神には情動の情念が存在しないこと
さて、前述のことから神のうちに情動の情念(受動)が存在しないことが知られ得る。
というのは、ある種の情念は知性的情動によってではなく、感覚的情動のみによってあることは、『自然学』第7巻において証明されている。ところで、この種の情動は神においてはあり得ない。神には感覚的認識がないことが先に語られたことから明らかだからである。したがって、神には情動的情念はないことになる。
さらに、すべての情動的情念は何らかの身体的変化に即して生じる。たとえば、心臓の収縮と弛緩、あるいは同様のことに即して生じるのである。神においてはこのようなことが何か生じることは可能ではない。先に示されているように、神は物体でも物体のうちの力でもないからである。したがって、神には情動的情念はないのである。
同じく、すべての情動的情念において、それを受けるものは何らかの仕方で、自己の共通的、相等するあるいは共本性的状態の外に引きずられる。その徴となっているのが、このような情念が強くなると動物に死をもたらすことがあるということである。ところが、神がどんな仕方であっても自己の自然本性的状態の外に引きずられることは可能ではない。神はまったく不変であることが先に示されているからである。したがって、神のうちにこのような情念はあり得ないことが明らかなのである。
さらに、情念に即した情動はすべて、その情念の様態と尺度に即して一つのものへと限定的に運ばれてゆく。実際、情念は自然本性もまたそうであるように、何か一つのものへの衝動をもっており、この理由のために情念は抑制され制御されねばならないのである。だが、先に示されているように、創造されたことがらにおける神的意志は、自己の知恵の秩序による場合を除けば、それ自体で限定を受けることはない。したがって、神のうちに何らかの情動に即した情念はないのである。
さらに、情念はすべて何か可能態において実存するものに属している。ところが、神は純粋現実態であるから、可能態からまったく自由である。したがって、神はただ作用するものであって、そのうちに何らかの情念(受動)がしめる場所はないのである。
以上のように、その類的特質からして神からあらゆる情念が除去されるのである。
だが、情念の中にはその類の特質からして神から除去されるだけでなく、種の特質からしても除去される者がある。
a)というのは、すべての情念は対象から種を受け取るからである。それゆえ、その対象が神に全く適合していないような情念は、それ固有の種的特質に即しても神から除去されることになるのである。
b)さてこのような情念とは悲しみあるいは苦である。というのは、喜びの対象が現前し所有されている善であるように、悲しみあるいは苦の対象が既に内属している悪だからである。したがって、悲しみと苦とはその特質そのものからして神のうちにはあり得ないのである。
さらに、ある種の情念の対象が持つ特質は善や悪から得られるだけではなく、誰かがその両者のいずれかに対して対してどのようなあり方をしているかということからも得られる。この意味で希望と喜びとは異なっているのである。それゆえ、ある情念の特質のなかに含まれている、対象に対するあり方の様態が神に適合していないならば、その情念自体が種に固有の特質からしても神に適合することは出来ないのである。ところで、希望は善を対象としているけれども、既に得られた善ではなく得るべき善が対象である。このことが神には適合し得ないのであって、それは何の付加も生じ得ないほどの神の完全性のためなのである。したがって、希望はその種の特質によっても、神にはあり得ない。また、所有されていないものに対する欲望も同様に、神のうちにはないのである。
さらに、神的完全性は神が獲得すべき何らかの善が付加されるということへの能力を排除する。それと同じように、というよりそれ以上に悪への能力は排除される。ところで、希望が獲得すべき善と関係しているように、恐怖は脅威となりうる悪に関係している。それゆえ、恐怖はその種による次の二つの理由で神から排除されることになる。すなわち、一つは恐怖は可能態において実存するものにしか属さないからであり、もう一つはその対象である悪が内属しうるものだからである。
同じく、悔悛は情動の変化を含意している。それゆえ、悔悛の特質も神と背馳するのであるが、それは悔悛が悲しみの一種であるからだけではなく、意志の変化を含意するからでもある。
さらに、認識力の誤謬なしには善であるものが悪であると把握されることはあり得ない。また、或るものの悪が他のものにとっての善として実存することがあり得るのは、一方の消滅が他方の生成である個別的な善においてのみである。それに対して、普遍的善は個別的な善のどれによっても何かを失うということはなく、それぞれの個別的善によって表象されるのである。ところで、神は普遍的善であって、その類似性を分有することで万物は善であると言われるのである。それゆえ、いかなるものの悪であっても、それが神にとって善であることはできない。また、端的に善であり自己にとって悪ではないものを神が悪として把握するということもあり得ない。なぜなら、神の知識には誤謬がないことが先に示されているからである。それゆえ、その種の特質からしても、妬みが神のうちにあることは不可能である。というのは、妬みが悲しみの一種であるからというばかりではなく、他者の善について悲しみ他者の善を自分にとっての悪として受け取るものだからでもある。
