神は意志するものであること
神的知性の認識に属することがらが探究されたので、いまや残されているのは神の意志についての考察である。
神が知性認識するものであることから神が意志するものであることが帰結する。というのは、知性認識された善が意志の固有対象であるから、知性認識された善である限りでの善が意志されるものである。ところが、知性認識されたものは知性認識するものに対して語られる。したがって、善を善である限りにおいて知性認識しているものは意志するものであることが必然である。ところで、神は善を知性認識している。なぜなら、上述のことから明らかなように、神は完全に知性認識するものであるから、存在者を善の特質と同時に知性認識するからである。したがって、神は意志するものである。
さらに、何らかの形相が内在しているものはどれも、その形相を通じて実在の世界に存在しているものへの関係を有している。たとえば、白い木片はその白さによって或るものには類似しているが或るものには類似していないのである。ところで、知性認識するものと感覚するものには、知性認識された事物と感覚された事物の形相がある。すべての認識は何らかの類似性によるからである。それゆえ、知性認識するものと感覚するものには、実在の世界に存在する限りでの知性認識されたものと感覚されたものへの関係がなければならない。ところで、このことはそれらが知性認識したり感覚したりしていることによるのではない。というのは、そのことによってはむしろ、知性認識するものや感覚するものに対して諸事物の方が持っている関係がみとめられからである。知性認識することや感覚することは諸事物が知性や感覚のうちに存在することに即してあるからである。それに対して、感覚するものや知性認識するものの方が魂の外の事物に対して持っている関係は、意志と欲求を通じたものである。だから、感覚するものと知性認識するものはすべて欲求し意志するのである。だが、意志は固有の意味では知性のうちにある。したがって、神は知性認識するものである以上、意志するものでなければならないのである。
さらに、すべての存在者に随伴するものは存在者である限りでの存在者に適合する。ところで、このようなことは第一存在者であるものにおいて最もよくみとめられるのでなければならない。ところが、どのような存在者にも自己の完全性と自己の存在の保存を欲求するということが適合する。しかしながらそれは、それぞれのものに固有の様態で適合するのである。すなわち、知性的な存在者には意志を通じて、動物には感覚的欲求を通じて、感覚を欠いている存在者には自然本性的欲求を通じて欲求することが適合するのである。だが、欲求されているものをを持つものと持たないものとでは異なっている。つまり、持っていないものは欲求的力によってそれぞれの種類の欲望を通して、自己に欠けているものを獲得しようと志向する。それに対して、すでに持っているものは自己において休らうのである。それゆえ、神という第一の存在者にこのことが欠けていることはできないのである。したがって、神は知性認識するものである以上、それには意志が備わっており、それによって自己の存在と善性に満足しているのである。
同じく、知性認識は完全であればあるほど、知性認識するものにとってより快い。ところが、神は知性認識しており、その知性認識は最も完全であることは先に示されている。よって、神にとって知性認識はもっとも快いものである。ところで、知的な快は意志によって存在している。感覚的な快が欲望的欲求によってそんざいしているのと同じことである。したがって、神のうちには意志がある。
さらに、知性によって考察された形相が何かを動かしたり原因となったりするのは、意志を媒介とする場合だけである。意志の対象は目的と善であり、何かが作用するように動かされるのはその目的と善とによってだからである。それゆえ、観想的知性は動かすことをしない。また、評価を欠いた純粋な想像作用も動かすことをしない。ところが、神的知性の形相は他のものにおける運動と存在の原因である。以下で示されるように、神は事物に知性を通じて作用するからである。したがって、神自身が意志するものでなければならないのである。
同じく、知性を持つものにおいて、動かす力の中で第一のものは意志である。というのは、すべての能力をそれの活動へと向かわせるのは意志だからである。実際、われわれが知性認識するのはそれを意志するからであるし、想像するのもそれを意志するからであるし、他も同様なのである。こうなるのは、意志の対象が目的だからである。(ただし、知性が意志に対して目的という意志の対象を提示する点では、知性の方が意志を動かしている。だが、これは作出因と動因という様態ではなくて、目的因という様態においてなのである。)したがって、第一に動かすものには、意志を有するということがもっとも適合するのである。
さらに、自己の原因であるものは自由である。だから、自由であるものはそれ自体によって存在するものの特質を持っているのである。ところが、意志は作用をする点で第一に自由を持っている。というのは、人が意志的に作用をなす限りにおいて、どのような作用であろうとも、その作用を自由になしていると語られるからである。それゆえ、第一の作用者にはそれ自体によって作用するということがもっとも適合するのであるから、その第一の作用者には意志を通じて作用するということがもっとも適合するのである。
さらに、諸事物において目的と目的のために作用するものとは、常に一つの秩序において見いだされる。だから、人工物においても自然物においても、作用者に比例している近接目的もその作用者と同じ種にあるということになるのである。実際、技術者がそれによって作用する技術知の形相は質料のうちにある形相と同じ種であり、それが技術者の目的なのである。また、火を生み出している火がそれによって作用している形相は生み出された火の形相と同じ種であり、それが生み出すことの目的なのである。ところで、神にいわば同じ秩序に属するものとして相互に秩序づけられていると言えるようなものは神だけである。そうでなければ第一のものが複数存在することになるが、それとは反対のことが先に示されたからである。それゆえ、神自身は自己自身を目的として作用する第一のものである。したがって、神は欲求される目的というだけではなく、そう言えるとすれば、自己を目的として欲求しているものである。そして、神は知性認識しているものである以上、知性的欲求によって自己を欲求している。それゆえ、神のうちには意志があるのである。
さて、聖書の証言もこの神の意志を明言している。すなわち、『詩篇』134篇6節で「主は意志したことは、何であれすべてなした」と言われている。また、『ローマ書』9章19節では「かれの意志にだれが抵抗できるだろうか」とある。
神の意志は神の本質であること
さてこのこから、神の意志が神の本質に他ならないことが明らかである。
というのは、先に示されたように、神に意志するものであるということが適合するのはそれが知性認識するものである限りである。ところが、神が自己の本質によって知性認識するものであることが先に証明されている。したがって、神の意志は自身の本質そのものなのである。
