、複合し分割する知性によって形成された命題がもつ複合というものは、知性そのもののうちに実存するのであって、魂の外にある事物のうちには実存しない。それゆえ、もし神的知性が事物について複合し分割する知性という様態によって判断するとすれば、知性それ自体が複合されたものとなるであろう。だが、これが不可能であることは前述のことから明らかなのである。

  7. (Latin)

    同じく、複合し分割する知性は、その複合が様々であることによって、さまざまなものを識別判断している。というのも、知性のなす複合はその複合の項を越えでることはないからである。だから、人間が動物であると識別判断している知性の複合によっては、三角形が図形であるという識別判断を知性はなさないのである。ところで、複合あるいは分割は知性の何らかのはたらきである。それゆえ、もし神が事物を複合・分割しながら考察しているのだとすれば、神の知性認識はただ一つではなく多であることになる。こうしてまた、神の本質はただ一つではないことになる。というのも、神の知性的はたらきは神の本質であることが先に示されているからである。

  8. (Latin)

    しかし、だからといって神は命題的なことがらを知らないのだと言うべきではない。というのは、神の本質は、一つで単純ではありながら、すべての多なるものと複合したものの範型だからである。だから、神はその本質を通じて、本性上のものであれ概念上のものであれ、あらゆる多と複合を認識しているのである。

  9. (Latin)

    a)さて、この点に聖書の権威も調和している。実際、『イザヤ書』55章8節で「主は人間たちの考えを知っている」とあるが、この考えというものが知性の複合と分割から出てくるものであることは確かである。

    b)また、ディオニシウスは『神名論』第7章で「それゆえ、神的知恵は自己自身を認識しながら万物を認識している。質料的なものを非質料的に、可分割的なものを非分割的に、多なるものを一として認識しているのである」と語っている。





第 59 章

命題的なものの真理が神から排除されないこと

  1. (Latin)

    さて、以上のことから次のことが明らかである。すなわち、確かに神的知性の認識は複合し分割する知性というあり方によるわけではないにしても、哲学者によれば知性の複合と分割にかかわってのみ存在するような真理が神から排除されるわけではないのである。

  2. (Latin)

    知性の真理とは、知性が存在するものを存在すると述べ、存在しないものを存在しないと述べる限りでの、知性と事物との合致である。だから、知性における真理は知性が述べることに属しているのであって、それを述べているはたらきに属しているわけではない。というのも、知性の真理のために要求されるのは、知性認識それ自体が事物と合致することではなく(実際、事物は質料的なものである時に、知性認識は非質料的だからである)、知性が知性認識して述べ認識していることがらの方が事物と合致していること、すなわち知性が述べているように事物もそのように存在することが必要なのである。ところが、神は自分の単純で複合と分割のない知的作用によって、諸事物の何性だけではなく命題をも認識することは先に示されている。だから、神的知性が知性認識することによって述べていることがらは複合と分割なのである。したがって、神の単純性を根拠とすることでは、真理が神的知性から除外されはしないのである。

  3. (Latin)

    さらに、何か非複合的なものが述べられたり知性認識されたりするときには、その非複合的なもの自身は、それ自体としては、事物に相等でも非相等でもない。なぜなら、相等性と非相当性は比較にもとづいて語られるのであるが、非複合的なものは、それ自体としては事物に対する比較や適用を何も含んでいないからである。だから、非複合的なものそれ自体は真とも偽とも言われ得ないのであって、そう言われるのは複合的なものだけであり、そのうちでは非複合的なものの事物への比較が複合と分割の記号を通じて示されるのである。ところで、非複合的な知性の場合には、何であるのかを知性認識しながら、事物の何性を事物との何らかの比較において把握している。なぜなら、その何性をこの事物の何性として把握しているからである。それゆえ、非複合的なものそれ自体や定義でさえも、それ自体としては真でも偽でもないのではあるが、『デ・アニマ』第3巻において明らかなように、何であるのかを把握している知性は自体的に常に真であると言われるのである。(とはいえ、そのような知性も付帯的には偽となることがある。それは少なくとも定義が、その諸部分相互の間において、あるいは、定義全体が定義されていることがらに対して、何らかの複合を含んでいる限りのことである。それゆえ、だから定義は、それがこの事物やあの事物の定義として知性認識されている限りにおいて、知性によって捉えられているものとしては、端的に偽であると語られたり、この事物に即しては偽であると語られることがあるのである。つまり、前者は「非感覚的動物」と語られるような、定義の諸部分が相互に一貫しない場合であり、後者は円の定義が三角形の定義として受け取られるような場合である。)したがって、不可能な仮定ではあるが、仮に神的知性が非複合的なことがらしか認識しないとしても、それでも神的知性は自己の何性を自己のものとして認識していることで、真になるはずなのである。

  4. (Latin)

    さらに、神的単純性は完全性を排除しない。なぜなら、先に示されたように、他の諸事物においては諸々の完全性あるいは形相の何らかの混成を通じて見いだされるもののどれをも、神は自己の単純な存在においてもっているからである。ところで、われわれの知性は非複合的なものを把握するだけでは、まだ自己の究極的な完全性にまで到達していない。なぜなら、複合や分割に関してはまだ可能態にあるからである。それは自然的事物においても同様であって、単純なものは混合したものとの関係では可能態にあるし、部分は全体との関係では可能態にあるのである。それゆえ、われわれの知性であれば複合したものと非複合的なものの両方についての認識を通じて持っているような認識の完全性を、神はその単純な知性作用に即して有しているのである。ところで、われわれの知性に真理が伴うのは知性の完全な認識においてであり、それはすでに複合にまで到達したときのことである。したがって、神の単純な知性作用においても真理はあるのである。

  5. (Latin)

    同じく、神はすべての善性を自己のうちに有するものとしてすべての善にとっての善であることは、先に示されている。だから知性にとっての善性も神に欠けることはできない。ところで、真が知性の善であることは、哲学者の『ニコマコス倫理学』第6巻において明らかである。したがって、神のうちに真理がある。

  6. (Latin)

    そしてこのことが『詩篇』85篇15節で「だが、神は真実である」と語られている。





第 60 章

神は真理であること

  1. (Latin)

    さて、前述のことから神が真理であることが明らかである。

  2. (Latin)

    というのは、前述のように、真理とは知性作用すなわち知性的はたらきの何らかの完全性である。ところで、神の知性認識はその実体である。さらに、知性認識それ自体は、それが神的存在であることが先に示されているのであるから、何らかの完全性が付加されることで完全となるのではなく、それ自体で完全である。神的存在についても同様であることが先に示されている。したがって、神的実体は真理そのものであるということになる。

  3. (Latin)

    同じく、哲学者によれば、真理は知性の何らかの善性である。ところで、神は自身の善性であることが先に示されている。したがって、神は自己の真理でもある。

  4. (Latin)

    さらに、神についてはどんなことも分有的に語ることはできない。というのは、神とはその存在であり、その存在を何も分有することはないからである。ところで、真理が神においてあることは先に示されている。それゆえ、もしその真理が分有的に語られないのである以上、本質的に語られなければならない。したがって、神は自己の真理なのである。

  5. (Latin)

    さらに、哲学者によれば、真は固有の意味では事物において存在するのではなく精神において存在するのではあるが、事物が固有の本性の活動を固有な仕方で伴う限りにおいて、事物が真なる事物と語られることはある。だから、アヴィケンナは自分の『形而上学』において、事物の真理とはそれぞれの事物に属する安定した存在の固有性のことであると述べているが、それはそのような事物が本性上自己について真なる評価を生ぜしめる限りの、また、神的精神のうちにある自己に固有の根拠を事物が模倣している限りでのことなのである。ところが、神は自己の本質である。したがって、知性の真理について語ろうとも事物の真理について語ろうとも、神は自己の真理なのである。

  6. (Latin)

    さてこのことは主の権威によっても確証されている。すなわち、『ヨハネ福音書』14章6節で、主は自分について「私は道であり、真理であり、いのちである」と語っているのである。





第 61 章

神は最も純粋な真理であること

  1. (Latin)

    さて、このことが示されると、神には純粋な真理があり、それにはいかなる虚偽や誤りも混じることができないことが明らかである。

  2. (Latin)

    というのは、真理は虚偽と両立しない。それは白さと黒さが両立しないようなものである。ところで、神は単に真であるだけでなく、真理そのものである。したがって、神のうちには虚偽はあり得ないのである。

  3. (Latin)

    さらに、知性は何であるのかを認識することにおいて誤らない。それは感覚も可感的な固有対象については誤らないのと同じである。ところで、神的知性の認識はすべて何であるのかを認識している知性の様態にあることが先に示されている。したがって、神的認識において誤謬や誤りや虚偽が存在することは不可能である。