さらに、善を悲しむことと悪を欲求することとは同じ特質を持っている。というのは、前者は善が悪と評価されることによるのであり、後者は悪が善と評価されることによるからである。ところで、怒りとは復習のために他者にとっての悪を欲求することである。それゆえ、怒りはその種の特質からして、神には縁遠いものである。というのも、怒りが悲しみの結果であるからだけではなく、課された不正を把握したことによる悲しみゆえの復讐の欲求だからである。
さらに、この種の他の情念やそれらに引き起こされる情念のすべてが、同様の理由によって神から排除されるのである。
神に快や喜びがあることは神的完全性と背馳しないこと
a)だが、情念のなかには、それが情念である限りにおいては神に適合しないとしても、その情念の種の特質からは神的完全性と少しも背馳しないものがある。
b)喜びと快とがそのような情念である。というのは、喜びは現前する善に関わっているからである。だから、善という対象の特質からも、また、現実に所有されているという対象への関わり方の特質からも、喜びはその種の特質に即して神的完全性とは背馳していないのである。
だから、喜びあるいは快が固有の意味で神のうちにあることが明白である。すなわち、把握された善悪は感覚的欲求の対象であるのと同様に、知性的欲求の対象でもある。実際、善を追究し悪を避けるということは、真にそうであろうともそう見なされているだけであろうとも、両方の欲求に属しているからである。ただし、知性的欲求の方が感覚的欲求よりもより共通的であって、それは知性的欲求が端的な意味での善や悪に関係しているのに対して、感覚的欲求の方は感覚に即した善や悪に関係しているからである。それは知性の対象も感覚の対象よりも共通的であるのと同様なのである。ところで、欲求のはたらきは対象によって種に分けられる。それゆえ、意志という知性的欲求においては、感覚的欲求のはたらきと種に即して類似したはたらきが見いだされる。だが、感覚的欲求においては身体器官と結合しているために情念があるのに対して、知性的欲求におけるはたらきは単純であるという点で相違しているのである。たとえば、感覚的欲求のうちにある恐れという情念ゆえに人は未来の悪を避けるが、同じことを知性的欲求は情念なしになすのである。それゆえ、喜びと快はその種に即して神と背馳しているのではなく、それらが情念である限りにおいて背馳しているのである。だが、それらは意志のうちにはその種に即して存在し、情念としては存在していないのである。したがって、喜びと快は神的意志にも欠けているわけではないことになるのである。
同じく、喜びと快は意志が自分が意志していることにおいて何らかの意味で休らうことである。ところで、神は自己が主要に意志しているものである自己自身において、自己のうちにすべての充足を持つものとして、最大度に休らっている。したがって、神自身が自分の意志を通じて、自身において最大度に喜び快を持っているのである。
さらに、快ははたらきのある種の完全性である。それは哲学者の『倫理学』第10巻の「それは、美が若者を完成するように、はたらきを完成させる」ということばによって明らかである。ところで、神は知性認識において最も完全なはたらきを持っていることは、前述のことから明らかである。したがって、われわれの知性認識がその完全性のために快いとすれば、神の知性認識は神にとってもっとも快いことになろう。
さらに、それぞれのものは自然本性的に自己に類似したものを、いわば適合的なものとして、喜ぶ。ただし、付帯的にはそうではない。すなわち、自分自身の有益さを妨げるものが存在する場合である。たとえば、陶工たちが他人の儲けを妨げるためにお互いに諍いをするする場合がそうである。ところで、すべての善は神的善の類似であることは先述のことから明らかであるし、何らかの善によって神的善がいくらか減少するということもない。したがって、神はあらゆる善を喜んでいることになるのである。
a)よって、神のうちには固有の意味で喜びと快があることになる。
b)だが、喜びと快とは概念的には異なっている。すなわち、快は実在的に結合している善から出てくるが、喜びはこのことを必要とせず、意志が意志しているものにおいて休らっていることだけで喜びの概念にとっては十分なのである。それゆえ、快は固有な意味で理解されるならば、結合している善にのみ関わるが、快は外的な善に関わるのである。
c)以上から、固有な意味では神が快を得ているのは自己自身においてであるのに対して、喜んでいるのは自己と他者とにおいてなのである。
神には愛があること
同様に、神のうちにはその意志の作用に即して、愛が存在しているのでなければならない。
というのは、愛するものは愛されるものにとっての善を意志するということが、愛の概念に固有に含まれているからである。ところが、神が自己と他者の善を意志することは前述のことから明らかである。したがって、この点に即して、神は自己も他者も愛しているのである。
さらに、真実の愛のためには、誰かの善をその人に属している限りにおいて意志することが要求される。というのは、ある人の善をそれが他の人の善となる限りにおいてのみ意志しているならば、偶有的に愛されているのである。たとえば、それを飲むためにワインが保存されることを意志する者、あるいは人が自分にとって有益であったり快いものであったりするためにその人を意志する者は、ワインやその人を付帯的に愛しているのであって、自体的には自己自身を愛していることになる。ところで、神はそれぞれのもの善を、そのそれぞれに属している限りにおいて意志している。というのは、それぞれのものがそれ自体で善であることに即して、それが存在することを神は意志しているからである。(ただし、それらの一つを他のものの有益さへと秩序づけることもある。)したがって、神は自己も他者も真に愛しているのである。