さらに、知性認識が知性認識するものの完全性であるように、意志することも意志するものの完全性である。というのは、両方ともに作用者の中に留まる作用であって、熱化のように何かはたらきを受けたものへと移行する作用ではないからである。ところで、神の知性認識はその存在であることが先に証明されている。それは先示されているように、神的存在はそれ自身に即してもっとも完全であるので、付け加わるような完全性を何も許容しないからである。よって、神的意志作用も神の存在である。したがって、神の意志は神の本質でもある。
さらに、すべての作用者は現実態にある限りにおいて作用するのであるから、純粋現実態である神は自己の本質によって作用する。ところで、意志することは神のなんらかのはたらきである。よって、神は自己の本質によって意志するものでなければならない。したがって、神の意志は自身の本質なのである。
同じく、もし意志が神的実体に何か付加されたものであるとすると、神的実体は存在において十全な何かであるから、付帯性が基体に到来するような仕方で意志が神的実体に到来するということになるであろう。そうすると、神的実体と意志との関係は可能態と現実態との関係のようなものであることになり、神において複合が存在するという帰結になるであろう。だが、これらすべてのことが先に反証されている。したがって、神的意志が神的本質に付加されたものであることは不可能なのである。
神が主要に意志するものは神的本質であること
さてこのことからさらに、神的意志が主要に意志するものは神の本質であることが明らかである。
というのは、先述のように、知性認識された善が意志の対象である。ところで、神が主要に知性認識するのは神的本質であることも、先に証明されている。したがって、神的意志が主要に関わるのは神的本質なのである。
同じく、欲求されうるものと欲求との関係が動かすものと動かされるものとの関係のようなものであることは、先に述べられた。また、意志されるものと意志との関係も同様である。というのは、意志は欲求能力の類に含まれるからである。それゆえ、神的意志が主要に意志するものが神の本質そのもの以外のものであるとしたら、神的意志より上位の何か他のものがそんざいし、それが神的意志を動かしていることになるであろう。だが、これとは反対のことが前述のことがらから明らかなのである。
さらに、それぞれの意志しているものにとって、主要に意志されているものが意志することの原因である。実際、「私は健康になるために歩くことを意志している」と言うときには、われわれは原因を明らかにしていると考えている。そして「君はなぜ健康になることを意志している」のかと問われるならば、諸原因を指示する系列を進め、究極目的にまで至ることになる。そして、その究極目的が主要に意志されていることであって、それが意志することの自体的な原因なのである。それゆえ、もし神が自己以外の何かを主要に意志するとすれば、その何か他のものが神にとって意志することの原因であることになる。ところが、神の意志することは神の存在であることが先に示されている。それゆえ、先の何か他のものが神にとって存在の原因であることになるであろう。だが、これは第一存在者の概念に反するのである。
さらに、意志しているもののそれぞれにとって主要に意志されているものは、自己の究極目的である。目的がそれ自体で意志されるものであり、目的を通じて他のものが意志されるものとなるからである。ところで、究極目的とは神自身である。神自身が至高善であることが先に示されているからである。それゆえ、神の意志が主要に意志するものは神自身なのである。
さらに、それぞれの力はその主要対象に相等性に即して比例している。実際、哲学者の『天地論』第1巻において明らかなように、事物の力は対象に即して測られるからである。それゆえ、意志はその主要対象と等しく比例している。これは知性や感覚も同様である。ところで、神的意志に等しく比例しているものは、神の本質しかない。したがって、神的意志の主要な対象は神的本質なのである。
ところで、神的本質は神の知性認識であるし、神のうちに存在すると語られるもののすべてであるから、さらに神は自己が知性認識すること、自己が意志すること、自己が一であること、また何であれこのようなことを、同じ様態で主要に意志していることが明らかなのである。
神は自己を意志することにおいて他者をも意志すること
さてここから、神は自己を意志することにおいて他者をも意志することが示されうる。
というのは、目的を主要に意志することが属しているものには、その目的のために目的への手段を意志することが属している。ところで、神が諸事物の究極目的であることが、前述のことからある程度明らかである。したがって、神が自己が存在することを意志することによって、神を目的として秩序づけられている他者をも意志するのである。
同じく、それぞれのものはそれ自身のためにそれ自身によって意志され愛されているものの完全性を欲望する。実際、われわれがそれ自身のために愛するものを、可能な限りそれが最善であること、より善くなり多数化されることを意志するのである。ところで、神は自己の本質をそれ自身のために意志し愛している。だが、その本質はそれ自体で増えたり多数化しうるものではないことは先に述べられたことから明白であるので、神の本質が多数化されるというのは多くのものによって分有されるその類似性に即してである。したがって、神は自己の本質と完全性を意志し愛することによって、事物の多数性を意志しているのである。
さらに、何かをそれ自身に即してまたそれ自身のために愛するものはどんなものでも、引き続いてその何かがそこにおいて見いだされるものすべてを愛する。たとえば、甘さをそれ自体ために愛する人は、すべての甘いものを愛するはずなのである。ところで、神は自己の存在をそれ自身に即してまたそれ自身のために意志し愛していることが、先に示されている。ところで、神以外の他の存在はすべて類似しに即した神の存在の何らかの分有であることも、前述のことからある程度明らかである。したがって、神は自己を意志し愛することによって他者を意志し愛しているのである。
さらに、神は自己を意志することにおいて、自己のうちに存在しているすべてのものを意志している。ところで、神のうちには万物がそれら固有の根拠を通じて先在していることが、先に示されている。したがって、神は自己を意志することにおいて他者をも意志しているのである。
同じく、先に述べられたように、あるものの力がより完全であればあるほど、それの原因性はより多くのものに及び、またより遠くのものに及ぶ。ところで、目的の原因性とは他のものがそれのために欲望されるという点にある。それゆえ、目的がより完全でいっそう意志されるものであればあるほど、目的を意志しているものの意志はその目的の故により多くのものに及ぶ。ところで、神的本質はその善性と目的の観点でもっとも完全である。それゆえ、神的本質は事故の原因性を最高度に多くのものに押し広げ、その本質のために多くのものが意志されるようにするのである。そしてとりわけ神によって意志されるのであるが、それは神が神的本質を自己の力全体に即して完全に意志しているからである。
さらに、意志は知性に随伴する。ところが、神は自己の知性によって自己を主要に知性認識し、自己において他者を知性認識する。したがって同様の仕方で、神は主要には自己を意志し、自己を意志することにおいてすべての他者を意志するのである。
さて、このことは聖書の権威によって確証される。すなわち、『知恵の書』11章25節で「あなたは存在するもののすべてを愛している。そしてあなたが作られたもののどれをも憎まなかった」と言われているのである。
神は自己と他者を意志の一つの作用によって意志すること