  4. (Latin)

    さらに、知性は第一基本原理について誤謬を犯すことはなく、その第一基本原理から推論することによってそれへと進む結論において誤謬を犯すことがある。ところで、神的知性が推論的あるいは推移的ではないことが先に示されている。したがって、神のうちに虚偽あるいは誤りはあり得ないのである。

  5. (Latin)

    さらに、ある認識力が高次であればあるほど、その力の固有対象はより多くのものを自己のうちに含む普遍的なものとなる。だから、視覚が付帯的に認識することを共通感覚や想像力は自分の固有対象のもとに含まれるものとして把握するのである。ところで、神的知性の力は認識における崇高さの極にある。それゆえ、すべての認識されうることがらは神的知性に対しては、それに固有な意味での付帯的でない自体的な認識されうることがらとして関係づけられている。ところが、このようなことがらにおいて認識力は誤謬を犯すことがない。したがって、認識されうることがらのどれにおいても、神的知性が誤謬を犯すことは不可能なのである。

  6. (Latin)

    さらに、知性的徳は認識における知性の何らかの完全性である。ところで、知性的徳に従えば知性が偽を述べるということは生じず、常に真を述べる。なぜなら、真を述べるということは知性の善き活動であり、活動を善にするということは特に属するからである。ところで、神的知性はその本性によって、人間的知性が徳という習態によって完全であるよりも、より完全である。神的知性は完全性の極にあるからである。したがって、神的知性には虚偽はあり得ないということになる。

  7. (Latin)

    さらに、人間的知性の持つ知識は何らかの仕方で事物を原因とする。だから、知られうることがらの方が人間的知識の尺度であるということが出てくる。なぜなら、知性において識別判断されることが真であるのは事物が一定のあり方をしているからであって、その逆ではないからである。ところで、神的知性は自己の知識を通じて諸事物の原因である。だから、その知識の方が諸事物の尺度でなければならない。それはちょうど、技術知が人工物の尺度であって、人工物のそれぞれは技術知と調和している限りにおいて完全であるの同様である。それゆえ、そのような人工物と人間的知性との関係のように、神的知性は諸事物に関係しているのである。ところで、人間的知性と事物との間の非相等性を原因とする虚偽というものは事物の中にあるのではなくて、知性の中にある。それゆえ、もし神的知性と諸事物の間に完璧な合致がないとすると、神的知性の中にではなくて諸事物の中に虚偽があることになるであろう。だが、諸事物の中にも虚偽はないのである。なぜなら、それぞれのものは幾分かの存在を持つ限りにおいて、幾分かの真理を持っているものだからである。したがって、神的知性と諸事物との間には何の非相当性もないし、神的知性には何の虚偽もあり得ないのである。

  8. (Latin)

    同じく、真が知性の善であるように、偽はそれの悪である。というのは、われわれは自然本性的に真を認識することを欲求し、偽において誤ることを避けるからである。ところで、神において悪が存在し得ないことは、先に証明されている。したがって、神において虚偽はあり得ないのである。

  9. (Latin)

    このことから、『ローマ人への手紙』3章4節では「神は真実である」と語られ、『民数記』23章19節では「神は人間のように偽ることはない」とあり、『ヨハネ第一の手紙』1章5節では「神は光であり、彼のうちには何の闇もない」と語られているのである。





第 62 章

神的真理は至高の第一真理であること

  1. (Latin)

    今示されたことがらから明らかに、神的真理は至高の第一真理であるということが得られる。

  2. (Latin)

    というのは、哲学者の『形而上学』第2巻において明らかなように、存在における事物のあり方に応じて、真理における事物のあり方がある。そしてこれは真と存在者とが相互に随伴するからである。というのも、真があるのは存在するものが存在すると語られるとき、あるいは存在しないものが存在しないと語られるときだからである。ところで、神的存在は第一の最も完全な存在である。したがってまた、その真理も至高の第一真理なのである。

  3. (Latin)

    同じく、或るものにその本質を通じて適合するものは、最も完全な仕方でそれに適合している。ところが、真理は神に本質的に帰属させられるものであることは、先に示されている。したがって、神の真理は至高の第一真理なのである。

  4. (Latin)

    さらに、われわれの知性の中に真理が存在するのは、知性が知性認識された事物に合致していることによる。ところで、相等性の原因が一性であることは『形而上学』第5巻で明らかである。したがって、神的知性においては知性と知性認識されるものとは完璧に同じであるから、神の真理は至高の第一真理であることになろう。

  5. (Latin)

    さらに、それぞれの類において尺度であるものはその類において最も完全なものである。だからすべての色は白によって測られるのである。ところで、神的真理はすべての真理の尺度である。というのも、われわれの知性の真理は魂の外に存在する事物によって測られるのだが、それはわれわれの知性は事物と調和していることから真なる知性であると語られるからである。それに対して、その事物の真理は、以下で証明されることになるように、諸事物の原因である神的知性に即して測られる。それは人工物の真理が技術者の技術知によって測られ、たとえば箪笥が真なる箪笥になるのは技術知の調和しているときであるのと同様なのである。ところで、神は第一の知性であり第一の可知的なものであるから、どのような知性であっても知性の真理は神の真理によって測られるのでなければならない。哲学者が『形而上学』第10巻で伝えているように、それぞれのものはそれの類の中の第一のものによって測られるからである。したがって、神的真理は第一の、至高で最も完全な真理なのである。





第 63 章

神から個物の認識を除去しようとする者の諸論拠

  1. (Latin)

    さて、神的認識の完全性から個物の知を除去しようとつとめた人々がいる。彼らは七つの方途でこのことを確証するための議論を行っている。

  2. (Latin)

    第一の方途は個物性の条件そのものによるものである。すなわち、個物性の原理は指定された質料であるから、あらゆる認識が何らかの類似化によって生じるとしたら、個物は非質料的力のどれによっても認識され得ないと思われる。それゆえ、われわれにおいても、想像力や感覚などの質料的器官を用いる能力だけが個物を把握するのであって、われわれの知性は非質料的であるが故に個物を認識しないのである。それゆえなおさらのこと、神的知性は質料からもっとも離れているのであるから、個物を認識するものではないのである。だから、いかなる様態においても、神が個物を認識しうるとは思われないのである。

  3. (Latin)

    第二の方途とは、個物が常に存在するのではないということである。そうだとすると、個物が神によって常に知られているのか、あるいは知られているときと知られていないときがあるのかのいずれかであることになる。だが、前者はあり得ない。なぜなら、存在しないものについては知識はあり得ないからである。というのも、知識は真なるものだけに関わるのであるが、存在しないものは真であることができないからである。また、後者もあり得ない。なぜなら、神的知性の認識はまったく多様性がないことが先に示されているからである。

  4. (Latin)

    第三の方途は、個物のすべてが必然的に生じるのではなく、偶然的に生じる個物があるということによるものである。だから、その偶然的に生じるものについては、それが存在する時にしか確実な認識はあり得ない。というのも、確実な認識とは誤ることのない認識であるが、偶然的なものに関する認識はすべて、それが未来のことである時には、誤りうるからである。実際、認識において保持されているkとと反対のことが生起しうるのであって、もしその反対のことが生起し得ないのであれば、それはすでに必然的なことがらになってしまっていることになるのである。だから、未来の偶然事についても、われわれにおいては知識はあり得ず、何らかの推測的評価があるだけなのである。ところが、先に示されているように、神の認識はすべて最も確実で誤ることがないと想定すべきである。また、これも先に述べられたように、神の不変性からして、神が何かを新しく認識し始めるということも不可能である。したがって以上から、偶然的な個物を神は認識しないということが帰結すると思われるのである。

  5. (Latin)

    第四の方途は、ある種の個物は意志を原因としているということによるものである。だが、結果はそれが実際に存在する以前には、その原因においてしか認識され得ない。というのは、結果はそれ自体で存在し始める前には、原因においてしか存在し得ないからである。ところが、意志が知っていることがらを認識しているのは、それらに権能を有している者である意志している人だけである。したがって、意志を原因としていているような個物については、神が永遠の知を有することは不可能であると思われるのである。

  6. (Latin)

    第五の方途は、個物の無限性によるものである。すなわち、無限である限りでの無限は知られない。というのは、認識されるものはすべて認識者の把握のもとで何らかの仕方で測られるのであり、その測るということは測られた事物の何らかの確定以外の何ものでもないからである。それゆえ、あらゆる技術知は無限なものを拒絶するのである。ところが、個物は少なくとも可能的には無限である。したがって、神が個物を認識することは不可能であると思われる。

  7. (Latin)