さらに、それぞれのものは自然本性的に自己の様態において固有の善を意志あるいは欲求するのであるから、愛するものは愛されるものにとっての善を意志あるいは欲求するということが愛するものの概念に含まれるとしたら、愛するものは愛されるものに対して、それと何らかの仕方で一つになっているものとして関係指定という帰結になる。このことゆえに愛する者の概念は、一方の情動がそれと何らかの仕方で一つとなっているものとしての他者へ向かう点に存していると思われる。ディオニシウスが愛とは一つにする力であると言うのはこのためである。それゆえ、愛する者がそれのために愛されるものと一つになるものが大きければ大きいほど、愛はより強いものとなる。実際、われわれは生まれのよって、あるいは共同生活の習慣などによってわれわれと一つになっている者たちの方を、ただ人間本性のつながりだけによってわれわれと一つになっている者よりもいっそう愛するものなのである。さらに、一つになるということがそこに由来するものが愛されるものにとって内的であればあるほど、愛はより堅固になる。だから、何らかの情念による愛の方が、生まれによるあるいは何らかの習慣による愛よりも時にはより強いものとなることがある。ただ、それはよりたやすく過ぎ去ってしまうのではある。さて、万物がそれによって神と一つになっているもの、すなわち万物が模倣する神の善性は最大のものであり、神に内的なものである。神自身が自身の善性だからである。したがって、神には真の愛があるというだけではなく、最も完全で最も堅固な愛があるのである。
同じく、対象の側からは、愛は神に背馳するものを何も含意していない。愛は善に関わるからである。また、対象への関わりの様態からもそうである。というのは、ある種の事物への愛は、その事物が所有された時により小さくなるのではなく、大きくなるからである。なぜなら、ある種の善は所有されるとわれわれにより親和的になるからである。だから、自然物における目的への運動も目的が近くなることによって強められることになるのである。(ただし、時には反対のことが起こる。愛されたものにおいて何か愛と背馳するものを経験する場合のようにである。その時にはそれが所有されるとより愛されなくなるのである。)だから、愛はその種の特質からして神的完全性に背馳するものでない。したがって、神のうちに愛はあるのである。
さらに、ディオニシウスが言っているように、一つとなることへと動かすということが愛には属している。実際、愛する者と愛されるものとの間の類似性あるいは適合性のために、愛する者の情動は或る意味で愛されるものと一つとなっているから、欲求は合一の完成へと向かうのである。すなわち、情動においてすでに発動している合一が現実態において充足されるように動くのである。だから、お互いに顔を合わせ仲間となり会話を交わすことを喜ぶのが友人というものの固有性なのである。ところで、神は他のすべてのものを合一へと動かしている。実際、他のものに存在や他の完全性を与えている限り、神は他のものを自己に可能な限り合一させているのである。したがって、神は自己も他者も愛しているのである。
さらに、すべての情動の原理は愛である。なぜなら、喜びや欲望は愛されている善にのみ関わっており、恐れと悲しみは愛されている善に対立するものである悪にのみ関わっているからである。そして、他のすべての情動はこれらに起源を持つのである。ところで、神に喜びと快があることは先に示されている。したがって、神には愛があるのである。
a)だが、神はこれよりもあれをいっそう愛するということはないのだと思われる人があるかもしれない。というのは、強まったり弱まったりするということは可変的本性に固有なことであるから、あらゆる可変性から遠くへだっている神には適合し得ない、と思われるからである。
b)さらには次の理由にもよる。すなわち、神についてはたらきという様態で語られることがらのどれも、神について大小関係に即して語られることはない。実際、神があることをほかのことよりより認識しているとか、これよりもあれをいっそう喜んでいるということはないからである。
a)そこで、次のことを知っておかねばならない。すなわち、魂の他のはたらきはただ一つの対象にかかわるのであるが、愛だけは二つの対象に向かうように思われるのである。というのも、われわれが知性認識したり喜んだりする場合には、そのことによってわれわれが何らかの仕方で関係していなければならない対象は一つであるのに対して、愛は何かを或る人のために意志するのである。実際、われわれがそれを愛していると言われるものとは、前述の様態に即して何らかの善をそれのために意志しているもののことなのである。それゆえ、われわれが端的に欲情しているものについては、われわれはそれを欲望していると言われるのであって、愛しているとは言われないのである。愛しているとされるのはむしろ、それをそのもののために欲情しているものなのである。だから、そのように端的に欲情されているものが愛されていると語られるのは、付帯的で固有でない仕方においてなのである。