さて、以上のことが確保されると、神は自己と他者を意志の一つの作用によって意志するということが帰結する。
というのは、すべての力は一つのはたらきあるいは一つの作用によって、対象と対象の持つ形相的特質とに向かう。たとえば、われわれは同じ見るはたらきによって光と光によって現実態において可視的となる色とを見ているのである。ところで、われわれが何かを目的だけのために意志しているときには、その目的のために欲望されているものが意志されるものであるという特質を受け取るのは目的からである。だから、目的と目的のために意志されるものとの関係は、光と色のような形相的特質と対象との関係のようなものである。それゆえ、先に示されたように、神は他者のすべてを目的としての自己のために意志しているのである以上、意志の一つの作用によって自己と他者とを意志するのである。
さらに、完全に認識され欲望されるものはその力全体に即して認識され欲望されている。ところで、目的の力は目的がそれ自体において欲望される点においてだけでなく、他のものが目的のために欲求されうるものとなる点においてもみとめられる。それゆえ、目的を完全に欲望するものはその両方の様態で目的を欲望することになる。ところで、意志している神の作用のうちに、自己を意志しているけれども自己を完全に意志してはいないような作用を措定すべきではない。神には不完全なものは何もないからである。それゆえ、神が自己を意志する作用のどれにおいても、神は自己を独立的に、他者を自己のために意志しているのである。だが、自己以外のものを神が意志するのは自己を意志する限りにおいてであることが、先に証明されている。したがって、神が自己と他者を意志の別々の作用によって意志しているのではなく、一つの同じ作用によって意志しているのである。
さらに、上述のことから明らかなように、認識力の作用において推移がみとめられるのは、われわれが諸原理を別に認識し、その原理から結論へと至ることに即してである。実際、原理そのものを認識しているときにその原理そのものにおいて結論を直観しているならば、推移というものはなくなるのであって、それは鏡において何かを見ている時にも推移がないようなものである。ところで、観想的認識力における原理と結論との関係が、はたらきをなし欲求する力において目的と目的のための手段との間にある。実際、われわれが原理を通じて結論を認識しているのと同じように、目的から目的への手段への欲求とはたらきとが出てくるのである。それゆえ、人が目的と目的のための手段とを別々に意志するとすれば、その人の意志にはある種の推移があることになろう。ところが、神においてはこのことは不可能である。神はあらゆる運動の外に存在するからである。したがって、神は自己と他者とを同時に、意志の同じ作用によって意志することが帰結する。
同じく、神は自己を常に意志しているから、もし自己と他者を別の作用において意志しているとすると、不可能なことが帰結することになる。つまり、一つの単純な能力には同時に二つのはたらきは属さないからである。
さらに、意志のすべての作用において、意志されたものと意志するものとの関係は、動かすものと動かされるものの関係である。それゆえ、もし神的意志に自己以外のものを意志する作用が存在し、それが自己を意志する意志とは異なっているとすれば、神のうちに神的意志を動かしている何か他のものがあることになろう。これは不可能なのである。
さらに、神の意志するはたらきはその存在であることが先に証明されている。ところで、神にはただ一つの存在しかない。したがって、神にはただ一つの意志するはたらきしかないのである。
同じく、意志するということが神に適合するのは、知性認識するものであることに即してである。それゆえ、その本質が万物の範型である限りにおいて神が自己と他者を一つの作用において知性認識するのと同様に、神の善性がすべての善性の根拠であるかぎりにおいて、神は自己と他者とを一つの作用において意志するのである。
意志されるものの多数性が神的単純性と背馳しないこと
さて以上から、意志されるものの多数性が神的実体の一性と単純性と背馳しないことが帰結する。
すなわち、作用は対象に即して区別される。それゆえ、もし神が意志している多数のものが神のうちに何らかの多数性を持ち込むことになるとしたら、神には意志のはたらきがただ一つではないことになるであろう。これは先に明らかにされていることに反している。
同じく、神が自己の善性を意志する限りにおいて他者を意志するということが既に示されている。それゆえ、何らかのものが意志に関係づけられるのは、そのものが神の善性によって包括されている様態に即している。ところで、万物は神の善性においては一である。なぜなら、神以外のものは神のなかでは神の様態に即して存在しているからである。すなわち、上述のことから明らかなように、質料的なものは非質料的な仕方で、多くのものは一なる仕方で存在しているのである。それゆえ、意志されるものの多数性によって神の実体が多数化されるわけではないことになる。
さらに、神的知性と意志とは単純性において等しい。両方が神的実体であることが証明されているからである。ところで、知性認識されるものの多数性によって神的本質の中に多数性が導入されることはないし、その知性のうちに複合が導入されることもない。それゆえ、意志されていることの多数性によっても、神的本質の中に多様性が導入されることもないし、その意志の中に複合が導入されることもないのである。
さらに、認識と欲求の間には次の相違がある。すなわち、認識は認識されたものが何らかの仕方で認識者のうちに存在することによって生じるのに対して、欲求の方はそうではなく、むしろ逆に欲求が欲求される事物へ向かい欲求する者がその事物を求めたりそのうちで休らったりすることによって生じるのである。だから、欲求と関係する善と悪は事物のうちに存在するのに対して、哲学者が『形而上学』第6巻において述べているように、認識に関係する真と偽は精神のうちに存在するのである。ところで、或るものが多数のことに関係しているということはそのもの単純性と背馳してはいない。なぜなら、単位(一性)が多くの数の原理だからである。したがって、神が意志しているものが多数であることが神の単純性と背馳するわけではないのである。
神的意志は個々の善に及ぶこと
以上からまた、われわれは神的単純性を保持しようとして次のように言うべきではないことが明らかである。すなわち、神は自己が自身から流れ出てくることのできる善の原理であることを意志している限りにおいて、他の善を何らかの普遍性においてを意志しているのであって、それらを個別的に意志しているのではないのだ、と言うべきではないのである。
というのは、意志するはたらきは意志する者の意志される事物への関係に即している。ところで、神が多くのものに、それも個別的な多くのものに関係づけら得るということを神的単純性が妨げるわけではない。神は個物にとってさえも最善のものあるいは第一のものだと語られるからである。したがって、神の単純性によって、神が自己以外のものを特種な仕方であるいは個別的に意志することは妨げられないのである。
同じく、神の意志は、神にとって意志する根拠である神的善性への秩序から善性を他者が分有している限りにおいて、他者と関係している。ところで、存在もそうであるように、神的善性から善性を得てきているのは諸々の善の全体だけではなく、その個々の善もそうなのである。したがって、神の意志は個々の善に及ぶのである。