    第六の方途は、個物の下等さそのものによる。すなわち、何らかの仕方で知識の高貴さは知られうるものの高貴さによって評価されるのであるから、知られるものの下等さも知識の下等さへと流れ出てゆくように思われる。ところが、神的知性は最高度に高貴な者である。したがって、神が個物の中の最も下等なことがらを認識するといったが、神的知性の高貴さと両立しないのである。

  8. (Latin)

    第七の方途は、ある種の個物のうちに見いだされる悪性によるものである。すなわち、認識されていることがらは或る意味で認識者のうちにあるのであるから、神のうちに悪があり得ないことが先に示されている。そうだとすると、神は悪と欠如をまったく認識しないのであって、可能態にある知性だけがそれらを認識するということが帰結するように思われる。なぜなら、欠如は可能態においてしか存在し得ないからである。そしてこのことからは、そのうちに悪や欠如が見いだされるような個物についての知を神は持っていないということが帰結するのである。





第 64 章

神的認識について語るべきことがらの順序

  1. (Latin)

    さて、以上の誤謬を排除するために、さらに神的知識の完全性を明らかにするためには、今述べられた個々のことがらについて丁寧に真理を探究し、真理に対立していることがらを排除しなければならない。そこで、われわれは次のことを示すことにしよう。

    第一に、神的知性が個物を認識していること。

    第二に、現実態にはないことがらを認識していること。

    第三に、未来の偶然事を誤らない認識によって認識していること。

    第四に、意志の運動を認識していること。

    第五に、無限を認識していること。

    第六に、存在者のうちの下等なものや最小のものもどれでも認識していること。

    第七に、悪やあらゆる欠如あるいは欠陥をも認識していること。





第 65 章

神は個物を認識していること

  1. (Latin)

    そこで第一に、個物の認識が神に欠けていることは不可能であることを示すことにしよう。

  2. (Latin)

    というのは、先に示されているように、神は自分が他のものにとっての原因である限りにおいて他のものを認識している。ところで、神の結果とは個的事物である。というのは、神は諸事物が現実態においてある限りにおいてその事物の原因であるのだが、『形而上学』第7巻において証明されているように、普遍は自存する事物ではなく個物においてしか存在を有していないからである。したがって、神は自己以外の事物を、単に普遍的にではなく、個別的にも認識しているのである。

  3. (Latin)

    同じく、事物の本質を構成している諸原理が認識されることによって、必然的にその事物が認識される。たとえば、理性的魂と一定の種類の物体とが認識されると、人間が認識されるのである。ところで、個別的本質を構成しているのは指定された質料と個体化された形相である。たとえば、『形而上学』第7巻において明らか内容に、人間の本質が魂と身体とから構成されているように、ソクラテスの本質はこの身体とこの魂とから構成されているのである。それゆえ、人間の定義には魂と身体とが入るように、ソクラテスを定義することが可能であるとすれば、その定義にはこの魂とこの身体とが入るのである。したがって、質料、質料がそれによって指定されるもの、質料において個体化されている形相、これらのものの認識が備わっている者には、個体の認識が欠けているということはあり得ない。ところが、神の認識は質料と個体化している付帯性と形相にまで到達している。というのは、神の知性認識とは神の本質なのであるから、どのような様態であろうとも神の本質のうちに存在しているすべてのものを神は知性認識している。神は存在の第一の普遍的原理である以上、どのような様態であろうとも存在を有するすべてのものは、神の本質を第一の起源として、その中に潜在的に存在している。そして、質料は可能態にある存在者であり付帯性は他者の内にある存在者である以上、それらが神のうちに潜在的に存在しているすべてのものの中に入らないわけではないのである。したがって、個物の認識を神が欠いているのではない。

  4. (Latin)

    さらに、類の本性が完全に知られ得るのは、類の第一の種差と固有の特性とが認識される場合だけである。たとえば、数の本性は奇数と偶数ということが知られないならば完全に知られることはないであろう。ところが、普遍と個物とは存在者の種差あるいは自体的特性である。それゆえ、神は自己の本質を認識しながら存在者の共通的本性を完全に認識しているのであるから、普遍と個物とを完全に認識しているのでなければならない。ところが、普遍については、普遍性の概念を認識しながら人間や動物といった普遍的事物を認識していないとしたら、完全に普遍を認識したことにならない。それと同じように個物についても、個物性の概念を認識しながらこれやあれやの個物を認識していないとしたら個物を完全に認識したことにならないであろう。したがって、神は個別的事物を認識しているのでなければならない。

  5. (Latin)

    さらに、神が自身の存在そのものであるように、自身の認識であることはすでに示されている。ところで、神が自己の存在であることからは、神を存在の第一起源として、その内に存在のすべての完全性が見いだされるのでなければならないことが、すでに確保されている。それゆえ、神の認識を認識の第一の源として、その内に認識のすべての完全性が見いだされるのでなければならない。ところで、神に個物の知が欠けているとしたら、この事態が成立していないことになるであろう。というのは、ある種の認識者の持つ完全性はこの点にあるからである。したがって、神が個物の知を持っていないということは不可能なのである。

  6. (Latin)

    さらに、秩序づけをもつすべての力において、上位の力は多くのものに及びながらそれ自体は一であるに対して、下位の力はより少数のものに及びながらそれらに関して多数化されているということが見いだされる。たとえば、想像力と感覚において明らかであって、想像力という一つの力が五つの感覚の力が認識することのすべてとさらに多くのことに及んでいるのである。ところで、神のうちの認識力は人間のうちの認識力よりも上位にある。それゆえ、人間が知性と想像力と感覚というさまざまな力によって認識することのどれをも、神は一つの単純な神的知性によって認識するのである。したがって、われわれが感覚と想像力とによって把握している個物を、神は認識しうるものなのである。

  7. (Latin)

    さらに、神的知性はわれわれの知性のように事物から認識を得ているのではなく、後に示されるように、その知性が自身の認識を通じて事物の原因なのである。この意味で、神が他の事物について持っている認識は実践的認識のあり方に即している。ところが、実践的認識が完全であるのは、その認識が個物にまで到達している場合だけである。というのは、実践的認識の目的ははたらきであるが、はたらきとは個物において存在するからである。したがって、他の事物について神が持つ神的認識は個物にまで及んでいるのである。

  8. (Latin)

    さらに、第一に動かされ得るものは知性と欲求とを通じて動かす動者によって動かされるということが、先に示されている。ところで、何らかの動者が知性を通じて運動の原因となりうるのは、動かされうるものをそれが本性的に場所的に動かされる限りにおいて認識している場合だけである。ところで、これはその動かされうるものが今・ここに存在するかぎりでのことであるから、したがってそれが個物である限りでのことである。それゆえ、第一に動かされ得るものの動者である知性は、その第一に動かされ得るものが個物である限りにおいてそれを認識している。さて、この動者は神であると措定されるか、あるいは何か神以下のものであると措定されるかのいずれかである。前者の場合には求めている主張が得られることになる。後者の場合には、そのような動者の知性が自分の力で、われわれの知性では不可能な個物を認識できるとすると、神の知性はいっそうのことそれができるということになるであろう。

  9. (Latin)

    同じく、現実態が可能態よりも誉れあるものであるように、作用者は受動者や作用の結果よりも誉れあるものである。それゆえ、下位の段階にある形相は作用することによってより高い段階にある自己との類似性を生み出すことができない。それに対して、上位の形相は作用することによってより下位の段階にある自己との類似性を生み出すことはできるであろう。たとえば、星の不可滅の力は月下の世界の可滅的形相を生み出しているが、可滅的な力の方は不可滅の形相を生み出すことはできないのである。ところで、すべての認識は認識するものと認識されたものとの類似化によって生じるのであるが、次の点で違いがある。すなわちその類似化が、人間的認識においては可感的事物が人間的認識力に作用することによって生じるのに対して、神の認識においては逆に神的知性の形相が認識される事物に作用することによって生じるのである。それゆえ、可感的事物の形相は自己の質料性によって個体化されているので、自己の持つ個体性との類似性を完璧に非質料的であるところまで導くことができず、質料的器官を用いる力にまでしか導き得ないのである。だが、その可感的事物の形相が知性にまで導かれるのは、質料の諸条件から解き放たれている限りでの能動知性の力を通じてである。だから、可感的形相のもつ個体性の類似性は人間的知性にまでは到達しないのである。それに対して、神的知性の原因性は最小の事物にまで到達しているのである以上、神的知性の類似性はその最小の事物にまで到達しており、可感的で質料的な形相の個体性にまで到達している。したがって、人間的知性には不可能であるが、神的知性は個物を認識し得るのである。

  10. (Latin)

    さらに、哲学者はエンペドクレスに反対して、人間でさえも認識している個体を神が認識しないとしたら神はもっとも愚かなるものになってしまうという不都合を持ち出しているが、[神の個体認識を否定するならば]この不都合が帰結することになってしまうであろう。