b)それゆえ、愛以外のはたらきについてその大小が語られるのは、その作用の強力さのみに即してである。このようなことは神においては生じ得ない。というのは、作用の強力さはそれによって作用がなされる力に即して測られるのであるが、神的作用のすべては同一の力に属しているからである。
c)それに対して、愛に大小ということが語られるのには、二つの場合があり得る。一つの様態は、われわれが誰かのために意志している善から語られうる。つまり、われわれがより大きな善をその人のために意志している場合に、その人をよりいっそう愛していると語られるのである。もう一つの様態は作用の強力さから語られうる。つまり、われわれがより大きな善を意志しているのでなく、等しい善を誰かのためにより熱心に効果的に意志している場合に、その人をいっそう愛していると語れるのである。
d)そして、第一の様態では、誰かにより大きな善を意志している限りにおいて、神が何かをその人のためにいっそう愛していても何の差し支えもない。だが、第二の様態では、他のことがらについて語られたのと同じ理由によって、神がいっそう愛しているとは語られ得ないのである。
e)以上語られたことから、われわれの情動のうちでは、神において固有の意味で存在しうるのは喜びと愛だけであることが明らかである。ただし、この両者であっても、われわれの場合と同様に、神において情念である限りにおいて存在するのではないことはもちろんである。
a)さて、神のうちに喜びや快があることは、聖書によっても確証される。すなわち、『詩篇』15(16)篇11節では「あなたの右手のなかの終わりに至るまでの快」と語られている。『箴言』8章30節では、先に紙であることが示されている神的知恵が「私は日々、彼の前で楽しみながら快を得ていた」とあるし、『ルカ福音書』15章10節では、「一人の罪人が悔悛をなせば、天に喜びがある」と言われているのである。
b)また、哲学者も『倫理学』第7巻で「神は一つの単純な快において常に喜んでいる」と述べている。
a)また、神の愛も聖書は言及している。すなわち、『申命記』33章3節で「彼は民を愛した」とあり、『エレミア記』31章3節では「とこしえの愛において私はあなたを愛した」、『ヨハネによる福音書』16章27節では「御父ご自身があなたがたを愛している」とある。
b)また、哲学者たちの中には諸事物の原理は神の愛であると措定していた者もいた。
c)以上のことにディオニシウスの『神名論』第4章の言葉も符合している。すなわち、「神的愛は神が生み出すことのないままにしておくことはない」という言葉と符合しているのである。
だが、次のことを知らなくてはならない。だが、聖書ではその種に即しては神的完全性と背馳するような他の情動も神について述べられている。しかしこれが固有の意味で述べられているのではないことは先に証明されている。そうではなくて、これらの情動は比喩的に語られているのである。それは、諸結果との類似性あるいは何らかの情動に先行するものとの類似性のために比喩的に語られるのである。
a)ここで「諸結果の類似性」というのは、意志がある結果に向かうのが知恵の秩序からであることがあるが、その同じ結果へと欠陥のある情念から傾く人もいるからである。たとえば、裁判官が罰するのは正義のゆえであるが、同様のことを怒りに駆られたは怒りゆえにそうするのである。
それゆえ、時として神は怒っていると語られるのであるが、それは知恵の秩序からある人を罰することを意志している限りのことなのである。『詩篇』2篇13(12)節で「主の怒りはたちまち燃え上がった」とあるようにである。
それに対して、神が憐れみ深いと語られるのは、人間たちの憐れむべき状態を神の慈愛ゆえに取り除く限りのことであるが、われわれもまた同じことを憐れみの情念のためになすのである。だから、『詩篇』102(103)篇8節で「主は憐れみ深く、憐れみに富み、忍耐強く、大いに憐れみに富む」とあるのである。
また、時には神は後悔すると語られるが、それは神の摂理の永遠で不変の秩序に即して、先に破壊したことをなしたり、先になしたことを破壊したりする限りのことである。これは悔悛に動かされた者たちがなすとみとめられていることなのである。だから、『創世記』6章7節で「私は人間を作ったことを後悔する」とあるが、この言葉が固有の意味では理解され得ないことは、『サミュエル記上』15章29節で「イスラエルの勝利者は我慢したり、悔悛によって[意志が]曲げられることはない」とあることによって明らかである。
b)さらに、私は「何らかの情動に先行するものとの類似性」のために比喩的に語られると言った。それは神のうちに固有の意味で存在している愛と喜びが、すべての情動の原理だからである。実際、愛は動かす原理の様態において原理である。それに対して、喜びは目的の様態でそうであって、だから、怒りに駆られて罰している人々でさえも、目的を得たことによって喜ぶのである。だから、神は悲しむと語られるが、それは神自身が愛し是認していることがらと反対のなんらかのことが生じる限りのことなのである。それは、われわれにおいても悲しみはわれわれの意志していないのに生じることがらに関わっているのと同様なのである。
そしてこのことは『イザヤ書』59章15-16節の言葉によって明らかである。すなわち「神は見た、そしてその目には悪が現れた。正義がないからである。また、人のいないことを見、絶望された。現れてくる人がいないからである」とある。
