神は生命をもっていること
さて、既に示されていることから、必然的に神が生命を持つものであることになる。
すなわち、神が知性認識するものであり意志する者であることはすでに示されている。ところで、知性認識と意志することは生命を持つものにしか属していない。したがって、神は生命を持つものである。
さらに、何らかのものに生きているということが帰属させられるのは、他者によってではなく自己自身で動いていることがみとめられることによる。そのために、大衆がその動者を捉えていない自己自身で動いていると思われるものを生きていると、われわれは類似性によって言うのである。たとえば、流れる泉の水は生きているというが、貯水槽や水たまりに留まっている水はそう言わないのである。また、ある運動を持っていると見える銀を生きた銀(水銀)と言うのである。というのは、固有の意味で自己自身で動いているのは、魂を持つもののように、動かすものと動かされるものとから複合されていることによって、自己を動かしているものなのである。だから、このようなものだけをわれわれは固有の意味で生きていると言うのであって、他のものすべては、生み出したり阻害するものを除去したり刺激を与えたりする何か外的なものによって動かされているのである。そして、感覚的はたらきは運動をともなっているから、さらに自己に固有のはたらきへと自己に働きかけるものはすべて、運動を伴っていないとしても、生きていると語られることになる。だから、知性認識すること、欲求すること、感覚することは生命の作用なのである。ところで、他者によってではなく自己自身によってはたらきをなすということが最大度に当てはまるのは神である。神は第一の作用原因だからである。したがって、生きているということは神に最大度に適合するのである。
同じく、神的存在が存在のすべての完全性を包括していることが先に示された。ところで、生きているということはある種の完全な存在である。だから、存在者の秩序において生命を持つものは生命を持っていないものよりも上位におかれるのである。よって、神的存在は生きることである。したがって、神は生命を持っているものなのである。
またこのことは聖書の権威によっても確証される。すなわち、『申命記』32章40節では、主の口から「言っておくが、私は永遠に生きる」と語られており、『詩篇』83篇3節では「私の心と私の肉は生きている神へと舞い上がった」とあるのである。
神はその生命であること
ここからさらに、神がその生命であることが明らかである。
すなわち、生きているもののと生命は生きていることをある種の抽象によって表示したものである。走行が事態としては走ることと別ではないのと同様である。ところで、生きているものの生きていることがそれの存在そのものであることは、哲学者の『魂について』第2巻において明らかである。というのは、動物が生きていると語られるのは、魂を持っていることによるのであって、動物はその魂を固有の形相とすることで存在を持っているからである。そうだとすると、生きるということはそのような形相から出てくるそのような存在以外の何ものでもないのでなければならないのである。ところが、神がそれの存在であることが先に証明されている。したがって、神は自身の生きることである生命なのである。
同じく、知性認識そのものがある種の生きることであることは、哲学者の『魂について』第2巻から明らかである。実際。生きるということは生きているものの現実態だからである。ところで、神が自身の知性認識であることが先示されている。したがって、神は自身の生きることであり生命なのである。
さらに、先に示されているように神が生きているのに自身の生命でないとしたら、生命の分有によって生きているものであるという帰結になってしまうであろう。ところで、分有によって存在するものはすべてそれ自身によって存在するものに還元される。それゆえ、神は何かより先なるものに還元され、それによって生きているということになってしまうであろう。これが不可能であることは先述のことから明らかなのである。
さらに、先に示されているように神が生きているものであるとすると、その内に生命がなければならない。それゆえ、神が自身の生命そのものではないとすると、神のうちに神自身ではない何かが存在することになるであろう。だとすると、神は複合したものであることにあろう。このことは先に反駁されている。したがって、神は自身の生命なのである。
そして『ヨハネによる福音書』14章6節の「私は生命である」という語られているのは、以上のことなのである。
神の生命は永久であること
さて以上から、神の生命が永久であることが明らかとなる。
すなわち、生命から切り離されることによってしか、何ものも生きることを止めはしない。ところで、何ものも自己自身から切り離されるということはあり得ない。というのは、あらゆる分離は何かが別のものから区分されることによって生じるからである。したがって、先に示されているように神が自身の生命である以上、神が生きることを欠くことは不可能なのである。