  11. (Latin)

    a)さて、この真理が証明されたが、この真理は聖書の権威によっても保持される。すなわち、『ヘブライ人への手紙』4章13節で「彼の眼前で不可視なものは何もない」と述べられている。

    b)また、この真理と反対のことが『集会の書』16章16節で排除されている。すなわち、「『私は神から身を隠そう、いと高きところで私のことを誰が覚えているであろうか』と言ってはならない」とある。

  12. (Latin)

    ここで言われたことから、反対するためになされた反論がどのような意味で結論を正しく導いていないのかが明らかである。すなわち、神的知性がそれによって知性認識するものは、確かに非質料的なのであるが、それでも質料と形相の両方を生み出す第一原理として、その両者の類似なのである。





第 66 章

前掲の疑問の解決

  1. (Latin)

    次に、存在しないものの知も神に欠けているわけではないことを示さねばならない。

  2. (Latin)

    というのは、先に述べられたことから明らかなように、神的知識の知られる事物への関係は、知られうるもののわれわれの知識への関係と同じである。ところが、哲学者が『範疇論』で円の正方円化の例で提示しているように、その知られうるもののわれわれの知識への関係とは、知られうるものはわれわれがそれの知識を持っていなくても存在しうるような関係であって、その逆ではないのである。それゆえ、神的知識の神以外への事物への関係とは、実存しないものどもについても知識があり得るような関係なのである。

  3. (Latin)

    同じく、神的知性の他の事物への関係は技術者の作品の関係のようなものである。神は自己の知識を通じて事物の原因だからである。ところで、技術者は自己の技術知に認識において、まだ作品として存在していないものをも認識している。というのは、技術知の形相は作品が構成されるために、それの知識から外的な質料へと流れ出てくるからである。だから、まだ外的に出て来ていない形相が技術者の知識の内に存在しても何の不都合もないのである。したがって、この意味で神が存在しないものの知を持っていても何の不都合もないのである。

  4. (Latin)

    さらに、神は自己以外のものを自己の本質を通じて認識するが、それは自己の本質が自己から出てくるものどものの類似性である限りでのことであることは、先述のことから明らかである。ところで、神の本質は無限の完全性を持っていることも先に示されている。だが、他の事物はどれでも限定された存在と完全性を持っている。だから、他の諸事物の全体が神的本質の完全性と合致することは不可能である。それゆえ、神の本質が表象する力は存在するものよりもずっと多くのものに及ぶ。したがって、もし神が自己の本質の力と完全性を全体として認識しているのであれば、神の認識は存在しているものだけでなく、存在していないものにも及ぶのである。

  5. (Latin)

    さらに、われわれの知性は、何であるのかを認識するはたらきに即する限り、現実態において存在しないものでもその知を持ちうる。実際、ライオンや馬などのすべての動物がなくなったとしても、われわれの知性はライオンや馬の本質を把握できるのである。ところで、神的知性は定義だけでなく命題的なものをも、何であるのかを認識するものの様態で認識するということが、先に言われたことから明らかである。したがって、存在しないものどもについても知を持ちうるのである。

  6. (Latin)

    さらに、何らかの結果は、それが存在する前にでも、あらかじめその原因において知られうる。たとえば、天文学者は将来の触を天の運動の秩序を考察することであらかじめ知りうるのである。ところで、神のすべての事物についての認識は原因を通じてである。つまり、先に示されているように、すべてのものの原因である自己を認識することによって、他のことを自己の結果として認識するのである。したがって、まだ存在していないものどものを神が認識していることには何の不都合もないのである。

  7. (Latin)

    さらに、神の知性認識にはその存在と同様に継起がない。それゆえ、全体が同時に常に止まっており、これが永遠性の概念に属していることである。ところが、時間という持続は先後関係の継起において広がっている。それゆえ、永遠性と時間の持続全体との関係は、不可分なものと連続的なものとの関係である。ただ、ここで言う不可分なものとは、連続的なものの端という連続体のどの部分にもあるわけではないものではなく(この端という不可分なものとの類似性を有しているのは時間における瞬間である)、連続体の外にあるが連続体のどの部分あるいは連続体において指定されたどの点においても共存しているような不可分なもののことである。というのも、時間は運動を超えるものではないので、まったく運動の外にある永遠性は時間に属するものでは少しもないからである。

  8. (Latin)

    つぎに、永遠なるものの存在は欠落することは少しもないので、どのような時間あるいは時間の瞬間にも永遠性が現前的に臨在している。このことのいくらか例示となることを円において見てみよう。すなわち、円周の上の点は、不可分ではあるけれども、位置の点で別の任意の点と同時に共存してはない。なぜなら、位置の秩序が円周の連続性を作り出しているからである。ところで、円周の外にある中心は円周上のどの点に対しても、直接的に対立関係を持っているのである。それと同様に、時間のどの任意の部分に存在するものは何でも、それにいわば現前するものとしての永遠なるものと共存する。それに対して、それは時間の他の部分との関係では過去であったり未来であったりするのである。だが、何かが永遠なるものに現前的に共存することができるのは、全体としての永遠なるものに対してだけである。永遠なるものは継起の持続を持っていないからである。よって、時間の流れ全体を通じてなされていることのどれをも、神的知性は自己の永遠性全体において、それを現前するものとして見て取っているのである。とはいえ、時間のある部分でなされることが常に実存したことになるわけではない。したがって、時間の流れに即する限りまだ存在していないものについての知を神は有しているという帰結になるのである。

  9. (Latin)

    さて、以上の諸論拠から神が非存在者についての知を持っていることは明らかである。だが、神の知に対して非存在者のすべてが同じ関係を持っているわけではないのである。

  10. (Latin)

    実際、存在せず、存在したこともなく、将来存在しもしないことがらを神は、いわば自己の力にとって可能なことがらとして知っている。だから、それらを何らかの仕方でそれ自体において実存するものとして認識しているのではなく、神的能力においてのみ実存するものとして認識しているのである。だから或る人々は、これらのことがらを神は単純理解の知に即して認識していると言っている。

  11. (Latin)

    それに対して、われわれのもとに現前したり、かつて存在したり、将来存在するであろうことがらは、それが神の能力、その固有の原因、そしてそのことがら自体において存在する限りにおいて神によって認識されている。そしてこの認識は直視の知と言われている。というのは、われわれのもとのではまだ存在していない事物について、神はそれらの事物がその原因において有している存在だけを見ているではなく、それらの事物それ自体において有している存在をも見ているからである。ただそれは、神の永遠性がその不可分性のためにすべての時間に現前している限りのことである。

  12. (Latin)

    ただ、神は事物のどのような存在でも自己の本質を通じて認識する。なぜなら、存在せず存在したこともなくこれから存在しもしない多くのことがらを、神の本質は表象しうるものだからである。また、原因のうちに結果が先在するのは原因の持つ力によってであるが、神の本質はあらゆる原因の力の類似性である。また、それぞれの事物がそれ自体において有している存在は、神の本質を範型としてとりながらそれから導出されたものである。

  13. (Latin)

    以上のように、神は非存在者を認識するのはそれらが何らかの様態で存在を有している限りでのことである。つまり、存在を神の能力においてか、自己の原因においてか、自己自身において有している限りでのことである。そして、このことは知識の概念に対立するわけではないのである。

  14. (Latin)

    さて、前掲のことがらに聖書の権威も証言を与えている。すなわち、『集会の書』23章20節でわれわれの「主なる神には、万物が創造される前に」知られていたし「完成の後も同様である」と語られている。また、『エレミア書』1章5節では「あなたを胎内に形成する前から、私はあなたを知っていた」とある。

  15. (Latin)

    さて、或る人々は神は個物をその普遍的原因においてのみ認識しているのである以上、個物を普遍的に認識しているのだと言ったのであるが(この触というものを、この触である限りにおいて認識しているのではなく、それが衝に由来する限りにおいて認識している人はそうである)、そのように言わなければならないわけではないことは、前述のことから明らかである。というのは、神的認識はそれ自体において存在する限りでの個物にまで及んでいることが示されたからである。





第 67 章

神は未来の個別的偶然事を認識すること

  1. (Latin)

    さて以上から、偶然的な個物について神が永遠から誤ることのない知識を持っているが、だからといってそれらの個物が偶然的でなくなるわけではないということが、すでにある程度まで明らかにされうる。

  2. (Latin)