こうして上述のことから、ユダヤ人の中に怒り、悲しみ、悔悛やこのようなあらゆる情念をその固有性に即して神に帰属させている者があるが、彼らの誤謬は排除されるのである。彼らは聖書の中で何が固有に語られ、何が比喩的に語られているのかを区別していないのである。
神において徳はどのような様態で措定されるのか
さて、前述のことに引き続いて、神において徳はどのような様態において措定されるべきかを示さねばならない。というのは、神の存在が普遍的に完全であり、すべての存在者の完全性を自己のうちに何らかの仕方で包括しているように、神の善性は万物の善性を自己のうちに何らかの仕方で包含しているのでなければならない。ところで、徳は徳ある人にとっての何らかの善である。というのも、その徳に即して善なる人であり、その人の業が善であると語られるからである。それゆえ、神的善性はすべての徳を自己の様態において含んでいるのでなければならない。
だから、われわれとは違って神においては、徳のどれも習態に即して語られるのではない。というのも、善であるということが神に適合するのは、神がまったく単純である以上、神に付加された何か他のものによってではなく、神の本質によってだからである。また、神の本質に付加された何かによってでもない。神の作用は神の存在であることが先に示されているからである。したがって、神の徳は習態ではなく、神の本質なのである。
同じく、習態は可能態と現実態の中間として、不完全な現実態である。だから、習態を持つものは眠っている者に比されるのである。ところが、神における現実態はもっとも完全な者である。したがって、神における現実態は知識のように習態としてではなくて、究極の完全な現実態である考察するはたらきとしてあるのである。
さらに、習態とは何らかの可能態を完全にするものである。しかし、神には可能態に即したものは何もなく、ただ可能態に即したものだけがある。したがって、神には習態は存在し得ないのである。
さらに、習態は付帯性の一種である。だが、付帯性が神にはないことは先に示されている。したがって、神において徳は習態に即してかたられるのではなく、本質に即してのみ語られるのである。
a)さて、人間的徳は人間の生がそれによって方向づけられるものであり、その人間の生には観想的生と行為的生の二種があるのであるが、その行為的生に属している徳は、この世の生を完成している限りにおいては、神に適合し得ないのである。
b)というのは、人間の行為的生は物体的善の使用に存しているからである。だから、行為的生を方向づけている徳とは、そのような善をわれわれが使用する際の徳なのである。だが、このような善は神には適合し得ない。したがって、そのような徳も、この世の生に方向づけを与えるものである限りでは、神に適合し得ないのである。
さらに、このような徳が人間の習慣を完全なものとするが、それは政治的交わりに関してである。だから、政治的交わりをしない人々には、そのような徳が大いにふさわしいわけではない。だから、まして神には適合し得ないのであって、それは神の交わりや生は人間的生の様態から遠く離れているからである。
また、行為的生に関わるこれらの徳の中には、われわれを情念に関して方向づけるものがある。このような徳をわれわれは神の中に措定することはできない。というのは、情念に関わっている徳の種類は、その固有対象と同様に情念そのものによって分けられる。だから節制と剛毅[の徳]の相違は、前者が欲情に関わっているのに対して後者が怖れと大胆さに関わっていることによるのである。ところが、神のうちに情念が存在しないことが先に示されている。したがって、このような徳も神のうちには存在し得ないのである。
同じく、この種の徳は魂の知性的部分にあるのではなく、感覚的部分にある。情念はその部分においてのみ存在し得るということは、『自然学』第7巻において証明されている。ところが、神には感覚的部分はなく、あるのは知性だけである。したがって、神にはこのような徳は、その固有な特質に即してであっても、存在し得ないということになる。
だが、徳がそれに関わっている情念の中には、感覚に即して快い何らかの身体的善への欲求の傾向性によるものがある。たとえば、食べ物や飲み物や性的なことがらである。このようなものへの欲情に関わっている徳が節度や貞潔であり、一般的に言えば節制と自制である。だから、身体的快は神からまったく遠ざけられている以上、上述の徳は情念に関わっているのであるから、固有の意味に於いても神に適合しない。また、聖書において比喩的にもそのような徳が神について語られることはない。なぜなら、何らかの結果の類似性に即しても、神のうちにそれらの徳の類似性を理解することはできないからである。
それに対して、何らかの霊的善への欲求の傾向性による情念がある。たとえば、名誉、支配、勝利、復讐や同様のものがそうである。このような善への希望、大胆さそして一般に欲求に関わるのが、剛毅や矜持や温和や同様の徳である。これらの徳は神のうちには固有の意味ではあり得ない。それらが情念に関わっているからである。だが、聖書では比喩的には神について語られているが、それは結果の類似性のためである。たとえば、『サミュエル記上』2章2節では「われわれの神ほど剛毅なものはいない」とあり、『ミカ書』6章[本当は『』ゼファニア書』2章3節]では「温和を求めよ」、善を「求めよ」とある。
神には行為にかかわる道徳的徳があること
だが、人間の行為的生を方向づけている徳の中には、情念に関わるのではなく、行為に関わるものがある。たとえば、真実、正義、寛大さ、度量、思慮、技術知がそうである。