さらに、哲学者の『形而上学』第11巻によれば、宇宙の中に見いだされる秩序の善には二つがある。一つは、宇宙が宇宙の外にあるものに対して秩序づけられていることによるものである。たとえば、軍隊が指揮官に秩序づけられている場合がそうである。もう一つは、宇宙の諸部分が相互に秩序づけられていることによるものである。軍隊の諸部分の間の秩序がそうである。ところで、第二の秩序は第一の秩序のためにある。さて、神は自己を目的であるものとして意志することから、目的としての自己に対して秩序づけられている他者を意志していることが、先に証明されている。それゆえ、神は宇宙全体の持つ自己への秩序の善と宇宙の諸部分相互の秩序の善を意志している。ところが、秩序の善は個々の善から出てくる。したがって、神は個々の善をも意志しているのである。
さらに、もし神が宇宙がそれから成立している個々の善を意志していないとすると、宇宙の中の秩序の善は偶然によることになる。というのは、宇宙のある一部が個々の善のすべてを宇宙の秩序へと組み立てることは不可能であって、宇宙全体の普遍的原因であるものだけに可能なのである。それが神であり、神は自己の意志を通じて作用することは以下に示されることになるのである。ところで、宇宙の秩序が偶然的であることは不可能である。なぜなら、そうだとすれば、宇宙の秩序よりも後なることがらはなおさらいっそう偶然によるということになってしまうからである。したがって、神は個々の善をも意志しているということになる。
さらに、知性認識された善はその限りにおいて意志されているものである。ところが、神は個々の善をも知性認識していることが、先に証明されている。したがって、神は個別的な善をも意志しているのである。
さて、聖書の権威はこのことを確証している。すなわち、『創世記』第1章では、個々の業にたいして神的意志の好意が示されており、「神は光を見て、善しとされた」と言われている。他の業についても同様であるし、後にすべての業について一括して「神は作ったすべてのものを見たが、それらは極めて善かった」とあるのである。
神はまだ存在しないものをも意志していること
さて、意志することが意志するものの意志されたものへの関係によってあるとすると、神が意志するのは存在するものだけであると思われる人がいるかもしれない。そう思われるのは、哲学者が教示しているように、関係的なことがらは同時に存在しなければならず、一方がなくなると他方もなくなくからである。だから、意志することが意志するものと意志されたものへの関係によるのであれば、誰も存在するものしか意志できないと思われるからである。
さらには、意志されたものに対する意志はその原因や創造者として語られる。ところが、神でさえも創造者あるいは主と呼ばれ得るのは、存在するものの創造者あるいは主としてだけである。それゆえ、神は存在するものしか意志し得ないと思われるのである。
このことからさらに、もし神的意志作用がその存在がそうであるように不変であるとすると、やはり現実態において存在するものしか意志せず、これは常に存在しないものは何も意志しないのだと結論され得ると思われるのである。
さて、以上のような論拠に対して或る人々は、それ自体において存在しないことが神とその知性のうちに存在すると述べている。だから、それ自体において存在しないものをも神は自己のうちに存在することに即して意志していても何の差し支えもないと述べるのである。
だが、この反論の語り方は十分でないと思われる。というのは、どんな意志するものであっても、それが何かを意志しているというのは、その意志が意志されているものに関係づけられていることに即してである。したがって、もし神自身あるいは神の知性において存在する限りにおいてしか存在しないものを意志されるものとして、それに意志が関係しているとすれば、その意志されているものが自己あるいは自分の知性のうちに存在することを意志しているからという理由をのぞけば、そのものを意志していることにはならないことになるであろう。先の反論者が意図していたことはこんなことではなく、このようなまだ存在していないものがそれ自体において存在することを神は意志しているのだということだったのである。
さらにまた、意志が意志される事物に関係づけられるのはその対象を通じてであり、その対象とは知性認識された善である。また、知性は善が知性のうちにあることを知性認識しているだけではなく、善がその固有本性において存在することをも知性認識している。だから、意志が意志されるものに関係づけられるのは、単に意志されたものが認識者のうちに存在することに即してだけでなく、それ自身において存在することにも即していることになろう。
そこでわれわれは次のように言うことにしよう。意志を動かすのは把握された善であるから、意志することそのものはその把握の条件に従うのでなければならない。それは、何か動きうるものの運動は、運動の原因である動かすものの条件に従うのと同じである。ところで、把握するものと把握されたものとの関係は把握そのものんに随伴するものである。つまり、把握するものは把握されるものを把握することを通じて、その把握されるものに関係づけられるのである。ところで、把握するものが事物を把握するのは、その事物が把握するもののうちに存在する限りだけではなく、それ固有の本性において存在する限りにおいてもそうである。なぜなら、われわれは事物がわれわれによって知性認識されていること(つまり、事物が知性のうちに存在すること)を認識しているだけでなく、事物がそれ固有の本性において存在したりかつて存在したこれから存在するであろうことをも認識しているのである。それゆえ、そのときその事物は認識者のうちにしか存在しないけれども、把握に随伴する事物への関係は、その事物が認識者において存在する限りにおいてではなく、把握者が把握している事物の固有な本性に即して存在している限りにおいての関係なのである。
それゆえ、神的意志の実存しない事物に対する関係は、その事物がある時に固有の本性において存在する限りのものであって、単に認識者である神のうちに存在する限りのものではないのである。したがって、神は現在存在していない事物がある時には存在するということを意志するのであって、単に自分がその事物を知性認識している限りにおいて意志しているのではないのである。
また、意志するものと意志されたものとの関係は、創造者と想像されたものや作るものと作られたもの、あるいは主と従属するの被造物との関係とは類似していない。というのは、意志することは意志するもののうちに留まる作用であるから、何か[意志するものの]外に実存するものが理解されねばならないわけではない。それに対して、作ることや創造することや支配することは、外的な結果に終局する作用を意味表示しており、その結果の実存なしにはそのような作用は理解され得ないのである。
神は自己の存在と善性を必然的に意志すること
さて、以上で示されたことから、神が自己の存在と善性を必然的に意志し、反対のことを意志できないことが帰結する。
というのは、先に示されたように、神は自己の存在と善性を主要な対象として意志し、それが神にとって他者を意志する根拠である。それゆえ、神は意志されているすべてのことにおいて自己の存在と善性を意志している。それはちょうど、視覚がすべての色において光を見るようなものである。ところで、神が何かを現実態において意志しないことは不可能である。なぜなら、そうだとすると可能態においてのみ意志するものであることになるが、神の意志のはたらきはその存在である以上、これは不可能だからである。したがって、神が自己の存在と善性を意志することは必然なのである。