    というのは、偶然的なものが認識の確実性と背馳するのは、それが未来のことである限りであって、現在のことである限りにおいてではない。実際、偶然的なものが未来のことであるときには、存在しないことができるのであって、だからそれが未来に起こると評価している人の認識は誤りうる。実際、未来に起こると評価していたことが起こらないとすれば、その人は誤ることになるのである。だが、偶然的なものが現在のものであることからは、その時間にとってはそれが存在しないことはできない。もちろん、それは未来に存在しないことはできるが、しかしこれはすでに現在である限りでの偶然事に属しているのではなく、未来のことである限りでの偶然事に属しているのである。それゆえ、人が走っているのを見ているときには、この語られたこと[人が走っている]は確かに偶然事ではあるけれども、見ている感覚の確実性は何も失われないのである。したがって、現在であるかぎりでの偶然時にかかわるすべての認識は確実であり得るのである。ところで、先に示されたように、時間の流れの中でなされていることがらのそれぞれについて、神的知性の直視は永遠からかかわっているが、それはそのそれぞれが現在である限りでのことなのである。したがって、偶然事に関して神が永遠から誤ることのない知識を持っていても何の不都合もないということになるのである。

  3. (Latin)

    同じく、偶然事が必然的なものと異なるのは、それぞれが自己の原因のうちにおいて存在する限りのことである。つまり、偶然事は非存在も存在もどちらも原因から出てき得るという仕方で原因のうちに存在しているのに対して、必然的なことはその原因から存在しか出てき得ないのである。だが、その両者は、それ自体として存在することに即するならば、真がそれに基礎をもつ存在に関しては異なっていない。なぜなら、それ自体として存在することに即した偶然事には、未来において偶然時が存在しないことがあり得るとしても、存在と非存在の両方があるのではなく、存在だけがあるのである。ところで、神的知性は永遠から諸事物を認識しているのであるが、それは諸事物がその原因において有している存在に即してだけではなく、それ自身において有している存在に即しても認識している。したがって、神が偶然事について永遠で誤りのない認識を有していることには何の不都合もないのである。

  4. (Latin)

    さらに、必然的な原因からは結果が確実に帰結するように、偶然的な原因からも、十全で妨げられないならば、結果が確実に帰結する。ところで、上記のことから明らかなように、神は万物を知っているのであるから、偶然事の原因を知っているだけではなく、偶然事がそれによって妨げられ得ることがらをも知っている。したがって、偶然事が存在するのか存在しないのかを神は確実に知っているのである。

  5. (Latin)

    さらに、結果がその原因の完全性を越えるということは生じないが、それから欠けるということは時として生じる。それゆえ、われわれにおいては認識は事物を原因として持つのであるから、必然的なことがらを必然性の様態ではなく蓋然性の様態によって認識するということが時として生じる。ところで、われわれのもとでは事物が認識の原因であるが、神的認識の方はそれが認識される事物の原因である。したがって、それについて神が必然的な知識を持っていることがらが、それ自体としては偶然事であっても何ら差し支えないのである。

  6. (Latin)

    さらに、原因が偶然的であるのに、その結果が必然的であるということはあり得ない。というのは、そうだとすると、その原因が遠隔原因であっても結果が生じるということなってしまうからである。だが、最終的な結果の原因には、近接原因と遠隔原因がある。それゆえ、もし近接原因が偶然的であれば、たとえ遠隔原因が必然的であったとしても、その結果は偶然的でなければならない。たとえば、太陽の運動は必然的であるけれども、植物は中間的な偶然的諸原因のために、必然的に実を結ぶわけではないのである。ところで、神の知識はそれ自体で知られた事物の原因であるにしても、それは遠隔原因なのである。したがって、知られたことがらの偶然性は神の知識の必然性と背馳しないのである。中間的な諸原因が偶然的であるということが生じるからである。

  7. (Latin)

    同じく、神の知識が真で完全であるには、神が事物がこのように生起することを認識している、まさにそのような様態で事物が生起するのでなければならない。ところが、神は存在全体の原理としてその存在の認識者であるから、それぞれの結果を単にそれ自体においてだけではなく、それらのあらゆる原因への秩序においても認識している。ところが、偶然事のその近接原因への秩序というのは、その原因から偶然的に出てくるということなのである。だから、神はあることがらが生起すること、そしてそれが偶然的に生起することを認識している。したがって、神的知識が確実であり真理であるとしても、事物の偶然性は除去されないのである。

  8. (Latin)

    さて以上から、神における偶然事の認識に反対する議論をどのようにして反駁すべきであるのかが明らかである。すなわち、より後なることがらの変容によって、より先なるものに変容がもたらされることはない。というのは、第一の必然的諸原因から最終的な結果が偶然的なものとして出てくるということが生じるからである。ところで、われわれの場合と違って、神によって知られた事物は神の知識よりも先なるものではなく、より後なるものである。それゆえ、神によって知られていることが変容を受けることがあり得るとしても、神の知識が誤りうるとか、何らかの仕方で変容をするとかいうことが帰結するわけではないのである。したがって、変容を受けうることがらについてのわれわれの認識は変容を受けうるものであるから、それゆえにあらゆる認識において必然的にこのことが生じると見なされるのであれば、われわれは後件において欺かれていることになるのである。

  9. (Latin)

    さらに、「このことが起こるであろうと神は知っている、あるいは知っていた」と語られるときには、神的知識と知られた事物の間にある種の媒介が理解されている。すなわち、その語りがそこにある時間であり、その時間との関係のもとで、神によって知られていると語られていることがらが未来のこととなっている。だが、神的知識は永遠性の契機において実存しており、万物に対して現在という仕方で関係しているのであるから、その神的知識との関係では、先のことは未来ではないのである。この神的知識との関係では、語りの時間が媒介から除去されたとしても、それが実存しないものとして認識されていると言うべきではない(存在しないことが可能であるどうかが問われる問の場合にはそれでいいのであるが)。そうではなく、そのものは自身の実存において見られたものとして神によって認識されていると言われるべきなのである。このことが前提されると、前述の問すなわち「既に存在しているものは、その瞬間に関しては、存在しないことができない」ということは問題ではなくなるのである。それゆえ、そのうちにわれわれが語っている時間が、あるいは過去の時間が(これは「神が知っていた」と語る場合に指示されることであるが)永遠性と共存しているということから、間違いが生じているのである。それゆえ、過去や現在の時間の未来に対する関係が、それには決して適合しない永遠性に帰属させられることになる。こうしてこのことから、付帯性の点で誤るということが生じるのである。

  10. (Latin)

    さらに、それぞれのものが神のよって現在に見られているものとして認識されているとしたら、たとえば「ソクラテスが座っている」がソクラテスが座っていることを見られることから必然的であるように、神が認識していることが存在することが必然的になってしまうであろう、と考えられるかもしれない。だが、これは絶対的に必然でも、あるいはある人々が言うように、後件の必然性によって必然なのでもない。そうではなくて、条件の下での必然、あるいは推論の必然性による必然なのである。実際、「座っているのが見られているのであれば、その人は座っている」というこの条件文は必然である。それゆえまた、この条件文が「座っているのが見られているものは座っていることが必然である」という定言文に変換された場合には、その文が表現について理解され、複合されたものであるならば真であるが、事物について理解され分割されるならば偽であることは明らかである。このようにして、この論点において、また偶然事に関する神の知識に反対して議論されている同様の論点において、そのように主張する人々は複合と分割の点での誤っているのである。

  11. (Latin)

    さて、神が未来の偶然事を知っていることは聖書の権威によっても示される。つまり、『知恵の書』8章8節で、神的知恵について「しるしや不思議をそれが生じる前に知っており、時と世の出来事を知っている」と言われており、『集会の書』39章19節では「主の目に隠されたものは何もなく、世から世に目を注がれる」とあり、『イザヤ書』48章5節では「わたしはあなたに昔から前もって語った。ことが起こる前にあなたに告げておいた」とある。





第 68 章

神は意志の運動を認識していること

  1. (Latin)

    次に、神が精神の思考と心の意志とを認識していることを示さねばならない。

  2. (Latin)

    というのは、どんな様態であれ存在しているものを、神は自己の本質を認識している限りにおいて認識しているということが先に示されている。ところで、存在者には魂のうちに存在するものもあり、魂の外の事物において存在するものもある。それゆえ、神はこれらの存在者のあらゆる相違と、それらのもとに含まれていることがらとを認識している。ところで、魂のうちの存在者とは、意志あるいは思考において存在するものである。したがって、神は思考と意志とにおいて存在することがらを認識しているということになる。

  3. (Latin)

    さらに、神が自己の本質を認識しながら他のものを認識するということは、原因の認識を通じて結果が認識されることである。したがって、神は自己の本質を認識することで、自己の原因性が及ぶすべてのものを認識しているのである。ところで、その原因性は知性と意志のはたらきに及ぶ。というのは、どんな事物もその事物の何らかの存在がそれに由来する自己の形相によってはたらくのであるから、すべての形相もそれに由来する存在全体の源となる原理は、すべてのはたらきの原理でもなければならないからである。なぜなら、二次的諸原因の結果はより主要には第一諸原因へと還元されるからである。したがって、神は精神の思考と情動とを認識するのである。