さて、徳の種類はその対象あるいは主題によって分けられるのであり、上記の徳の主題あるいは対象である行為は神的完全性と背馳しない。だから、そのような徳にはその固有の種に即して、神的完全性から排除されるべきものはないのである。
同じく、これらの徳は意志と知性の何らかの完全性であり、意志と知性は情念を欠いたはたらきの原理である。ところで、神には意志と知性があり、その完全性には欠けるところがない。したがって、前述の徳が神にないということはあり得ないのである。
さらに、神が存在へと発出させているすべてのものの固有の根拠が神的知性のうちにあることは、先に示されている。ところで、作るべき事物の作る者のうちにある根拠が技術知である。だから、哲学者は『倫理学』第6巻で「技術知とは作られうるものの正しい根拠である」と言っているのである。それゆえ、技術知は神のうちに固有の意味において存在している。だから『知恵の書』7章21節で「万物の作者が私に知恵を教えた」と言われているのである。
同じく、先に示されているように、神とは別のことがらにおいて、神的意志が一つに限定されるのは神の認識によってである。ところで、意志を作用するように秩序づけている認識が思慮である。哲学者の『倫理学』第6巻において「思慮とは為され得ることがらの正しい根拠である」と語られているからである。したがって、神には思慮がある。そしてこのことを述べているのが『ヨブ記』26章(12章13節)の「彼のもとには」思慮と「剛毅とがある」という言葉である。
さらに、先に示されているように、神が何かを意志することによって、その何かに必要とされることがらをも意志する。ところで、何らかの事物の完全性のために必要とされることが、それぞれのものにとっての課されたことがらである。だから、それぞれのもののものをそのものに分配するという正義が神にはあるのである。だから、『詩篇』10篇8節で「正義の主は、正義を愛した」と言われているのである。
さらに、先に示されているように、神がそのために万物を意志する究極目的は、その存在に関してもそのどんな完全性に関しても、目的のための手段に少しも依存していない。だから、神が何かに自己の善性を伝えようと意志するのは、そのことで自分に何かが増し加わるためではなく、伝えることそのものが善性の源泉としての自己に適合しているからなのである。ところで、与えることによって期待される便宜のためではなく、与えることの善性と適合性そのもののために与えるということは、哲学者の『倫理学』第6巻において明らかなように、寛大さによる行為である。それゆえ、神は最高度に寛大なのである。そして、アヴィケンナが言っているように、固有な意味で寛大であると言われ得るのは神だけである。というのは、神を除く他のすべての行為者は、自己の行為を通じて意図されている目的である何らかの善を獲得するからである。ところで、聖書はこの寛大さを示し、『詩篇』104篇28節では「あなたの手が開かれると、万物は善性に充たされることになる」とあり、『ヤコブ書』1章5節では「すべてのものに惜しみなく与え、とがめることのない者」と言っているのである。
同じく、先に示されているように、神から存在を受け取っているすべてのものは、存在し善である限りにおいて神の類似性を身に帯びており、固有の根拠を神的知性のうちにもっている。ところで、哲学者の『倫理学』第4巻によって明らかなように、自分の造ったものや語ったことにおいて人が自分のありさまをそのまま示すことは、真実の徳に属している。したがって、神には真実の徳があるのである。だから、『ローマ人への手紙』3章4節で「神は誠実である」とあり、『詩篇』118(119)篇151節では「あなたのすべての道が真実である」とあるのである。
だが、何らかの行為に秩序づけられている徳のうち、上位のものへ従属するものどもに属する徳については、神に適合し得ない。たとえば、従順、敬神あるいはこのような上位のものへの義務となる徳がそうである。
a)さらに、前述の諸徳のうちの或るものに何らかの不完全な行為が属しているならば、その行為に関してはその徳は神に帰属させることができない。たとえば思慮は、善く熟慮するという行為に関しては神に適合しない。というのは、『倫理学』第6巻で語られているように、熟慮とは何らかの問いかけであるが、神的認識は探究的ではないことが先に示されているのである。すなわち、熟慮するということは神には適合的ではあり得ないのである。だから、『ヨブ記』26章3節では「あなたは誰に熟慮[助言]を与えたのか。おそらくは理解力のない者にであろう」とあり、『イザヤ書』40章14節では「彼は誰と一緒に熟慮をするというのか、また誰が彼に教えを与えることができたのか」とある。
b)だが、熟慮されたことがらを判断し是認されたことを選択するという行為に即する限りでは、神について思慮が語られるのに何の不都合もない。
c)とはいえ、時に熟慮ということが神について語られることがある。それは一つには、隠すということの類似性のためである。実際、熟慮は隠れてなされるのであって、だから神的知恵において隠されていることが類似性の故に熟慮と語られるのである。たとえば、『イザヤ書』25章1節の別の翻訳において「あなたのいにしえの熟慮は真となっている」と言われていることから明らかである。あるいはもう一つには、助言を求めている者に神が満足を与える限りにおいてそう語られるのである。というのも、尋ねる者に教えることは知性認識が水することなしにでもあるからである。