同じく、ある時存在しある時存在しないものはすべて何らかの原因によって存在するものである。まだ存在しないものは作用しないのである以上、何ものも自己自身を非存在から存在へと導き出すことないからである。とkろで、神的生命は何の原因も持たない。神的生命も持たないのと同様である。それゆえ、神がある時に生きていてある時に生きていないということはなく、常に生きているのである。したがって、神の生命は永久である。
さらに、どのようなはたらきにおいても、はたらきが継起によって過ぎ去ってしまうことはあるにしても、はたらくものはそのままである。だから運動においても、動かされ得るものは運動全体において、概念においてはそうではなくても、基体としては同じもののままなのである。それゆえ、作用が作用者そのものである場合には、何ものも継起によって過ぎ去ることはなく、全体が同時にそのままなのである。ところで、神の知性認識と生きることとは神そのものであることが、先に示されている。よって、神の生命には継起はなく、全体が同時に存在するのである。したがって、永久なのである。
さらに、神がまったく動かされ得ないものであることは先に示されている。ところで、生きることを始めたり止めたりするもの、すなわち生きることにおいて継起を受容するものは、動かされ得るものである。というのは、或るものの生命は誕生によって始まり消滅によって終わるのであるが、継起とは何らかの運動のゆえに存在するからである。それゆえ、神は生きることを始めることもないし、生きることを止めることもないし、生きることにおいて継起を受容することもないのである。したがって、神の生命は永久なのである。
このことゆえに、『申命記』32章40節では主の口から「私は永遠に生きる」と語られ、『ヨハネの手紙一』末尾では「これが真の神であり永遠の生命である」と語られるのである。
神は至福なるものであること
さて、前述のことから神が至福なることを示すことが残されている。
すなわち、知性的本性をもつどんなものにとっても、その固有の善は至福である。それゆえ、神が知性認識するものであるとすると、その固有の善は至福であることになろう。ところで、神が固有の善に対して、まだ得られていない善へと向かうものとして関係しているわけではない。このようなことは動かされ得る本性と可能態において現実存在するものに属することだからである。そうではなく、神は既に固有の善に到達しているものとして固有の善に関係しているのである。それゆえ、神はわれわれのように至福を欲望しているだけではなく、それを享受しているのである。したがって、神は至福なるものである。
さらに、知性的本性が最も欲望し意志するものとは、その本性において最も完全なものである。そして、これがそれの至福なのである。ところで、それぞれのものにおいて最も完全なものとはそのものの最も完全なはたらきである。能力と習態ははたらきによって完成されるからである。したがって、哲学者は幸福とは完全なはたらきであると言っているのである。
さて、そのはたらきの完全性は次の四つに依存している。
a)第一には、その類である。すなわち、はたらきがはたらくもの自身にとどまるものであることである。はたらきがはたらくもの自身にとどまると私が言うのは、そのはたらきそのもの以外に別のものが生じないようなはたらきのことである。たとえば、見ることや聞くことがそうである。実際、これらははたらきを持つものの完全性であって、それが究極的なものであり得る。なぜなら、何か作られたことへと秩序づけられそれが目的となっているのではないからである。それに対して、はたらきそのものの外に何か作用を受けたものが帰結するようなはたらきあるいは作用は、はたらきを受けたものの完全性であって、はたらいているものの完全性ではないのである。そして、そのようなはたらきははたらきを受けたものを目的としてそれに関係しているのである。それゆえ、知性的本性のこの種のはたらきは至福あるいは幸福ではないのである。
b)第二には、はたらきの原理である。すなわち、はたらきが最高度の能力によるということである。だから、われわれにおいて感覚のはたらきは幸福ではなく、知性のはたらきに即して、完成されたものの習態を通じて幸福は存在するのである。
c)第三は、はたらきの対象である。このために、われわれにおいて究極の幸福は最高度に可知的なものを知性認識することにおいて存するのである。
d)第四には、はたらきの形相である。すなわち、完全で、容易で、堅固で快い様態においてはたらきをなすことである。