  4. (Latin)

    同じく、神の存在は第一のものでありそのことゆえにすべての存在の原因であるが、それと同様に神の知性認識は第一にものでありそのことゆえにすべての知性的はたらきの原因である。それゆえ、神は自己の存在を認識することでどのような事物の存在も認識しているように、自己の知性認識あるいは自己の意志することを認識することですべての思考と意志とを認識しているのである。

  5. (Latin)

    さらに、先述のことから明らかなように、神はそれ自体において存在する限りの事物を認識するだけではなく、事物がその原因において存在する限りにおいても認識する。というのは、神は原因のそれの結果への秩序を認識するからである。ところで、人工物は技術者の知性と意志によって技術者のうちに存在しているが、それは自然物がそれの諸原因の力によってその原因のうちに存在しているのと同じである。というのは、自然物はその能動的力によって結果を自己に類似したものとするが、それと同様に、技術者は知性によって人工物に形相を導入し、その形相によって人工物は技術者の技術知と類似したものとなるからである。意図を通じてなされるすべてのことについて同様の論拠が当てはまる。したがって、神は思考も意志も知っているのである。

  6. (Latin)

    同じく、神は自己自身、われわれ、可感的実体に劣らず可知的諸実体をも認識している。というのは、知性的実体はいっそう認識され得るもの、つまりよりいっそうの現実態において実存するものだからである。ところで、可感的実体の形相化と傾向性とを神もわれわれも認識している。それゆえ、魂の思考とは魂の或る意味での形相化であり、また情動とは魂の何かに対するある種の傾向性であるから(というのも、自然物の傾向性をもわれわれは自然本性的欲求と呼ぶからである)、神は心の思考と情動を認識していることになる。

  7. (Latin)

    さて、このことは聖書の証言によっても確証される。すなわち、『詩篇』7篇10節で「こころとはらわたを調べる神」と言われ、『箴言』15章11節では「陰府も滅びも主の前にある。人の子らのこころはなおさらのことである」とあり、『ヨハネによる福音書』2章25節には「彼は何が人間のなかにあるのかを知っていた」とあるからである。

  8. (Latin)

    ところで、意志は自分の活動に対して主権をもっており、意志するか意志しないかはその主権によって意志の権能のうちにある。だから、その主権によって力が一つのものに限定されるということは排除されるし、外的作用者の原因による強制も排除される。しかしながら、意志の存在することと働くこととがそれに由来する上位の原因の影響が排除されるわけではない。だから、意志の運動に関しても、神という第一原因における原因性はそのまま残るのである。こうして、神は自己を認識しながら、このようなものを認識できるのである。





第 69 章

神は無限を認識すること

  1. (Latin)

    次いで、神が無限を認識していることを示さねばならない。

  2. (Latin)

    神が自己が事物の原因であることを認識することによって、自己以外のものを認識していることが上述のことから明らかである。ところで、神は無限なものも存在者であるならば、神は無限なるものの原因である。実際、神は存在するすべてのものの原因だからである。それゆえ、神は無限なものを認識し得るものなのである。

  3. (Latin)

    同じく、神が自分の力を完全に認識していることは上述のことから明らかである。ところで、力が完全に認識され得るためには、力がそれに及びうるすべてのものが認識されなければならない。力の量はその及ぶものに即して何らかの仕方で気づかれるものだからである。ところで、神の力は無限であることは先に示されているから、それは無限なものに広がる。したがって、神は無限なものの認識者なのである。

  4. (Latin)

    さらに、先に示されたように、どのような様態であっても存在するもののすべてに神の認識は及ぶとすれば、神は現実態における存在者だけではなく、可能態における存在者をも認識している。ところが、自然物の中には、現実態においてではないけれども可能態における無限があることは、哲学者が『自然学』第3巻において証明している。それゆえ、神は無限なものを認識しているのである。それは、数の原理である単位は、仮にそれが自分のうちに可能態において存在しているもののどれをも認識するとすれば、数の無限の種類を認識することになるのと同じである。というのは、単位は可能的にはすべての数だからである。

  5. (Latin)

    さらに、神は自己の本質をいわば範型としての媒介として他者を認識する。ところが、先述のように、その本質は無限の完全を備えているので、有限な完全性を持つ無限な数のことがらが神を範型とし得る。というのは、それらのどれか一つが範型の完全性と等しくなることはできないし、範型によってできたものがどれほど多くなっても、それらが範型の完全性と等しくなることもできないからである。こうして、新たな様態で神の本質を模倣し、範型によってできたものが可能となるということが常に存続することになる。したがって、神が自己の本質を通じて無限なるものを認識しても何の不都合もないのである。

  6. (Latin)

    さらに、神の存在は自身の知性認識である。したがって、先に示されたように、神の存在が無限であるのと同様に、その知性認識も無限である。ところで、有限なものと有限なものとの関係は、無限なものと無限なものとの関係と同じである。それゆえ、もし有限なものであるわれわれの知性認識に即してわれわれが有限なものを捉えることができるとすれば、神もそれの知性認識に即して無限なものを捉えることができるのである。

  7. (Latin)

    さらに、哲学者の『デ・アニマ』第3巻において明らかなように、最高度に可知的なものを認識している知性は、可知性の劣るものを認識する程度が低くなるのではなく、むしろ高くなる。これは、感覚と違って知性が卓越した可知性をもつものによって破壊されるのではなく、むしろ完成されるということに由来している。ところで、無限な数の存在者が捉えられているとしよう。それが無限な数の人間といった同じ種に属してもよいし、無限な数の種に属してもよい。そして、もし可能であれば、それらのいくらかあるいは全部が量に即して無限であるとしてみよう。だがそれでも、それらの全体が持つ無限性は神の無限性よりも小さい。なぜなら、それらの任意のものとそれらすべてを一括したものも、受け取られ何らかの種や類へと限定された存在を持つのであるから、或る点では有限だからである。それゆえ、先に示されたように端的に無限である神の無限性を欠いているのである。したがって、神は自己を完全に認識しているがゆえに、無限なもののうちのこの至高の無限性を認識していても何の差し支えもないのである。

  8. (Latin)

    さらに、ある知性はそれが認識においてより強力で明澄であればあるほど、一つのものが多くのものを認識できる。あらゆる力について、それがより強一からであればあるほどいっそう一つの力であるのと同様である。ところで、神的知性はその効力あるいは完全性において無限であることは先述のことから明らかである。それゆえ、それは自己の本質という一つのものを通じて無限のものを認識できるのである。

  9. (Latin)

    さらに、神的知性は、その本質もそうであるように、端的に完全である。それゆえ、その知性には可知的な完全性のどれも欠落してはいない。ところで、われわれの知性がそれとの関係で可能態にあるものとは、知性の可知的な完全性である。ところで、われわれの知性はすべての可知的形象に対して可能態にある。ところが、このような形象は無限にある。というのは、数や図形の種類は無限にあるからである。したがって、神はこのようなすべての無限なものを認識しているのである。

  10. (Latin)

    同じく、われわれの知性は可能態において無限なものを認識しうるものである(というのは、数の種を無限に多数化することができるからである)。だから、もし神的知性が現実態においても無限なことがらを認識していないとするなら、神的知性よりも人間的知性の方がより多くのものを認識し得るものであるということになってしまうか、あるいは、神的知性は可能態においては認識し得るものすべてを現実態においては認識していないということになってしまうであろう。このどちらも不可能であることは、先述のことから明らかなのである。

  11. (Latin)

    さらに、無限なものが認識と背馳するのは、無限なものが数えるということと背馳しているからである。なぜなら、無限なものの諸部分を数えるということは、矛盾を含意するものとして、それ自体で不可能である。ところで、何かをその諸部分を数えることを通じて認識するということは、或る部分の後に別の部分というように継起的に認識する知性に属しており、さまざまな部分を同時に把握する知性には属していない。それゆえ、知性が継起なしにすべてを同時に認識しているときには、有限なものを認識することの方が無限なものを認識することより困難だということにはならないのである。

  12. (Latin)

    さらに、量はすべて何らかの多数化において成立している。このために、量のうちの第一のものは数なのである。それゆえ、多数性によって何の相違も生じないところでは、量に随伴する何らかのことが何らかの相違を作り出すこともない。ところで、神の認識においては複数のものが一として認識される。というのは、複数のものが様々な形象によって認識されるのではなく、神の本質という一つの形象によって認識されるからである。だからまた、多くのものが同時に神によって認識されるのである。こうして、神の認識においては多数性によっては何の相違も生じることはない。それゆえ、量に随伴するものである無限によっても何の相違も生じないのである。それゆえ、神的知性にとっては、無限なものの認識と有限なものの認識の間には何の相違もないのである。こうして、神が有限なものを認識しているときに、無限なものも認識しているとしても何の差し支えもないのである。