a)同様に、正義も交換という行為に関しては神に適合し得ない。神が誰かから何かを受け取るということはないからである。だから、『ローマ人への手紙』11章35節では「誰が主に先に与えて、主から報いを受け取るであろうか」とあり、『ヨブ記』41章1節では「高が私に先に与え、その者に私が返すというのか」とある。
b)だが、われわれは神に何かを与えると語るのであるが、それは類似性を通じてであって、神がわれわれが与えた者を受け取る限りのことである。それゆえ、神には交換的正義は適合せず、配分的正義だけが適合する。だから、ディオニシウスは『神名論』第8章で「神が正義において誉め称えられるのは、万物にその高貴さ応じて分配するものとしてである」と語っているのであるし、『マタイによる福音書』25章15節では「彼はそれぞれのものに固有の徳にしたがって与える」とあるのである。
a)だが、次のことを知らなければならない。前述の諸徳が関わっている行為は、それの概念からして人間的事象に依存しているわけではないのである。実際、為すべきことについて判断すること、何かを与えることや分配することは、ただ人間にだけ属しているのではなく、知性を持つどのようなものにも属しているからである。しかし、それらの諸徳が人間的事象に限定される限りにおいて、その事象から種を得ることになる。それはちょうど、鼻における窪みによって鷲鼻という種が成立するようなものである。よって、前述の諸徳は、人間の行為的生を秩序づけているかぎりにおいては、人間的事象に限定されている限りでの行為へと秩序づけられており、その行為から種を得ることになるのである。この様態においてはそれらは神に適合し得ない。
b)それに対して、前述の行為をそれのもつ一般性において理解する限りでは、神的事象にも適応可能である。実際、人間が金銭や名誉といった人間的事象の配分者であるのと同じように、神も宇宙のすべての善性の分配者なのである。したがって、前述の諸徳は人間においてよりも神においての方が、より普遍的な広がりを持つことになる。実際、人間の正義が国や家に関わっているように、神の正義は宇宙全体に関わっているからである。だからまた、神的徳はわれわれの徳の範型であると言われるのである。というのも、ランプの光と太陽の光の関係のように、限定され個別化されたものは絶対的な存在者の何らかの類似性だからである。
c)だが、神には固有の意味で適合しないような他の諸徳は、神的本性のうちにではなく、神的知恵のうちにのみ範型を持っている。神的知恵は、他の物体的事象についてもそうであるように、すべての存在者の固有な根拠を包含しているからである。
神には観想的徳があること
さて、観想的徳については、それが神にもっとも適合するということに疑いはあり得ない。
というのは、哲学者の『形而上学』冒頭によれば、知恵とは最も高度の原因の認識ということに存している。また、既に証明されているように、神自身はとりわけ自分を認識し、他のものを自分自身を認識することにおいて認識している。そして、神とは万物の第一原因なのである。以上から、知恵を神に最も強固に帰属させるべきであるということは明らかなのである。だから、『ヨブ記』9章4節で「心において知恵ある者である」とあり、『集会の書』1章1節では「すべての知恵は主なる神から来ており、彼とともに常にある」と言われているのである。さらに哲学者も『形而上学』冒頭において、知恵は「神的所有物であって、人間的な者ではない」と言っているのである。
同じく、知性とは事物の固有の原因を通じた認識である。また、神はすべての原因と結果の秩序を認識しており、そのことによって個別的なものの固有な原因を知っていることが先に示されている。したがって、神のうちに固有な意味で知識があることは明らかである。ただし、われわれの知識が論証を原因としているような意味で、推論が原因となっているような知識は神のうちにはない。だから、『サミュエル記上』2章3節では「神はもろもろの知識の主である」とあるのである。
さらに、何らかの事物についての非質料的認識には知性の推移がない。そして、神が万物についてこのような認識を持っていることが先に示されている。それゆえ、神のうちに直知があることになる。だから、『ヨブ記』12章13節で「彼は熟慮と知解とを持っている」とあるのである。
また、神のうちにあるこの諸徳は完全なものとして、不完全なものであるわれわれの徳の範型なのである。
神は悪を意志できないこと
さて、既に語られたことがらから、神が悪を意志できなことが示され得る。
すなわち、何らかのものがそれに即して善くはたらくとされるのが、その事物の徳[ちから]である。ところが、神のすべてのはたらきは徳のはたらきである。神の徳は自身の本質であることが先に示されているからである。したがって、神は悪を意志することができないのである。
同じく、意志が悪へと赴くのは、理性における何らかの誤謬、少なくとも選択されうる個別的なものにおける誤謬が現実存在する場合だけである。というのも、意志の対象は認知把握された善であるから、意志が悪へ赴き得るのは、その悪が意志にとって何らかの仕方で善として提示されている場合だけなのである。そして、これは誤謬がなければ不可能なことなのである。ところが、神的認識には誤謬があり得ないことは先に証明されている。したがって、神の意志は悪へ向かうことはできないのである。