同じく、意志するものはどんなものでも自己の究極目的を必然的に意志する。たとえば、人間は自分の至福を必然的に意志しており、悲惨を意志することはできないのである。ところが、神は究極目的としての自己が存在することを意志していることが、先述のことから明らかである。したがって、神は自己が存在することを必然的に意志しており、自己が存在しないことを意志することはできないのである。
さらに、欲求されうることがらやはたらきかけられ得ることがらにおける目的のあり方は、観想的なことがらにおける論証不可能な原理のようなものである。実際、観想的ことがらにおいて原理から結論が導かれるのと同じように、作用され欲求されうることがらにおいてはなすべきことがらと欲求すべきことがらすべての根拠は目的から得られるのである。ところで、観想的ことがらにおいて知性は論証不可能な第一基本原理に必然的に承認を与え、その反対のことがらを決して承認することができないのである。それゆえ、意志も究極目的には必然的に固着し、その反対を意志することはできないのである。このように、もし神的意志に神以外の別の目的がないのであれば、自己が存在することを必然的に意志するのである。
さらに、万物は存在する限り、第一に最高度に存在者である神に類似化する。ところで、万物は存在する限り、それなりの仕方で自然本性的に自己の存在を愛する。それゆえ、神はましてやいっそう自然本性的に自己の存在を愛している。ところで、神の本性とはそれ自体によって必然的に存在することであることは、先に証明されている。したがって、神は自己のが存在することを必然的に意志するのである。
さらに、被造物のうちにあるすべての完全性と善性が、神には本質的に適合することは先に証明された。とkろで、神を愛することは理性的被造物の最高の完全性である。そのことによって何らかの仕方で神と合一するからである。それゆえ、神を愛するということは、神においては本質的に存在している。したがって、神は自己を必然的に愛するから、自己の存在することを必然的に意志するのである。
神は自己以外のものを必然的には意志しないこと
ところで、神的意志が神的善性と存在とに必然的に向かうのであれば、他者にも必然的に向かうのではないかと思われる人がいるかもしれない。それは、自己の善性を意志することにおいて他者のすべてを意志することが先に証明されているからである。しかし、正しく考察してみるならば、他者には必然的に向かうのではないことが明らかなのである。
というのは、神的意志が他者へ向かうのは、その他者が神の善性という目的へと秩序づけられているものであるとしてである。ところが、目的が目的への手段なしに存在し得る場合には、意志はその手段に必然的に向かうのではない。たとえば、医者が治療しようという意志を持っていると仮定しても、病人がそれがなくても治療されうるような薬を病人に投ずる必然性が医者にあるわけではないのである。それゆえ、神的善性は他者なしに存在し得るし、さらには他者を通じて神的善性に何かが増えるわけでもないのであるから、自己の善性を意志するからといって、他者を意志するという必然性が神に内属するわけではけっしてないのである。
さらに、知性認識しされている善が意志の固有対象であるから、知性によって捉えられているどんなものにも、善の特質が保たれているところでは、意志が向かい得る。それゆえ、それぞれのものの存在はその限りでは善であり非存在は悪であるけれでも、何らかのものの非存在が必然的にではないにしても意志のもとに入ることが可能であるのは、それに結びついている何らかの善の特質のためなのである。実際、何かが他のものが実存しない場合にも存在するということは善なのである。それゆえ、意志がその特質に即して存在しないことを意志できないような善とは、それが実存しないと善の特質が全体として取り除かれてしまうような善なのである。このような善は神の他にはない。それゆえ、意志はその特質に即して、神の外にあるどんな事物をも存在しないことを意志することができるのである。ところで、神において意志はその機能全体に即して存在している。神のうちにあるすべてのものは普遍的に完全だからである。それゆえ、神は自己の外にある他の事物が存在しないことを意志することができる。したがって、自己以外の他のものが存在することを必然的には意志しないのである。
さらに、神は自己の善性を意志することにおいて、自己以外の他者がその善性を分有している限りにおけるその他者が存在することを意志している。ところで、神的善性は無限であるから無限の仕方で分有されうるし、現在存在している被造物とは別の仕方で分有される。したがって、自己の善性を意志することによってそれを分有しているものどものを必然的に意志するのだとすると、神は無限の様態で自己の善性を分有している無限の被造物が存在することを意志するということになるであろう。だが、これは偽であることが可能である。なぜなら、神が意志したとすればそれらは存在するであろうからである。というのも、神の意志は事物の存在の原理であることが後に示されることになるからである。したがって、神が現在存在しているものどもであっても、それを必然的に意志しているのではないのである。
同じく、知恵あるものの意志が原因に関われば、その原因から必然的に帰結する結果にも関わる。実際、太陽が地のうえに実存することを意志しながら、昼間の明るさが存在しないことを意志するということは愚かなことであろう。だが、結果から必然的には帰結しない結果については、原因を意志するからそのような結果を或るものが意志することは必然ではない。ところで、神外のものが神から必然的に出てくるのではないことが、のちに示されることになる。したがって、神が自己を意志することから他者を意志するということは必然ではないのである。
さらに、持ちに示されることになるが、諸事物が神から出てくるのは人工物が技術者からでてくるようにしていである。ところで、技術者は自分が技術知を持っていることを意志するとしても、人工物を産出することを必然的に意志するわけではない。したがって、神も自己以外の他者が存在することを必然的に意志するわけではないのである。
そこで考察しておくべきことは、確かに神は自己を知性認識し意志することから、他者を知性認識し意志するのであるのだが、神は自己以外の他者を必然的に知っているのに、必然的に意志しはしないのは何故なのかということである。このことの理由は次のようなものである。知性認識するものが何かを知性認識するのは、知性認識するものが或るあり方をすることによる。すなわち、何かが現実態において知性認識されるのはそれの類似性が知性認識するもののうちに存在することによってだからである。それに対して、意志するものが何かを意志するのは、意志されたものの方が或るあり方をすることによる。実際、われわれが何かを意志するのは、それが目的であるからか、あるいは目的へと秩序づけられているからであるかだからである。ところで、神的完全性は、万物が神において知性認識されうるものとして神において存在することを要求する。ところが、神的善性は、目的としてのその善性へと秩序づけられている他者が存在することを必然的に要求しはしないのである。このことのゆえに、神が他者を知っていることは必然的であるが、意志することは必然的ではないのである。それゆえに、自己の善性への秩序を持ちうるすべてのものを神は意志するわけではないが、それを通じて知性認識する自己の本質への何らかの秩序を持っているもののすべてを知っているのである。