  13. (Latin)

    さて、『詩篇』146篇5節で「また彼の知恵には数がある」と語られていることは、以上のことに符合しているのである。

  14. (Latin)

    a) さて、上記のことから、神的知性とは違ってわれわれの知性が無限を認識しないのはなぜなのかが明らかである。実際、われわれの知性と神的知性とは、この違いをもたらす次の四つの点で異なっている。

    b)第一に、われわれの知性は端的に有限であるのに、神的知性は無限である。

    c)第二には、われわれの知性は様々なものをさまざまな形象によって認識する。それゆえ、神的知性とはちがって、一つの認識に即して無限なものへと向かい得ないのである。

    d)第三は次のことに由来する。すなわち、われわれの知性は様々な形象によってさまざまなものを認識するために、多くのものを同時に認識しない。だから、無限なものを継起的に数え上げることによってしか認識し得ない。このようなことは、多くのことを一つの形象によって見られたものとして同時に見て取る神的知性には生じないのである。

    e)第四は、先に示されたように、神的知性は存在するものと存在しないものとにかかわっていることによる。

  15. (Latin)

    また、無限である限りでの無限は知られないという哲学者の言葉が今提起された主張に対立しないのはどのような意味においてなのかが明らかである。すあわち、哲学者自身がいっているように、無限の概念は量に適合しているので、無限はそれの諸部分を数え上げることを通じて知られるのであれば、無限としての無限が認識されていることになる。実際、これが量に固有の認識だからである。ところで、神はこのような仕方で認識するのではない。だから、そういわれているように神は無限を無限である限りにおいては認識しないのであって、先に示されているように、それがあたかも有限なものであるかのように無限が神の知識と関係している限りにおいて無限を認識するのである。

  16. (Latin)

    しかし、他の人の言葉を使うならば、直視の知識によって神は無限を認識するのではないことを知らねばならない。なぜなら、無限なものは現実態においては存在しもしないし、存在したこともないし、これから存在することもないからである。というのは、カトリックの信仰によれば、生成は始めと終わりの両方の側において無限ではないからである。そうではなく、神は無限なものを単純理解の知において知っているのである。つまり、存在せず、存在したこともなく、これから存在することもないが、被造物の能力においては存在している無限なことがらを神は知っている。そしてまた、存在せず、存在したこともなく、これから存在することもないが自分の能力において存在している無限をも神は知っているのである。

  17. (Latin)

    以上から、個物の認識に関わる問題に関しては、大前提を打ち壊して、個物は無限ではないのだとすることによって解答し得るのである。ただ、仮に無限であるとしても、それでも神はそれを認識しはするであろう。





第 70 章

神は下等なことがらを認識すること

  1. (Latin)

    さて、以上のことが確保されたので、神が下等なことがらを認識しており、そのことが神の知識の高貴さに反しないということを示さねばならない。

  2. (Latin)

    というのは、ある能動的な力はそれが強ければ強いほど、その作用はより遠くのものに及ぶ。これは可感的なものの作用においても明らかである。ところで、事物を認識することにおける神的知性の力は能動的力に類似していると見なされる。というのは、神的知性は事物からの受容によって認識するのではなく、むしろ事物へと流入することによって認識するからである。それゆえ、前述のことから明らかなように、知性認識することにおいて神的知性には無限の力があるから、その認識は最も遠いものにまで及ぶのでなければならない。ところで、あらゆる事物における高貴さと下等さとの段階は、高貴さの極にある神との近さと遠さに即してみとめられる。したがって、存在者のうちのどれほど下等なものであっても、神は自己の知性の最高の力のために、それを認識しているのである。

  3. (Latin)

    さらに、存在するものはすべて、存在することあるいは何らかのものとして存在することにおいて、現実態にあり、第一現実態の類似性であり、そのことゆえに高貴さを有している。また、可能態において存在するものは、現実態への秩序から、高貴さを分有しているものである。実際、可能態にあるものはその意味であると語られるのである。したがって、それぞれのものはそれ自体として考察される限り高貴なものであって、下等なものはより高貴なものとの関係において下等だと語られるのである。ところで、神と神以外の諸事物のうちで最も高貴なもののあいだの距離は、被造物のうちの最下位のものと最上位のものとの距離よりも短いということはない。それゆえ、この後者の距離によって神的認識が妨げられるのであれば、前者の認識はよりいっそう妨げられることになろう。そうすると、神は自己以外のものを何も認識しないということになってしまうが、このことは先に反証されているのである。したがって、もし神が自己以外の何かを認識し、それがどれほど高貴なものであろうとも、同じ理由によって神はどんなものでも、どれほど下等だと言われるものであっても、それを認識しているのである。

  4. (Latin)

    さらに、宇宙の秩序の善は宇宙のどの部分よりも高貴である。というのは、個々の部分は全体のうちにある善を目的として秩序づけられているのであって、このことは哲学者の『形而上学』第11巻において明らかである。それゆえ、もし神が何らかの高貴な本性を認識するのであれば、宇宙の善をもっとも認識しているのである。ところが、このことが認識され得るには、より高貴なものもより下等なものも両方が知られていなければならない。宇宙の秩序はそれら両方の間の距離と関係とに存しているからである。したがって、神は高貴なものだけではなく、下等だと評価されているようなものをも認識しているのである。

  5. (Latin)

    さらに、認識されたものの下等さが認識するものへと広がってゆくということは、自体的にはない。というのは、認識するものが認識されるものの形象を含むのは認識するものの様態に即してであるということが、認識の概念に属しているからである。ただ、付帯的には認識されたものの下等さが認識するものへと広がることはある。すなわち、下等なことがらを考察している間はより高貴なことがらを考えることから引き離されてしまうこともあるし、あるいは、下等なことの考察からそうあるべきではない何らかの情動へと傾くこともある。だが、このようなことが神においてはあり得ないことは、既述のことから明らかである。したがって、下等な事物の認識は神的高貴さを損なうのではなく、先に示されているように、万物を自己のうちにあらかじめ保持している限りで、その認識は神的完全性に属しているのである。

  6. (Latin)

    さらに、ある力が小さいと判断されるのは、それが小さいものへと及び得るからではなく、小さいものへと限定されているからである。というのは、大きなことへと及び得る力は小さいことにも及び得るからである。それゆえ、高貴なことと下等なことに同時に及びうる認識を下等であると判断すべきではなくて、われわれにおいて生じるように、下等なことにしか及び得ない認識をそう判断すべきなのである。というのは、われわれは神的なことがらと人間的なことがらを別の考察によって考察し、両方には別の知識がある。だから、より高貴なものとの比較において、より下位のものは下等であると評価されるのである。だが、神においてはこのようになっていない。というのは、神は自己自身と他のすべてのものを同じ知識と同じ考察において考察しているからである。したがって、神がどんな下等なことを認識しようとも、そのことから神の知識に何らかの下等さが帰属させられるわけではないのである。

  7. (Latin)

    さて、このことに『知恵の書』7章24-25節で神的知恵について語られていることが符合している。すなわち、「それは自分の純粋さのためにどこにでも達し、汚れたものは何も」それには「流れ込まない」とある。

  8. (Latin)

    また上述のことから、反対の立場で立てられた論拠が今示された真理と背馳しないことが明らかである。つまり、知識の高貴さは知識がそれに対して主要に秩序づけられていることがらに即してみとめられるのであって、知識のうちに入ってくるどんなことでもそのすべてに即してみとめられるわけではないのである。実際、われわれのもとにある知識のうちでもっとも高貴なものの中には、諸存在者のなかの最上位のものだけでなく、最下位のものも入るのである。つまり、第一哲学の考察は第一存在者から、諸存在者のなかの最後にある可能態にある存在者にまで及んでいるのである。だがそれと同じように、神的知識のもとには、諸存在者のなかの最下位のものが、主要に認識されるものとともに知られたものとして、含まれているのである。というのは、神的本質が神によって認識される主要なものであるが、そのうちで万物が認識されることが先に示されているからである。

  9. (Latin)

    また、この真理は哲学者が『形而上学』第11巻で述べていることとも背馳していないことが明らかである。すなわち、その箇所で哲学者は神的知性はこの知性の完成であるような自己以外の他者を、主要に認識されるものとしては認識しないことを示そうとしている。そしてこの仕方で彼は、下等なことがらは認識されるよりも、むしろ知られていない方がより善いと言っているのである。すなわち、下等なことの認識と高貴なことの認識が別の認識であるときには、下等なことの考察は高貴なことの考察を妨げると言っているのである。