e)さて、神のはたらきとは以上のようなものである。すなわち、[第一に]神は知性認識するものである。[第二に]神の知性は最高度のちからであり、それを完成するような習態を必要としない。なぜなら、神における知性が完全であることが先に示されているからである。[第三に]神は自己自身を知性認識しているが、それは最高の可知性を持つものなのである。[第四に]完全に、あらゆる困難なしに、快とともに知性認識しているのである。したがって、神は至福なるものなのである。
さらに、至福によってあらゆる欲望は静まる。なぜなら、至福が究極目的である以上、それが得られたならば他に欲望すべきものが残っていないからである。したがって、至福なるものとは、欲望できるすべてのことに関して完全であるものでなければならない。だからボエティウスは至福とは「すべての善が結合して完全な状態」だと言っているのである。ところで、先に示されているように、すべての完全性を何らかの単純性において包括しているのが神的完全性である。したがって、神は真の意味で至福なるものなのである。
さらに、何かにそれが必要とするものが欠けている間は、そのものはまだ至福ではない。なぜなら、それの欲望がまだ静まっていないからである。それゆえ、何も必要とせず自己自身で充足しているものは至福なものである。ところで、神が他のものを必要としないことは先に示されている。というのは、神の完全性はいかなる外なるものにも依存していないし、他のものを自己のために意志するといっても、他のものを必要とするような目的としての自己のためではなくて、自己の善性にとってそれが適合的であるからでしかないからである。したがって、神自身が至福なるものなのである。
さらに、神が何か不可能なことを意志できないということが先に示されている。ところで、神がまだ持っていない何かが神に到来するということは不可能である。神はいかなる意味に於いても可能態にはないことが先に示されているからである。それゆえ、神は自分が持っていないものを自分が持つようにと意志することはできない。それゆえ、神が意志していることは何であっても、それを神は持っているのである。また、何か悪を意志することができないことも先に示されている。したがって、神は至福なるものである。それは、ある人々が至福なるものとは意志していることを何でも持っており、悪を何も意志しないもののことであると主張していることによってである。
また、聖書も神の至福を宣言している。『テモテの手紙一』末尾で「至福なるものであり力あるものである神はその時に彼を示す」とあるからである。
神は自身の至福であること
このことから、神が自身の至福であることが明らかである。
すなわち、神の至福はその知性的はたらきであることが先に示されている。ところが、神の知性認識それじたいが神の実体であることをわれわれは先に示しておいた。したがって、神は自身の至福なのである。
同じく、至福とは究極目的であるから、それを持つことを本性とするもの、あるいは既に持っているものが主要に意志しているものである。ところで、神が自己の本質を主要に意志しているということが先に示されている。したがって、神の本質がその至福なのである。
さらに、どんなものでも自分が意志していることのどれをも至福へと秩序づけている。というのは、至福とは他のことために欲望されるものではなく、或るものを別のもののために欲望しているものの運動が、無限遡行しないために、そこへと終極するようなものだからである。それゆえ、神が自己の本質である自己の善性のために他のすべてのことを意志している以上、神とは自身の本質であり善性であるのと同様に、自身の至福でもなければならないのである。
さらに、最高善が二つあることは不可能である。なぜなら、その一方が持っている何かが他方に欠けているとしたら、そのどちらも最高の善でも完全な善でもなくなってしまうからである。ところで、神が最高善であることは先に示されている。また、至福が最高善であることは、それが究極目的であることから示されている。それゆえ、至福と神は同一である。したがって、神は自身の至福なのである。
完全で特別な神の至福は他のすべての至福を越えていること
さて最後に、前述のことにもとづいて神的至福の卓越性を考察することができる。
すなわち、あるものが至福に近ければ近いほど、それだけより完全に至福なるものである。それゆえ、何かが獲得すべき至福への希望の故に至福であると言われるとしても、その至福が既に現実態において獲得してしまっているものの至福には比べようがないほどのものである。ところで、至福に最も近いものとは至福そのものである。そして神について至福そのものであることがさきに示されている。したがって、神は特別な仕方で完全に至福なるものなのである。