神が自己以外の他者を必然的に知っているのではないと不都合が生じるとする諸論拠
さて、もし神が意志していることを必然的に意志しているのではないとすると不都合が帰結するのではないかと思われる。
[不都合1]というのは、もし他のものどもに関係する神的意志がそれらに関して決定をされていないとすると、神的意志は両方のどちらにも関わっていることになると思われる。ところで、両方のいずれにも向かう力はすべてある意味で可能態にある。「いずれにも向かう」というのは一種の生起可能性だからである。それゆえ、神の意志は可能態にあることになろう。したがって、神の意志は、先に示されたようにいかなる可能態も含んでいない神の実体ではないことになってしまうのである。
[不都合2]さらに、可能態にある存在者はそのようなものである限り、本性的に動かされる。なぜなら、存在することが可能なものは存在しないことが可能だからである。そうだとすると、さらに神的意志は変化しうるものであることになる。
[不都合3]さらに、神が原因となっているものに関してその何かを意志することが神にとって自然本性的であるとすれば、それは必然的である。ところで、神のうちには非自然本性的なものは何もあり得ない。なぜなら、先に示されたように、そのうちには偶然によるものや強制によるものはあり得ないからである。
[不都合4]同じく、両方に対して無差別に関わっているものがその一方より他方へと向かうのは、他のものによって限定される場合だけである。そうだとすると、神はいずれであってもいいという仕方で関わっているもののどれをも意志しないことになるか(だがこの反対のことが先に示されいる)、あるいは、他のものによって一方に限定を受けているということになる。この後者では、何か神より先なるものが存在し、それが神を一方へと限定していることになるであろう。
だが、これらの論拠のどれも必然的に帰結を導いてはいないのである。というのは、いずれにも向かうということがある力に適合するのに二通りがあるからである。一つは向かうものそれ自体の側からであり、もう一つはそれへ向かっていると語られる当のものの側からである。
[不都合1に対して]さて、そのそれ自体の側で言えば、力が一方へと限定されるような自己の完全性にまだ到達していない時にいずれにも向かうということが生じる。だから、このことは力の不完全性に帰するのであって、そこんは可能態性があることが示されることになる。たとえば、疑っている知性において明らかである。つまり、それによって一方に決定を受ける原理をまだ獲得していないのである。
それに対して、それに向かっていると語られるものの側から言えば、何らかの力がいずれにも向かうものであるとみとめられるのは、その力の完全なはたらきがいずれにも依存しないで、いずれをもなし得る時のことである。たとえば、技術知は同じ作品を同じように完成させるのにさまざまな道具を用いることができるのである。そして、このことは力の不完全性にではなく、むしろその卓越性に属しているのである。つまり、その力が対立するもののいずれをも越え出ており、それゆえにいずれにも向かうものとしてあることによって、どちらにも決定されていないという限りで卓越性に属しているのである。ところで、自己以外のものとの関係における神的意志において、力は以上のような仕方で存在している。なぜなら、神的意志は自己の目的と最も完全に一つになっている一方で、その目的はどんな他者にも依存していないからである。したがって、神的意志のうちに何の可能態性も措定しなければならないわけではないのである。
[不都合2に対して]また同様に、可変性を神的意志に措定しなければならないわけでもない。すなわち、神的意志には何の可能態性もない。それゆえ、自分が原因となるものに関して、神的意志は対立するものの一方を必然性を欠きながらあらかじめ捉えているが、その意志が両方に対して可能態にあるものとして考察されるわけではないのである。すなわち、最初に両方を可能態において意志するものであり、後に現実態において意志するようなものではなく、神的意志は意志しているもののどれをも、自己に関してだけではなく自己のが原因となるものに関しても、常に現実態において意志しているのである。しかしながら、意志されたものの方は、神的意志の固有対象である神的善性に対する必然的秩序を持っていないのである。それは、われわれが述語の主語に対する秩序が必然的でない時に、その命題を必然的命題と呼ばずに可能的命題と呼ぶのと同じ仕方においてである。だから、「神は自己が原因となっているこれを意志している」と語られるときに、それが必然的ではなく可能的命題であることは明らかであるが、それは何かが何らかの能力に即して可能であると語られるような仕方においてではない。そうではなくて、それは哲学者が『形而上学』第5巻において伝えているように、存在することが必然でもなく不可能でもないという仕方においてなのである。たとえば、三角形が等しい二辺を持つということは可能な命題的なことであるが、数学的なことがらには能力も運動もないのであるから、その可能性は何かの能力に即してのことではない。したがって、前述の必然性が排除されることによって、神的意志の不変性がなくなるわけではないのである。
このことを聖書はつぎのように告白している。『サミュエル記上』15章29節で「イスラエルの勝利者は、悔悛によってくじかれることはない」とある。
[不都合4に対して]だが、神的意志が自分が原因となっているものへと決定を受けていないとしても、そのどれをも意志しないとかいすするのに何か外的なものによって決定を受けていると言わねばならないわけではない。というのは、その固有対象として意志を決定しているのは把握された善であり、神的知性はその意志の外にあるものではない(両方が神の本質だから)。だから、神の意志が何かを意志するのに自己の知性のなす認識によって決定されるとしても、神的意志の決定が何か外なるものによってなされたことにはならないのである。実際、先に示されているように、神的知性は神の善性である神的存在だけではなく、他の善をも把握している。そして、神的知性はその他の善を神的善性と本質の何らかの類似性として把握しており、これの原理として把握しているのではない。したがって、神的意志がそれら他の善へと向かうのは、自己の善性に適合的なものとしてであって自己の善性にとって必然的なものとしてではないのである。われわれの意志においてもこのようなことが生じる。すなわち、われわれの意志が何かを目的のために端的な意味で必然的なものとして傾くときには、ある種の必然性によってそれへと動かされる。しかし、何かへと単にある種の適合性のためだけに向かう場合には、それへ必然的に向かうわけではないのである。したがって、神的意志も自己が原因となっているものへ必然的に向かうわけではないのである。
[不都合3に対して]また、前述の論拠のために神のうちに何か非自然本性的なものを措定しなければならないわけでもない。すなわち、神の意志は自己と他者とを一つの同じ作用によって意志している。だが、その意志の自己への関係は必然的で自然本性的であるのに対して、他者への関係はある種の適合性によるものであって必然的でも自然本性的でもない。しかしまた、強制されたものあるいは非自然本性的でもなく、意志的なものなのである。というのは、意志的なものは自然本性的でも強制的でもないことが必然だからである。