さらに、先に証明されているように、神は最高善である。ところで、最高善は何か悪と連関した状態にはならない。それは最高度に熱いものが冷たいものとの混合の状態にならないのと同じである。したがって、神的意志は悪へと曲がることはできないのである。
さらに、善は目的の特質を持っているから、意志に悪が入り込み得るのは目的からの背反によってだけである。ところで、神的意志が目的から背反することはできない。先に示されているように、神は自己自身を意志することにおいてしか何ものをも意志し得ないからである。したがって、神は悪を意志出来ない。
こうして、神における自由決定力が本性的に善に固定したものであることが明らかである。
そして、このことを語っているのが『申命記』32章4節の「神は誠実で、不正がない」、『ハバクク書』1章13節の「あなたの目は清く、主よ、目を不正に向けることができない」という言葉なのである。
a)このことによって、神は罪を犯したことがあり罪から浄化されているとタルムードのなかで語るユダヤ人の誤謬が論駁されることになる。
b)また、神はルシファーを却下したことにおいて罪を犯したと言うルシファー主義者たちの誤謬も同様なのである。
神は何も憎まず、何らかの事物に対する憎悪は神に適合し得ないこと
さて、以上から何らかの事物に対する憎悪が神には適合し得ないことが明らかである。
すなわち、愛が善に関係しているように、憎悪は悪に関係している。実際、われわれが愛しているものに善を意志するのに対して、憎悪しているものには悪を意志するからである。それゆえ、先に示されているように、神の意志が悪へ傾くことができないとすれば、神が何らかの事物に憎悪を向けることは不可能なのである。
同じく、先に示されているように、神の意志が自分以外のものへ赴くのは、自己の存在と善性を意志し愛することにおいて、類似性の伝達によって可能な限り自己の善性を押し広げようと意志する限りのことである。これはつまり、神が自己以外の事物のうちに自己の善性の類似性が存在することを意志しているということなのである。ところで、神との類似性を分有するということが、それぞれのものにとっての善である。他の善性はどんなものでも、第一の善性の何らかの類似性でしかないからである。したがって、神はそれぞれの事物に善を意志している。だから、何ものも憎まないのである。
さらに、他のすべてのものはその存在の起源を第一存在者から得ている。それゆえ、存在するもののうちの何かに神が憎悪を抱くとしたら、それが存在しないことを意志しているのである。存在することがそれぞれのものにとって善だからである。それゆえ、その存在するものが存在へと直接的であれ間接的であれ産出される神の作用が存在しないことを神は意志していることになる。というのは、神が何かを意志しているならばそれに必要とされることをも意志しなければならないということが先に示されているからである。ところが、その神の作用が存在しないことを意志するということは不可能である。このことは、事物が存在へと進み出るのが神の意志を通じてである以上、明らかである。なぜなら、その場合には事物がそれによって産出される作用は意志的でなければならないからである。同様に、神が自然本性的に事物の原因である以上、不可能であることは明らかである。というのは、神の本性が神自身に満足しているように、神の本性が要求するすべてのことが神を満足させているからである。したがって、神はいかなる事物をも憎まない。
さらに、すべての作用的原因のうちに自然本性的に見いだされるものは、第一作用者のうちに際だって見いだされることが必然である。ところで、すべての作用者は自己の様態で自分の結果を結果である限りにおいて愛している。たとえば、親は息子を、詩人は作った詩を、技術者は作品を愛するのである。したがって、神はなおさらいっそうのこと、万物の原因である以上、いかなる事物をも憎まないのである。
このことが『知恵の書』11章25節で、「あなたは存在するすべてを愛し、あなたの造ったもののどれをも憎まない」という言葉によって語られているのである。
とはいえ、神が何を憎むということが喩えとして語られることはある。それには二種がある。
a)一つの様態は、神が事物を愛しそれの善が存在することを意志しながら、それとは反対のものである悪が存在しないことを意志していることによる。だから、神は悪への像をを持つと語られるのである。実際、われわれが存在しないことを意志しているものに憎悪を抱いていると言われるようにである。このことに即して、『ザカリア書』8章17節で「『おまえたちは心の中で自分のともに対する悪を思ってはならない。また偽りの誓いを愛してはならない。これらすべてのことを私は憎んでいる』と主は語った」とあるのである。だが、これは自存する事物としての神の結果ではない。固有の意味で憎悪や愛は自存する事物にだけ関わるのである。
b)もう一つの様態は、神がより小さい善の欠如なしには存在し得ないような何らかのより大きな善を意志することによる。この意味で神は憎むと語られるのであるが、これはむしろ愛していることなのである。実際、神は正義や宇宙の秩序を意志しているが、これは何らかのものの処罰や消滅なしにはあり得ない。その限りにおいて、神はその処罰や消滅を意志しているものを憎んでいると語られるのである。このことによって『マラキ書』1章3節で「私はエサウに憎しみを抱いた」とあり、『詩篇』5篇7節で「あなたは不正をおこなうすべての者を憎み、偽りを語るすべての者を滅ぼします。主は人の血と欺く者を厭われる」とあるのである。