第 71 章

神は悪を認識すること

  1. (Latin)

    いまや残されているのは、神が悪でさえも認識していることを示すことである。

  2. (Latin)

    さて、善が認識されると、それに対立する悪が認識される。ところで、神はすべての個別的な善を認識しており、その善に悪が対立している。したがって、神は悪を認識しているのである。

  3. (Latin)

    さらに、対立していることがらの概念は魂のうちでは対立していない。そうでないとすれば、対立するものどもが魂のうちに同時にあることはないであろうし、同時に認識されることもないであろうからである。それゆえ、悪がそれによって認識される概念は善と対立しておらず、むしろ善の概念に属している。それゆえ、先に証明されたように、神のうちにはその絶対的な完全性のゆえに善性のすべての概念が見いだされるとすれば、悪がそれによって認識される概念も神のうちにあることになる。こうして、神は諸々の悪でさえも認識し得るものなのである。

  4. (Latin)

    同じく、真とは知性の善である。というのは、何らかの知性が善である語られるのは真を認識していることによってだからである。ところで、善が善であることだけが真なのではなく、悪が悪であることも真である。それは、存在するものが存在することが真であるように、存在しないものが存在しないことも真であるのと同じである。それゆえ、悪の認識においても知性の善は成立している。ところで、神的知性は善性において完全であるから、知性的な完全性のうちの何もその知性に欠けていることはできない。したがって、悪の認識が神の知性に備わっているのである。

  5. (Latin)

    さらに、神が諸事物の間の区別を認識していることは、先に示されている。ところで、区別の概念の中には否定がある。というのは、区別されているものというのは、その一方が他方ではないものだからである。それゆえ、それ自身で区別されている第一のものどもは相互に自己の否定を含んでいる。この理由のために、それらのものにおける否定命題は、「いかなる量も実体ではない」という命題におけるように、直接的なのである。それゆえ、神は否定を認識している。ところで、欠如は特定の基体におけるある種の否定であることは、『形而上学』第4巻において示されている。それゆえ、神は欠如を認識している。したがってまた、しかるべき完全性の欠如に他ならない悪も認識しているのである。

  6. (Latin)

    さらに、神は事物のすべての種を認識している。このことは先に証明されているし、これを承認し証明している哲学者もいる。そうだとすると、神は対立することがらを認識しているのでなければならない。というのは、一つにはある類のうちの種は対立的であるからであるし、もう一つには、『形而上学』10巻で明らかなように、類の間の相違が対立的だからである。ところで、対立的なものどもにおいては形相と欠如の対立が含まれていることは、同じ箇所で確保されている。それゆえ、神は欠如を認識しているのでなければならない。したがって、悪を認識しているのでなければならないのである。

  7. (Latin)

    さらに、神が形相だけでなく質料も認識していることは、先に示されている。ところで、質料は可能態にある存在者なので、その可能態[能力]が及ぶものが認識されなければ完全に認識され得ない。これは、他のすべての可能態[能力]において生じているのと同様である。ところで、質料の可能態は形相と欠如の両方に及ぶ。というのは、存在することができるものは存在しないことができるからである。それゆえ、神は欠如を認識している。したがってまた、悪を認識しているのである。

  8. (Latin)

    同じく、もし神が何か自分以外のものを認識するとすれば、最善のものを最も認識する。ところで、宇宙の秩序とは、すべての個別的な善がそれを目的として秩序づけられているものである。ところが、宇宙の秩序の中には、何かそれ以外のものから生じることができる厄災を除去するために存在するものがある。たとえば、防衛のために動物に与えられているものにおいて明らかである。したがって、このような厄災を神は認識している。したがって悪を認識しているのである。

  9. (Latin)

    さらに、われわれにおいて悪の認識が非難されるのは、それ自体としての知識に含まれるものに即して、つまり悪について得られる判断に即してではなくて、付帯的に知識に含まれるものに即してである。つまり、人が悪の考察を通じて時として悪へと傾くことがある限りのことである。ところが、このようなことは神にはない。神が不変であることが先に示されているからである。したがって、神が悪を認識しているということを妨げるものは何もないのである。

  10. (Latin)

    さて、このことに次の言葉が符合している。すなわち、『知恵の書』8章(7章30節)では「神の知恵に悪意が打ち勝つことはない」とあり、『箴言』15章11節では「陰府とほろびは主の前で」と語られている。また、『詩篇』69篇6節では「私の罪過もあなたには隠れもないことです」とあるし、『ヨブ記』11章11節では、「彼は人間の虚栄を知っている。また、不正を見ながらそれを考察しないであろうか」とある。

  11. (Latin)

    だが、悪と欠如の認識に関して、神的知性とわれわれの知性は異なったあり方をしていることを知らねばならない。すなわちわれわれの知性の場合には、個々の事物を個々の固有で様々な形象を通じて認識するので、現実態において存在するものを可知的形象を通じて認識しているのであるが、知性はその形象を通じて現実態になっているのである。だからまた、可能態がそのような形象に対して時に可能態にある限りにおいて、その可能態をも認識する。こうして、人間の知性は現実態を現実態によって認識するように、可能態をも可能態によって認識するのである。そして、可能態は欠如の概念に含まれている。というのは、欠如はその基体が可能態にある存在者であるような否定だからである。そうすると、われわれの知性にとっては、可能態において存在することが本性的である限りにおいは、何らかの仕方で欠如を認識することが適合的なのである。ただし、現実態の認識それ自体から、可能態と欠如の認識が帰結すると語ることもできるのではあるが。

  12. (Latin)

    それに対して神的知性の場合には、いかなる様態においても可能態にないから、前述の様態では欠如を認識することもないし他の何かを認識することもない。というのは、もしそれが何かを自己自身ではないような形象を通じて認識するとすると、神的知性とその形象との関係は可能態と現実態の関係であるということが必然的に帰結することになってしまうからである。それゆえ、自己の本質という形象を通じてのみ知性認識するのでなければならないのである。したがって、神的知性が第一の知性認識されたものとして知性認識しているは、自己だけなのである。だが、自己を知性認識することにおいて他者を認識していることは先に示されている。それも現実態だけではなく、可能態と欠如をも認識しているのである。

  13. (Latin)

    そして、以上が哲学者が『デ・アニマ』第3巻で提示している次の言葉の意味なのである。すなわち、「悪や黒をどのようにして認識するのか。というのは、何らかの仕方で反対のものを認識しているからである。だが、可能態において認識しているものであり、それ自身において存在しているのでなければならない。だが、もし何かに反対のものが内在していない」(すなわち可能態において)「としたら、自己自身を認識しており、現実態において存在し、分離可能なものなのである」という言葉である。また、アヴェロエスの解説に従うべきではない。彼はこの言葉から現実態にのみある知性はいかなる様態においても欠如を認識しないということが帰結するのだと主張しようとしているのである。そうではなくて、そのような知性は欠如を何か他のものに対して可能態にあることを通じて認識するのではなく、自己自身を認識し常に現実態にあることを通じて認識するのだというのが、哲学者の言葉の意味なのである。

  14. (Latin)

    さらに次のことを知っておかねばならない。すなわち、神が自己を認識しながら個別的な善である他の存在者を認識しないという仕方で自己認識をするのであるとすると、神は欠如や悪をいかなる様態においても認識しないことになってしまうであろう。なぜなら、神自身という善にはどんな欠如も対立していないからである。というのは、欠如とそれに対立するものとは本性上同じものに関わっているから、その意味で純粋現実態であるものに対立している欠如は何もないのである。それゆえ、悪も神には対立するものではないのである。それゆえ、神が自己自身だけを認識すると仮定されるならば、自己自身という善を認識することおいて悪を認識するのではないことになる。だが、自己を認識することにおいて、本性上欠如がそのうちにあるような存在者を神は認識するのであるから、対立している欠如や個別的善に対立した悪を認識することが必然なのである。

  15. (Latin)

    また次のことも知っておかねばならない。神は自己を認識することにおいて他者を認識するがそこに知性の推移はないことが先に示されている。それと同様に、神は善を通じて悪を認識するのであっても、神の認識が推移的でなければならないというわけではないのである。というのは、善はいわば悪の認識の根拠だからである。それゆえ、善を通じて悪が認識されるというのは、事物がそれの定義を通じて認識されるのと同様であって、結論が原理から認識されるのとは違うのである。

  16. (Latin)"

    さらにまた、神が悪を善の欠如を通じて認識するとしても、神的認識の不完全性が生じるわけではない。なぜなら、悪というのは善の欠如である限りにおいてしか存在すると言われないからである。だから、この様態に即してのみ悪は認識可能なのである。というのは、それぞれのものは存在を持っている分だけ可認識性を持っているものだからである。


Shinsuke Kawazoe
平成15年9月2日