神は自己以外の何かを仮定的必然性において意志すること
さて以上から、神は自己が原因となることがらのどれをも絶対的な必然性において意志することはないにしても、或ることがらについては仮定による必然性において意志するということになる。
というのは、神的意志が不変であることはすでに示されている。ところで、不変なもののいずれにおいても、一度何かが存在したならば、それが後に存在しないということはできない。というのは、現在と以前とで別のあり方をするものは動いているとわれわれは語るからである。それゆえ、神的意志が不変であるならば、何かを意志していると措定されるならば、神がそれを意志することは仮定によって必然なのである。
同じく、永遠なものはすべて必然である。ところで神が何か原因されたことが存在することを意志することは永遠である。というのは、神の存在と同様にその意志作用も永遠性によって測られるからである。それゆえ、そのことは必然である。しかしながら、そのことが切り離して考察されるならば、必然ではない。なぜなら、神の意志はこの意志されているものに対して必然的関係を持っていないからである。したがって、それは仮定による必然なのである。
さらに、神は出来たことを今も出来る。なぜなら、神の力はその本質と同様に減少することはないからである。ところで、神が意志したと措定されていることを現在意志しないでいることは出来ない。なぜなら、その意志が変化できないからである。それゆえ、神が意志したことのどれをも意志したことが仮定によって必然なのであり、現在の意志についても同様なのである。ところが、その両方は絶対的に必然的なのではなく、前述の仕方で可能なのである。
さらに、何かを意志しているものはその何かのために必然的に必要とされるものを意志する。ただし、意志するもの側で、無知のためか、何らかの情念によって目的のために意図されていることの正しい選択から引き離されていることによる欠陥がある場合は別である。だが、神についてこのようなことを言うことは出来ない。それゆえ、神が自己を意志することにおいて自己以外のものを意志しているとすると、神によって意志されていることのために必然的に必要とされることのすべてを神は意志することが必然なのである。たとえば、人間が存在することを意志していると仮定するならば、理性的魂が存在することを神が意志することが必然なのである。
神の意志は自体的に不可能なことに関わらないこと
以上から、神の意志が自体的に不可能であるようなことがらには関わり得ないことが明らかである。
というのは、自体的に不可能なこととは、それ自身のうちに背馳を有していることがらである。たとえば、人間がロバであるということがそうであるが、その内には理性的なものが非理性的であるということが含まれているのである。ところが、何かに背馳していることは、その何かに必要とされることを排除する。たとえば、ロバであるということは人間の特質を排除しているのである。それゆえ、神がそれを意志していると仮定されていることに必要とされることがらを神は必然的に意志するとすれば、そのことに背馳することを神が意志することは不可能である。だから、端的に不可能であることがらを神が意志することは不可能なのである。
同じく、先に示されたように、神は自己の善性でもある自己の存在を意志することにおいて、それの類似性を有している限りでのすべての他者を意志している。ところで、存在者である限りでの存在者の特質に何かが背馳している限り、その何かにおいては存在の源泉である第一の、つまり神的存在の類似性は保持されていない。それゆえ、神は存在者である限りでの存在者の特質に背馳するものを意志出来ないのである。ところで、人間である限りでの人間の特質に非理性的であることが背馳しているように、何かが存在者である同時に存在者でないということは存在者である限りでの存在者の特質に背馳している。それゆえ、肯定と否定とが同時に真であることを神は意志できない。だが、自体的に不可能なことのすべてにこのことが含まれている。自体的に不可能なことは矛盾を含意している限りで自己自身への背馳を有しているからである。したがって、神の意志は自体的に不可能なことがらには関わり得ないのである。
さらに、意志は知性認識されている何らかの善にのみ関わる。それゆえ、知性に入ってこないものは意志に入ることが出来ない。ところが、自体的に不可能であることがらは知性に入ってこないのである。なぜなら、自己自身に背馳しているからである。ただし、事物の固有性を誤って知性認識しているものの場合は別であるが、そんなことを神について語ることは出来ない。したがって、自体的に不可能であることがらは神的意志に入ることが出来ないのである。
さらに、それぞれのものの存在への関係は、善性への関係と同じである。ところが、不可能なことがらとは存在することが出来ないものである。それゆえ、それは善であることが出来ない。それゆえ、神によって意志されるものであることも出来ないのである。神は善であるものあるいは善であり得るものしか意志しないからである。
神的意志は事物から偶然性を取り去らないし、事物に絶対的必然性を課しもしないこと
前述のことから、神的意志が事物から偶然性を取り去らないし、事物に絶対的必然性を課しもしないということがえられ得る。
というのは、神が自分害している事物に必要とされることのすべてを意志するのだということは、すでに述べられた。ところで、ある事物には偶然的であって必然的ではないということがその事物の本性の様態に即して適合している。それゆえ、神はそのある事物が偶然的であることを意志しているのである。ところが、神的意志の効力ということからして、存在することを神が意志するものが存在するだけではなく、それがその様態で存在するように意志していることがその様態で存在するというものも要求される。というのも、自然的作用者においても、作用する力が強いときには、その結果が単に種において作用者と類似するだけではなく、その事物のある種の様態である付帯性に関しても類似するのである。したがって、神的意志の効力によって偶然性が取り除かれるわけではないのである。
さらに、神はある個別的な善よりも自己の結果全体の善の方を主要に意志している。そちらの方に神の善性の類似はより十全に見いだされるからである。ところで、宇宙の十全性はある種の偶然的なものどものが存在することを要求する。そうでなければ、宇宙の中に存在者の段階のすべてが含まれることにならなくなってしまうからである。したがって、神は何らかのものが偶然的であることを意志するのである。
さらに、『形而上学』第11巻において明らかなように、宇宙の善は何らかの秩序において考察されるものである。ところで、宇宙の秩序は可変的な原因が存在することを要求する。というのは、物体は宇宙の完全性に属しているのであるが、それは動かされなければ動かさないものなのである。ところが、可変的原因からは偶然的結果が出てくる。というのも、結果の方がその原因よりもより堅固であることはあり得ないからである。だから、遠隔原因は必然的であるとしても、近接原因が偶然的であるなら結果は偶然的であるということが観察されるのである。それは月下の物体に関して生じていることにおいて明らかである。つまし、それらは近接諸原因の偶然性のために偶然的であるにしても、天の運動という遠隔原因は必然的なのである。したがって、あることがらが偶然的に生起することを神は意志しているのである。