同じく、先に示されたように快の原因となっているのは愛であるから、より大きな愛があれば愛されているものを獲得することでより大きな快もある。ところで、それぞれのものは他の条件が同じであれば、他のものよりも自己を愛する。何かが誰かにより近接していればいるほど自然本性的によりいっそうそれが愛されるということがその徴である。それゆえ、神は他の至福なるものどものがそれら自身であるものではない至福において快を持つ以上に、自己自身である自己の至福において快を持っているのである。したがって、神の欲望がよりいっそう静まっており、至福もいっそう完全なのである。
さらに、本質によってそうであるものは分有によってそうであると語られるものよりも強力である。たとえば、火の本性は火そのものにおいての方が火がついた事物においてよりもより完全に見いだされるのである。ところで、神は自己の本質によって至福なるものである。このことは他のどんなものにも適合し得ない。実際、神以外の他のものが最高善であるということはあり得ないことが、前述のことから明らかになりうるからである。そうすると、神以外の至福なるものはどんなものでも、分有によって至福なるものであると語られるのである。したがって、神的至福は他のすべての至福を越えているのである。
さらに、至福が知性の完全なはたらきにおいて存することがさきに示されている。ところで、神のはたらきと比較できるような他の知性的はたらきは何もない。このことは神のはたらきが自存するはたらきであるということから明らかというだけではない。さらに、神が自己を完全に知性認識するので、その一つのはたらきにおいて存在するものも存在しないものも、善も悪もすべての他のものをも認識するということからも明らかなのである。ところで、神以外の知性認識しているものにおいては、知性認識そのものが自存するのではなく、それは自存するものの作用である。また、そのどれかが最高の可知性を持つ神自身を、神のあるがままに完全に知性認識することもできない。というのも、そのどれにも神的存在ほどの完全な存在が属していなし、そのどれかのはたらきが自己の実体よりも完全であることもできないからである。また、神が作ることのできるすべてのものをも認識しているような何か他の知性認識するものが存在するのでもない。なぜなら、そうだとするとそれは神的能力を包括することになってしまうからである。また、他の知性が認識することのすべてを、その知性は同一のはたらきによって認識するのでもないのである。したがって、神は万物を越えて、比較を絶した意味で至福なるものなのである。
同じく、何かの一性が大きければ大きいほど、そのちからと善性はより完全である。ところで、継起的なはたらきは時間の様々な部分に即して分割される。それゆえ、そのものの完全性は継起なしで全体が同時にあるはたらきの完全性といかなる様態においても比較され得ないものである。とりわけ、瞬間において過ぎ去るのではなく永遠にとどまるようなはたらきはそうである。ところで、神的知性認識は継起を欠き、全体が同時に永遠的に現実存在している。それに対して、われわれの知性認識は、連続的なものと時間とがそれに付帯的に付け加わっている限りで、継起を持っているのである。それゆえ、神的至福は人間的至福を無限に越えている。それは、永遠という持続が流れる時間の今を越えているのと同様なのである。
さらに、われわれの幸福というものは、もしそれが現在の生においてあるとしたらとりわけこの世における観想というもののうちに存在しているのであるが、その観想は疲労、さまざまな仕事によって必然的に中断される。また、現在の生は誤謬、疑い、また様々な偶然のもとにある。そして、これらのことが人間的幸福というもの、とりわけ現在の生における幸福が神的至福とはまったく比較にならないものであることを示しているのである。
さらに、神的至福の完全性はそれが最も完全な様態ですべての至福を包含している点から考察されうる。実際、神的至福は、観想的幸福に関して言えば、自己と他者とについての最も完全で永続的な考察を持っているのであり、行為的至福に関して言えば、一人の人間の生命や家や国家や王国の支配ではなく、宇宙全体の支配を持っているのである。
また、偽りの地上的幸福はこの最も完全な幸福の何らかの影しか持っていないのである。
a)というのは、ボエティウスによれば、偽りの地上的幸福は次の五つのもののうちにある。すなわち、快楽、富、権力、身分の高位さ、それに名声である。
b)だが神は自己に関しては最も卓越した快を有志、すべての善に関して普遍的喜びを持っており、その反対のものが混じっていないのである。
c)また富に関しては、先に示されているように、神は自己自身においてすべての善の全き十善性を有している。
d)権力については、無限のちからを持っている。
e)身分の高位さについては、すべての存在者のうちの第一位とそれらへの支配とを有している。
f)そして名声については、どれほどであろうとも神を認識しているあらゆる知性による賛嘆を神は有しているのである。
このように特別な仕方で至福なる神に、世々に誉れと栄光がありますように。アーメン。