さらに、原因のうちにある仮定による必然性は結果のうちに絶対的な必然性を帰結させることは出来ない。ところが、神が被造物のうちの或るものを絶対的必然性においてではなく、仮定による必然性においてのみ意志しているということは、先に示されている。したがって、神的意志から被造的事物において絶対的必然性が帰結させられ得ないのである。ところが、偶然性を排除するのはこの絶対的必然性だけなのである。というのも、いずれに対しても偶然的であるものも仮定によって必然的であるものとされるからである。たとえば、「ソクラテスが走っているならば、ソクラテスが動く」は必然的であるようにである。したがって、神的意志が意志された事物から偶然性を排除することはないのである。
したがって、神が何かを意志していることによって、そのことが必然的に生起することが帰結するのではなく、「もし神が何かを意志しているなら、そのことが存在するであろう」という条件命題が真であり必然であるということが帰結するのである。といっても、その後件が必然的である必要はないのである。
神的意志に理由を指定することはできること
さて、前述のことがらを集約して、神的意志に理由を指定することができるとわれわれは結論しうる。
というのは、目的は目的のための手段を意志する理由である。ところが、神が自己の善性を目的としてのみ意志し、他者のすべてを目的のための手段として意志する。それゆえ、神の善性は神とは異なる他者を神が意志する理由なのである。
さらに、個別的善は全体の善を目的としてそれに秩序づけられており、それは不完全なものが完全なものに秩序づけられているようなものである。ところで、あるものどもが善の秩序においてある限りにおいて神的意志のもとに入るのであるが、それは以上の意味においてである。したがって、宇宙の善が宇宙のうちにある個別的な善のどれをも神が意志することの理由なのである。
同じく、先に示されているように、神が何かを意志すると仮定した場合には、そのものに必要とされることを神が意志するということが必然的に帰結する。ところが、他のものに必然性を課するものは、そのものが存在することの理由である。したがって、それぞれのものが存在するということが、それに必要とされるものを神が意志する理由なのである。
よって、われわれは神的意志の理由を指定するにあたり、次のような議論を進めることが出来るのである。すなわち、神は人間が存在するために、人間が理性を持つことを意志する。人間が存在することを意志するのは、宇宙の十全性が存在するためである。さらに、宇宙の善性が存在することを意志するのは、神自身の善性を喜ぶためである、というようにである。
だが、今述べた三つの理由は同じ関係で論じられるわけではない。
a)というのは、神的善性は宇宙の完全性に依存していないし、その完全性から何かを得て善性が増大するわけでもない。
b)それに対して、宇宙の完全性は、宇宙の本質的部分であるような何らかの個別的善に必然的に依存しているとはいえ、どんなものにも必然的に依存しているのではなく、宇宙にとっての何らかの種類の善あるいは麗しさはどんなものによっても増大するのである。たとえば、宇宙の他の部分の保持あるいは麗しさのためだけに存在しているようなものがそうである。
c)だが、個別的な善はそれに絶対的に必要とされるものには必然的に依存している。ただし、このようなものでもそれ自身がより善くなるためのものをも持ってはいるのである。
d)したがって、神的意志の理由には、適切さだけを含む時もあるし、有益性を含むときもあるし、仮定による必然性を含むときもあるが、絶対的な必然性を含むのは自己自身を意志する時だけなのである。
神的意志の原因は何もあり得ないこと
神的意志に何らかの理由を指定することは出来るにしても、そこから神の意志に何か原因があるということは帰結しないのである。
というのは、意志が意志する原因とは目的である。ところが、神的意志の目的は自己の善性なのである。したがって、その善性が神にとって意志する原因であって、それが自身の意志のはたらきそのものであるのである。
そして、神によって意志された他者のどれも神にとって意志することの原因ではない。だが、意志されたことがらのうちの一つが別のものの原因であるということがあるが、それは神的善性に対する秩序を持っているからなのである。だから、神はそれらのうちの一つを別のものために意志していると知性認識されるのである。
それでも、神の意志のうちにどんな推移も措定すべきでないことは明らかである。というのは、一つの作用があるところには推移は考察されないからである。それは知性について先に示されたのと同じである。ところが、神は自己の善性と他のすべてを一つの作用において意志する。神の作用は神の本質だからである。
ある人々は、万物は単純な意志に即して神から発出するのであるから、いかなるものについても神が意志しているからということ以外の理由を出すべきではないと言っているが、この誤謬が前述のことから排除されるのである。
また、このことは神の聖書にも反している。聖書は神が万物を自己の知恵の秩序に即して造ったことを明らかにしているからである。『詩篇』103篇24節によれば「あなたは万物を知恵において造った」とあり、『集会の書』1章10節では、神は「自分のすべての業のうえに」自分の知恵を「注がれた」とある。
神には自由決定力があること
さて上述のことから、神には自由決定力が見いだされることが示され得る。
というのは、自由決定力が関係するのは、必然性によってではなく固有の自発性によって意志することがらである。それゆえ、われわれにおいては、走るか歩くかを意志するということに関して自由決定力があるのである。ところが、神が自己以外のものを必然的に意志するのではないことは、先に示されている。したがって、自由決定力を持つことが神に適合するのである。
さらに、先に示されたように、神的意志が自己の本性によってはそれへ向かうように決定を受けていないことがらへと傾くのは、何らかの仕方で神の知性を通じてである。ところで、人間が他の動物にまして自由決定力を有していると語られるのは、野獣のように自然本性の衝動によってではなく理性の判断によって意志することへと傾くことによってである。したがって、神において自由決定力があるのである。
同じく、哲学者の『倫理学』第3巻によれば、意志は目的に関わり、選択は目的への手段に関わる。それゆえ、神が自己自身を目的として意志し、他者を目的のための手段として意志しているのであるから、自己に関しては意志だけを有し、他者に関しては選択を有しているということになる。ところが、選択とは常に自由決定力によって生じるのである。したがって、自由決定力が神に適合するのである。
さらに、人間は自由決定力を持っていることによって自己の行為の主であると言われる。だが、このことが最も適合するのは、その作用が他者に依存していない第一作用者にとってである。したがって、神は自由決定力を持っているのである。
以上のことはその名称の概念そのものからを得ることが出来る。つまり、哲学者の『形而上学』冒頭によれば、自己の原因であるものが自由である。だが、このことが神という第一原因以上に適合するものは何もないのである。